Ep08. どっぺるげんがー
「まぁ、素晴らしいわ。オーちゃん! 完璧な文字よ」
「ねぇ、そのオーちゃんってのはどうにかならないの?」
ノートに並ぶ美しい文字を見て、私は手放しにオーガスト、いえ、オーちゃんをほめたたえます。
ですがちょっとだけ気難しいオーちゃんは、誉め言葉を素直に受け入れられないようでツンっと唇を尖らせました。
「オーガストちゃんって呼びにくいでしょう?」
「ちゃん付けするからでしょ。普通にオーガストでいいのに」
「愛らしくて可愛らしくて素敵なオーちゃんには、オーちゃんが似合いますわ」
「……もう、なんでもいいや」
ゆらりと白い尻尾を揺らして主張すれば、オーちゃんは顔を赤くしてプイッと顔を背けました。照れてますのね。そんなところも可愛らしいですわ。
オーちゃんと契約に向けた前向きな関係を始めてすでに一ヶ月ほど。
毎日私が持ってくる食べ物を食べているおかげで、少しは肉付きが良くなりました。でもまだまだ健康にはほど遠い状態です。
人間の子供は明るい太陽の下、体を動かして体力をつけることも重要です。
この部屋は狭すぎますし、陽の光も全く入ってこない、子供にとっては劣悪な環境です。
滅多にこの部屋に使用人が来ることはありませんが、それでも部屋を抜け出すのがばれたり、外に出ているのが見つかるのは良くないですわね。
見つかってこれよりも悪い場所、例えば牢屋のようなところに押し込められることは避けなければなりませんわ。
「ドッペルゲンガーの魔法と、ゴーストの魔法を身に着けましょう」
「どっぺる?」
「簡単に言えば、オーちゃんがここにいなくてもいるように見せかける魔法です」
「もう一つは?」
「ゴーストの魔法は、いないように見せるものです」
「いないように見せてどうするの? いないならいない、でしょ?」
なんでそんな不可解なことをするんだという顔でオーちゃんが尋ねます。
納得できないことは何でも遠慮なく聞いてと言ったら、素直なオーちゃんはこうやって色々質問をしてくるようになりました。
家族には何も言うことなく、逆らうことなく来たオーちゃんが自由に話せる。それだけでも素晴らしい前進です。
「ゴーストは人には見えないので、例えば外に出ても誰にも気づかれないんですわ」
「……外に?」
「ええ。ドッペルゲンガーの術でオーちゃんがここにいるように見せておいて、オーちゃんは外に出る。そんなことも可能になるんですの」
私の説明に、オーちゃんの藍の瞳が大きく見開かれます。深い海のような、日暮れ時の空のような瞳。そこに銀色の星が輝きます。
興奮して魔力が揺らいでいるのです。
「外に……本当に、外に出られる?」
「オーちゃんがこの二つの魔法を見に着ければ、できますわ」
外へ出られることへの期待が、オーちゃんの瞳を、顔を輝かせています。ああ、美しい。
こんなにもささやかな事で喜ぶだなんて......公爵家の人間たちへの怒りが沸き起こります。
オーちゃんに間違った知識を与え、洗脳し、監禁し、虐待し、放置した者たち。
彼らへの怒りは私だけでなく、すべての妖精と精霊が抱いています。
今も、オーちゃんを怖がらせることがないように身を潜めていますが、彼らはずっとオーちゃんを見守ってきたのです。
この家に施された邪悪な魔術は、私が妖精の自我を取り戻した時に弱まりました。完全に消え去ってはいませんが、強い自我を持つ妖精であれば自由に出入りできるようになったのです。
今はまだ時ではありません。オーちゃんがこの家と決別する覚悟ができてから。
すべては愛し子の意思のもとに、我ら妖精は動くのです。
「じゃ、オーちゃん。まずはドッペルゲンガー魔法を覚えていきましょうか?」
「うん!」
暗い表情は消え去ったオーちゃんの輝く笑顔に、私は思わず太陽を見るかのように目を細めます。
契約は大事です。ですがそれよりも何よりも、オーちゃんがもっと幸せになれるように、オーちゃんのそばにいたいと心の底から思いました。
オーちゃんは妖精の愛し子であり、あふれる魔力を持ち、そして何よりも劣悪な環境に置かれてもくじけない強い心を持った子です。
そんな子に学べる環境を備えた上で、正しい知識を正しい手順で与えればどうなるか。お分かりですわよね?
「素晴らしいわ! オーちゃん! 完璧です!」
目の前に現れたのはオーちゃんの完璧なドッペルゲンガー。まだ熟練度が低いため自由に動くことはできませんが、簡単な指示であれば問題ないクオリティです。
「……ベッドに寝ろ」
オーちゃんが少し戸惑いつつも、指示を出します。するとドッペルゲンガーはのそのそと動き、ボロボロの毛布の中にもぐりこみました。
どこからどう見ても、オーちゃんが寝ているようにしか見えません。
「これで、大丈夫?」
「ええ。大丈夫ですわね。使用人の方はいつもご飯を置いていくだけでしょう?」
「うん。喋らないし、中にも入ってこないから」
「では問題ないですわね。魔法が上達したら遠くから動かしたり、ドッペルゲンガーが見ているものを見ることができるようになりますわ」
私が付け加えると、オーちゃんはじっとドッペルゲンガーを見てからゆるく首を振りました。今はまだできないのだと諦めたのでしょう。
「視界が共有できたら、外に出ても部屋の様子が確認できるってことだよね」
「その通りです。異変があったらすぐに部屋に戻れますわ」
「ありがとう。とても使い勝手の良い魔法だ」
この魔法は今は用途が少ないですが、利用シーンは幅広いのです。
命が狙われるような王族や貴族であれば、ドッペルゲンガーで敵の目を欺くことができます。たとえ拘束されても逃げ出すことができます。
もちろん、そんな危険な状況に陥る前に私が助け出しますが、それでも愛し子、オーちゃん自身が力を持たない理由にはなりません。
魔力がないと蔑まれ、悪魔と呼ばれたオーちゃんが、その呪縛を振り切り、自信をもって魔法を使えるようになること。
それは危険に備えることと同じくらいに必須なのです。
「ね! もっと魔法を教えてよ! 早く!」
「あら、オーちゃん。レディーに物を頼む態度ではないわよ」
ひらりと尻尾を揺らし、鼻先をくすぐります。
「わっ!」
ムギュッと目を瞑る愛し子。可愛い子ですが、私の理想とする立派な紳士になってもらうには時に厳しくしなくては。
「ほら、オーちゃん? 言ってみなさい?」
高貴な私に頼む時には、それなりの態度というものがありますのよ?
「……僕に魔法を教えてください。お願いします、レディー」
「ええ、いいわ。大好きなオーちゃんの頼みですもの」
ふわふわの体を寄せて、微笑みます。オーちゃんの手がそっと私の背を撫でて離れていきます。
遠慮がちな手が私に触れる度、心が躍ります。私は彼の不器用な愛撫のお返しに、鼻先をその小さな手のひらに寄せました。




