Ep20. ギル師匠
「そう、いいぞ。ゆっくり、下、下、上、上、右上、左上、右下、左下。そう、繰り返しだ」
小さな庭から大人の男性の落ち着いた声が聞こえます。
体を動かし始めてだいぶ時間が経っているというのに、その声にぶれはありません。
対して、彼の正面で一生懸命に木刀を振るうオーちゃんの顔面からは滝のような汗が流れ出、息も乱れています。
もうそろそろ終わりかしらと思っていると、案の定、若い騎士は「今日はここまで」と告げました。
オーちゃんは荒い息の間から「ありがとう、ございました」と礼を言って頭を下げます。
その汗をぬぐい、疲れを癒してあげたいですが、オーちゃんの成長のためにぐっと堪えます。これは私にも課せられた訓練なのですわね。
ギルと名乗る騎士がオーちゃんの前に現れてから、すでに季節が一つ変わろうとしています。
その間に起こった変化を一つ一つ挙げて行ったらきりがありません。
ですがその変化のほとんどがギルを通してもたらされたのは紛れもない事実であり、否定する余地は全くありません。ええ、悔しいほどに、全く!
「……ご主人、格好いい、の」
「まぁ、オーちゃんの師匠として認めてあげるわ」
彼は私がケネスに望んだ通り、オーちゃんの師となってくれました。それは剣術を含む体力づくりだけでなく、勉強の面でもです。
妖精の私ではオーちゃんに教えられることに限界があります。公爵家にある蔵書を読むにしても、それを読むための知識が必要なのです。
その点、ギルはこうやって特別な任務に当たれるほどの実力者であり、一般的な貴族教育を受けた貴族出身者です。
オーちゃんに必要なもの、それらを与えられるギルという青年。神経質で臆病者のウサギの妖精と契約できたことからも、その本質は穏やかな人だとも理解できます。
ただ、ちょっとだけ悔しいのです。オーちゃんの信頼と尊敬に満ちた眼差しを受けるあの男が!
……ああ、オーちゃんの輝かしい笑顔を見るだけで、心にできた染みのような嫉妬はすべて浄化されていくように感じますわ。
「オーちゃん、お疲れ様。ちゃんと水分取ってね」
「ありがとう、キラン」
「ギル先生も」
「おう、ありがとう」
亜空間から取り出したカップに水を注ぎ、二人の前にぷかぷかと浮かべると二人は慣れた様子でそれを受け取りました。
ギルを何と呼ぶかを決める時、”ギル様”と呼ぶのは本人が嫌がったので結局オーちゃんの先生だから、先生を付けることになりました。
様付けを嫌がったのは、愛し子であるオーちゃんにそんな風に呼ばせられないとのことでした。国王と並ぶ人物に様を付けられるのは、騎士として無理ですとか言っていましたわね。
そう、オーちゃんはこの国の愛し子だとはっきり認められました。
ギルはここに来てすぐ、オーちゃんを見るなり滂沱の涙を流して跪いて、「お会いできて光栄です、愛し子様」と告げました。
妖精と契約できるほど妖精と親和性の高い人間です。それゆえ妖精王の愛し子が纏う魔力を感じ、直ちに心が愛し子だと理解したのです。
それ以来、ギルは週に二回から三回、ゴースト魔法を使って屋敷に忍び込み、オーちゃんの教育にいそしんでいます。
「オーガスト様はいい騎士になりますよ」
「え? 本当?」
騎士に憧れを持ち始めているオーちゃんは目を輝かせます。
愛し子として正式に王宮に迎えられたらオーちゃんは騎士に守られる側になるというのに、可愛らしですわ。
「今は訓練のために身体強化を使ってないですけど、オーガスト様には潤沢な魔力がありますから。魔力で体力や筋力の底上げを行えば、長期戦でも短期戦でもどちらでも戦える騎士になるでしょう」
「やった! キラン! 聞いた!? 僕、強い騎士になれるって!」
「ええ、素敵ですわね」
満面の笑みで喜ぶオーちゃんに、ゆったりと尻尾を揺らして答えます。
まったく、ギルったら余計なことを言わないで欲しいですわ。
キラリと鋭い眼差しをオーちゃんにばれないようにギルに向けると、ギルは慌てて取り繕うように言いました。
「いつか、王宮とか、どこかの城とかに住むようになったら、私を雇ってくださいね」
「え、ギルは騎士団はやめちゃうの?」
「騎士団員として愛し子の警備に派遣されることはあるかもしれません。ですが、もっと近いところでオーガスト様の専属として働かせていただきたいですから」
「……考えておく」
「ええ、時間はありますので、考えておいてください」
年上男性、しかも教える立場のギルからの要望にオーちゃんは曖昧に頷きました。
座学と実践の授業が終わり、小さな部屋で簡単なお茶会を開きます。
これも貴族としてのマナーや作法の勉強の一部と言えるかもしれません。
オーちゃんが子供には少し大き目なカップを慎重に手に取り、音を立てないように茶を飲んで戻します。完璧ですわ、さすがオーちゃん。
ふさっと尻尾を揺らすと、それが視界に入ったのか、オーちゃんが目を細めて笑いました。
「今度、ゾルバーンから使者がくるそうです」
「本当ですの? 何をしに?」
憎いあの魔術を仕掛けた国の者が、なぜこの王国に来るのでしょう。
もしオーちゃんに酷いことをしようとするのなら、眉も目も鼻もこの鋭い爪でこそげ取って二度と人前に出られない顔にしてやりますわ!
無意識にカシカシと椅子の座面に爪を立ててしまいました。
「友好訪問とのことですが、我がウィーレリア王国内の状況を調べるため、というのが国王陛下と宰相殿の考えです」
「それって、つまりは愛し子であるオーちゃんをいじめてる影響が出てるかを確かめるためなのよね?」
「そういうことですね。そして完全に祝福が回復していないものの、状況が安定してきていることを悟ればオーガスト様をいたぶるために、あるいは殺すために公爵家に来るでしょう」
「そうね。使節団と一緒に魔術師を送り込んで、友好的な顔で公爵家と接触して、この屋敷を訪れるでしょうね。あの馬鹿な公爵はそれを何の疑いもなしに受け入れるはずですわ」
「さすが。キラン様はお詳しい」
「ね! キランは天才だよ!」
意味深に微笑むギルと、満面の笑みのオーちゃん。
ギルを視界から押し出して、オーちゃんにだけ微笑み返します。
ギルとその契約妖精が来だした頃、いくつかの質問をされました。彼が今まで出会った妖精と私は全くことなるように見えるからだそうです。
ええ、私はどの妖精よりも高貴で気高く美しい妖精です。しかしそれだけではなく、喋り方や知識量も他の妖精を遥かに凌駕する域にいると。
単に愛し子に選ばれた妖精だから、というだけでは納得できないほどの差があるのです。
ですがそれが何だと言うのでしょう。確かに私は唯一無二のオーちゃんのそばにいるに相応しい存在であるというだけです。
時折、ほんの少しだけ不安になる時もありますけれど、オーちゃんのそばにいて、オーちゃんが笑ってくれるだけで胸の奥の痛みは消えるのです。今は、考えないでおきましょう。
「それで隣国からの使者が来たら、この家に必ずオーガスト様の様子を確かめに来るはずです。それに対しての策を検討中です」
「すぐにこの家から保護してくれるのではなくて?」
私の質問にギルは曖昧な笑みを浮かべました。
これは人間が使う笑みの中で私が最も嫌いな笑みです。誤魔化し笑いというやつですわ。
「まさか、オーちゃんを使って公爵家の罪を暴こうとか、隣国との交渉に優位に立とうとか思ってるんじゃないでしょうね?」
「あー、キラン様は本当に妖精なんでしょうか?」
「妖精よ!」
パシッと雷の魔法を放つとギルは両手を上げて降参の意を示しました。まったく、余計な口を叩く男は嫌われますわよ。
ウサギの妖精が彼の足元でうずくまって小さく震えています。申し訳ないことをしましたわ。でもあなたのご主人様が悪いのよ。
それにしても、あの国王は政治家としては優秀なのかもしれませんが、ウィーレリア王国にとって愛し子がどんなに重要な存在なのかを分かっていない気がします。
以前だって……
(以前だって?)
どうしてでしょう。私は国王に会ったことなどないはずですのに。
いえ、会ったことがあるのでしょうか。ただ私の記憶にないだけで──
今度、オーちゃんの許可をもらって妖精王様に会いに行った方がいいかもしれませんわね。




