Ep07. オーガスト
「また、来た」
「あら、素敵なご挨拶ね」
とんっと軽やかに床に降り立つと同時に、愛し子からのちょっと小生意気な声が飛んできます。
相手が愛し子じゃなければ、ついうっかり爪をしまい忘れた前足でお膝をふみふみして差し上げるのですが。
やはり私も妖精ですから、愛し子に甘くなってしまうようです。
「ちゃんと食べましたのね。偉いですわ」
するりと愛し子の足に体を摺り寄せつつ、昨日届けたご飯が空になっていることを褒めます。
最初は悪魔からの食べ物なんて食べないと意地を張っていましたが、私が魔法でついうっかり口の中に押し込んでしまってからは調教された犬のように従順に食べるようになりました。
ええ、飴を与える時には鞭も必要と言いますでしょう。高貴な私には鞭などという野蛮なものは似合いませんが、仕方がありませんもの。
「魔力の具合も良さそうですわ」
触れた肌からは、初めて会った時のように魔力が漏れ出てくる様子は見られません。
「どうです? 魔法は使えました?」
「……使えた」
短い返答に、私は青い眼を細めました。
体の中にちゃんと魔力がおさまったことで、以前は暴発してしまった魔法がきちんと発動するようになったのです。
魔力などないと信じ込んでいた、いいえ、信じ込まされていた愛し子が一つ、自信をつけたようでした。
「偉いですわね」
尻尾を手首に巻き付けて褒めると、愛し子は藍色の眼をわずかに揺らしました。
まだまだ細い手首。でも食事をとれるようになったのと、魔法で水や火を使えるようになったおかげで不健康な印象はちょっとだけ薄くなりました。
ほんの、ちょっとだけ、ですけれども。
「では、今日は次の魔法を教えてあげましょう。水、火、風、土などの基本の魔法は一般的に誰でも訓練次第で使えます。人間には得手不得手はありますが、愛し子のように魔力が多ければ全属性は偏りなく使えるでしょう」
「基本の魔法は全部、できた」
「さすがですわ! しっかりと復習したのね」
「……暇だし」
ベッドに腰かけた愛し子の手に鼻先を擦りつけると、おずおずと小さな手が私の背に乗りました。
そして撫でることなくすぐに離れていきます。
愛し子の手で撫でてもらえたら、とても光栄なことですのに。残念ですわ。
いつか上手な猫の撫で方を教えて差し上げませんと。いえ、私は猫ではなくあくまで猫型の妖精ですけれど、こんなふわふわな毛を撫でないなんて損でしかありませんでしょう?
「基本魔法はできたなら、次は妖精や精霊を呼んで助けてもらう魔法はどうでしょう」
「……悪魔を呼び出すの?」
長い髪を後ろで結ぶようになったことで、露わになった藍の眼が私を睨みます。
あらあら、怖いこと。
「悪魔などではないと教えましたでしょう。精霊や妖精は自然界に住む人間の友です。この国の成り立ちから言えば、国王と肩を並べる貴き存在なのです」
私の説明に愛し子はまだ疑いの残る眼差しを向けてきます。
幼き頃から刷り込まれた考えというものは、なかなか消し去ることはできません。
「悪魔はおりません。いるとしたら、それは人の醜い心が産んだ虚構なのです」
「きょこう……」
「まやかしですわ。魔力の多いあなたを理解できず、自分が愚かで矮小な存在であることを認めることができず、悪魔といういもしない存在にあなたをしばりつけた。ちっぽけなゴミのような者が考えることです」
愛し子は私の言葉を理解できなかったのか、しばらく黙り込んでから「……僕は、悪魔じゃない?」とうつむいたまま尋ねてきました。
「悪魔ではありません。あなたは、すべての人から愛されるべき存在です」
「……全てじゃなくていい」
ゆっくりと顔を上げた愛し子が言いました。
「誰か、一人でいいから、僕のことを好きになってくれれば、それでいい」
なんと、謙虚で慎ましやかな子なのでしょう。
あらゆる美を詰め込んだ私は常に愛される存在なのは当然だと常々思っているのですが、愛し子もそのような存在であるのに全く興味がないのですね。
「私は、あなたが好きよ」
「……え?」
パチリと小柄な体に不似合いなほどに大きな瞳が瞬きます。
私の瞳が青く澄んだ晴れやかな空だとしたら、愛し子の瞳は夜を迎える前の静寂な空でしょう。魔力が高まった時に瞳の中で煌めく銀色は、夜の訪れを知らせる宵の明星のようです。
「う、嘘だ。僕を騙そうとしてるんだ」
「あら、嘘ではありませんわ」
強情な駄々っ子のように愛し子が私から視線を逸らします。でもその赤く染まった耳は、私の言葉を求めているようにも見えます。
「あなたの魔力はとても綺麗。眼も優しい眠りに誘うような夜の空。意志が強くて、でもちゃんと人の話も聞ける柔軟さもある。本当に私のことが嫌いだったら、料理の乗った食器ごと投げつけて追いだしてもいいのに、そんなことを考えもしない優しい子」
「そんな、酷いことを猫にしないよ」
「……あなたのご家族はそういう酷い人たちですけれど」
「え?」
「いいえ、何でもないわ。とにかく、私はあなたが好きなの。一緒にいたいと思ってるわ。だから、あなたもいつか私のことを好きになってくれると嬉しいの」
ふにっと前足を愛し子の太ももに乗せ、鼻先を触れ合わせます。鼻キッスというものですね。
高貴な私は自らキスを送るなど滅多にしないのですけれど、今はそうすべきだと思いましたの。愛し子への私の思いが決して嘘ではないという証に。
愛し子がくすぐったそうに体を揺らします。
「ふっ……ねぇ、名前は?」
一瞬目を細めて、再び目を開けた愛し子が尋ねました。いつも固く引き結ばれていた口元には、柔らかな笑みが浮かんでいます。
私は愛し子と目を合わせたまま、ゆったりと優雅に微笑んで大切なことを教えてあげます。
本当は、早く契約を結びたい。でも愛し子に心から愛されて、望まれて契約したい。そう願いながら。
「妖精は、名がありません」
「え? ないの?」
「ええ」
妖精王が私をキティと呼ぶのは、かりそめの名であり、猫をネコと呼ぶようなもの。
他に猫の妖精がいたら同じようにキティと呼びかけるでしょう。
「いつか、あなたが私のことを好きになって、一緒にいたいって思ったら名前をくださる?」
「僕が、名前を付けていいの?」
「ええ、もちろん。あなたが名前をくれたら、一生あなたのそばにいるわ」
「一生? ずっと? 僕を好きでいてくれる?」
「ええ。誰よりもそばで、あなたの味方でいて、あなたを愛して、守ってあげる」
「……本当に?」
藍の眼がゆらゆらと揺れます。愛情を求めて夜の海を漂う小舟のよう。
愛し子の心をなだめるように、細い手首にふわふわの尻尾を巻きつけます。
今はまだこの手が進んで私の体に触れてくることはないけれど、いつか笑顔でその腕の中に迎え入れてくれる日を願わずにはいられません。
「約束するわ。あなたが私に名をくれた日から、私はあなたと共にいます。でもこれだけは覚えておいて。妖精への名づけは契約。あなたが私のことを好きだという気持ちがなければ、私は一緒にいられないの」
「契約……僕が、ちゃんと好きだって分かるまでは、一緒にいてくれる?」
「もちろんよ。私もあなたに好きになってもらうように努力するわ」
この完璧で高貴な猫の妖精である私を好きにならないはずはありません。だから多少待つことなど、なんの苦にもなりません。
さすがに人間の一生分は待たされないとは思いますけれど。
ピンっと髭を立てて、愛し子の顔を覗き込むと、戸惑いの中にわずかな期待が見えました。
寂しい子を誘惑するような罪悪感がチクリと胸を刺しました。でもこれは愛し子のためでもあるのです。
「ね、私の名前はまだ決まっていないけれど、あなたの名前を知りたいわ? 教えてくれるかしら」
「……僕は、オーガスト。オーガスト・スフォルト」
「オーガスト。これからよろしくね」
青い眼を細めて微笑むと、オーガストはコクリと小さく頷きました。
可愛らしい愛し子との新たな始まりです。




