第9話 十三の復讐手記
アンナを下がらせ、ようやく訪れた私室の静寂の中で、私は先ほど彼女が街から買ってきたばかりのノートを見つめた。少しばかり三歳児の読み書きのような文章を最初に入れてしまったがまあいいだろう。
「確か……この術式だったかしらね」
私はノートの表紙に小さな左手の指先をそっと当てながら、体内の魔力をじわりと流し込み、【究明共鳴】を発動した。というのもこのノートの存在は、どれだけ隠したところでアンナが気にするに決まってる。
だからもう一つ『ノートを作るのだ』。そのための基本魔法が【究明共鳴】というものだ。使ったことはないが概要は知ってる。物質を完璧に複製するには、何よりも強固な完成形のイメージが大事になる。
そして、魔力の触診による、その物質の組成に関する詳細な情報が必要不可欠だ。私の頭の中に魔法によって物質の構成が流れ込んでくる。
このノートは、木材の繊維から生成。表紙の革には、特殊な染料インクが奥深くまで染み込んでいる。綴じ目の糊の成分が複雑に合わさって結合を強くして……繊維の密度をさらに細かく……。
私はどんどんと、手元にあるノートの組成成分を、魔法によって網羅的に解析していく。手のひらから、ドクドクと魔力が急速に抜けていく感覚。
中途半端な土魔法で物質を複製すると、後で複製した偽物側の物質が結合を保てなくなり、ノートは時間の経過とともに、ただの土くれへと還ってしまう。
だから丁寧に、丁寧に、一つ一つの細かい粒の結合を作り上げ、どれだけ時間がかかろうとも完璧な複製体を作る。効率は度外視で良い。これは、市場で売るための品ではないのだから。
頭の中で完璧にその構造をイメージし、どれほどの時間が経っただろうか。
【私のノートよ。私の意志に従い、今ここに形をなせ】
不思議と、前世の記憶の底からしっくりくる詠唱の言葉が頭に浮かんできた。その言葉を小さな唇から紡いだ瞬間、私の右手の指先に、魔力が実体化して作り上げられ、『もう一冊のノート』が、確かに握られていた。
「よし」
私はその魔法で生み出したノートを手に取った。そして、耐久性を確かめるために両手で軽く引っ張ってみる。
――破れそうにない。
今度は三歳児の全力を込めて、グッと強く引っ張ってみる。そうすると本物の紙と変わらず、ビリッとわずかにだが破れる音がした。
「初めてにしては、なかなか上手に複製できたわね」
元になった本物のノートと、見た目も質感もほぼ完璧に同じものが出来上がっている。
これは土魔法の応用の一種なのだが、本来は極めて繊細な魔力操作が必要とされる魔法であり、私では、とてもではないけれど芸術的な工芸品レベルのものは作れない。
だが、大量生産されるような日用品を、魔力強化によって『ただ頑丈に複製する』だけなら、そこまで不可能な難易度ではない。
「さてと。――じゃあ、中身をしっかりと書き込まなくてはね」
部屋の扉のすぐ向こう側には、私を見守るための夜番のメイドが常に直立不動で控えている。だが、この私室の内部には、誰の影もない。私は机の上の魔導ランプへ、ぽっと小さな、明かりを灯した。
誰にも起きていると察せられないよう、手元だけを辛うじて照らす程度に明かりを小さくする。
今日はお母様と『早く休む』という約束を交わしていたが、今の私はその約束を完全に消去していた。
万年筆を小さな右手に握り締め、アンナに買ってきてもらった本物のノートを『表向きの日記帳』として脇に避けると、本来の目的に着手するために、魔法で複製した『もう一冊のノート』を開いた。
私の一度目の人生における、あの短くも凄惨な生涯。
そのすべてを、思い出せる限り思い出し、この紙へと記さなければならない。そして、私を奈落へと突き落とした数多の人間たちの中から、この手で確実に『復讐すべき相手』を、選別しなければならない。
これだけは、眠ることを拒否してでも、優先させねばならない。
本来なら、私を裏切り、見捨てた者すべてに等しく復讐すべきだが、記憶を遡って深く考えると、あの最終局面において私を裏切った人間を数え上げれば、文字通り両手両足の指を使っても到底足りない。
多すぎるのだ。
何より、三歳の今においては、私をまだ一度も裏切っていない人間、あるいは私と出会ってすらいない人間も、その中にはかなりの数が含まれている。
それを厳格に言い出してしまえば、あの忌々しい村娘ですら、現時点では私に対して何の実害ももたらしていないため、復讐の対象から外れかねない理屈になってしまう。だが――、
「……あの女だけは、絶対に別よ。何があっても、あの女だけは私の復讐リストから外れることは万に一つもあり得ない。必ず、この手で、最も無様に、最も残酷に殺してあげるわ」
どんなに時を隔てて思い返してみても、内臓が煮えくり返るほどの激しい怒りしか湧いてこない女。
そもそも、前世の入学式の日に初めて出会ったあの瞬間から、私はあの女のすべてが心の底から気に食わなかったのだ。というのも、あの時、廊下で正面からぶつかってきた瞬間だ。
あの女は、明らかに『わざと』私を目掛けてぶつかってきた。明確に、そう確信できるだけの不自然さがあったのだ。
私は前方から歩いてくるあの貧相な女の姿に、かなり手前から気づいていた。そして、向こうも確実に、私と一瞬だけ真っ直ぐに目が合っていたはずなのだ。
それなのに、あの女は避けるための足捌きを一切見せることなく、文字通り私に向かって突っ込んできた。それからの学園生活においても、あの女のやる事なす事すべてが私の神経を逆撫でした。
その最たるものが、私という公認の婚約者が存在していることを知らないわけがないのに、エリック皇子へと躊躇いなく近づき、親密な関係を築き上げていったことだ。
貴族の作法を語る以前に、一人の人間としての最低限の常識として、すでに婚約者のいる男性に対して、独身の女性が節操なく距離を詰めて仲良くなるなど、絶対的なタブーであり不貞の極み。
「最初は、誰もが当然のようにあの村娘の行動を常識外れだと蔑み、批判していたのよ。……あの頃は、学園のほとんどの人間が、皇子の婚約者である私の味方だった」
その風向きが、ガラリと変わり始めたのは、あの女が魔法使いとしての異様な才能。それも、『回復魔法』の領域において、帝国の歴史上に前例が皆無なほどの奇跡を連発し始めてからだった。
何しろあの女は、当時、あらゆる名医や高位の魔法使いがサジを投げ、死の淵を彷徨っていた帝国宰相の最愛の細君を、一瞬にして完全なる健康体へと回復させてみせたのだ。
「それは……確かに凄まじい偉業だわ。そこだけの事実なら、私も一流の魔法使いとして評価はしてあげる。現にあの時の私は、これほどの奇跡を起こす聖女相手ならば、最愛の皇子を奪われるのも仕方のないことだと、半分は絶望と共に諦めかけてすらいた。……けれど、あの強欲な村娘の欲望は、それでは到底収まらなかったのよ」
あの女は、恥知らずにも、今度は恩を売りつけた宰相の息子ヴォルターにまで、その手を伸ばしたのだ。ヴォルターは魔法の才能とともにその天才的な頭脳も評価された、神童の一人だった。
何しろ初等学園の頃から、大人がこぞって経済や政治の相談に訪れるほど、ヴォルターの頭脳は天才的であった。私から見れば、あの女はその頭脳が欲しかったのだとしか思えない。
世間の目には、ヴォルターの方が村娘に執着して言い寄ったように映っていたようだが、私の目は騙せない。
どう見ても、あの村娘の側から、ヴォルターの心の隙に付け入るようにして、執拗に色目を使って誘惑していた。そして私は、皇子の次にヴォルターが婚約者になるはずだったのに、容赦なく断られた。
そこからは、まさに堰を切ったような地獄の始まりだった。
将軍家の若き豪傑ガイン、大公家が誇る至高の音楽家ジュリアン、そして私が凋落していく最大の原因となった、お父様が妾に産ませた忌むべき義弟、キース。
村娘は、自身が乱発する回復魔法の圧倒的な『奇跡』と、男の理性を狂わせる天性の『男たらし』の能力を用いて、後に全員が例外なく世界最高峰の『S級』へと覚醒することになる五人を、次々と自分の所有物へと変えていった。
「最終的には……あの、強大になりすぎた五人の全員が『村娘を盲愛している』という一点、そしてその村娘自身が『帝国に対して表向き従順である』という構図から、逆ハーレムという、過去の帝国の歴史上、いかなる高貴な女性であっても構築を許されなかった特権関係が、公式に認められ、存在し続けるようになってしまった」
間違いなく、その理不尽の煽りを最も致命的に受けたのは、同年代として一番身分が高かった公爵令嬢であるこの私であり、そして、あの当時に彼らの正妻となるはずだった高位貴族の女子たちだった。
本来の歴史のままであれば、私を筆頭とする名門の令嬢たちが、義務と誇りを持ってあの五人の大貴族たちとそれぞれ結ばれ、帝国の存続を支えるはずだったのだ。
それを、たった一人の女が、己の浅ましい愛欲のためだけにすべて強奪し、独占してしまった。
当然、初期における貴族社会からの反発と糾弾は凄まじいものがあった。村娘は何度も、夜会や学園の裏庭で怒り狂う貴族の女子たちから不貞を問い詰められ、糾弾された。
しかし、そのたびに彼女の前に立ち塞がり、彼女を庇い立てしたのが、当事者であるあの五人の男たちだ。
そして、最後まで引き下がることなく、彼らの矢面に立ち続けた私こそが、あの五人から最も深く、最も激しく嫌悪される存在へと祭り上げられていった。
私が社会的に失脚し、公爵家を追われて泥を啜るように落ちぶれると、それまで村娘に真っ当な文句を言っていた他の貴族の女子たちも、恐怖に怯えて完全に勢いを失い、沈黙したそうだ。
何よりも、村娘が有する圧倒的な光の魔力の実績が、そして帝国中から寄せられる『聖女』としての熱狂的な名声が、すべての不満と正論を力尽くで黙らせてしまった。
「どうして……どうしてあの時、私はっ」
前世の記憶をノートに書き記す私の小さな体から、抑えきれない怒りのオーラがゆらりと漏れ出していた。けれど、どれほど感情が渦巻こうと、脳の芯だけは氷のように冷えていた。
あの時、何をどう選択していれば、あそこまで惨めに行き詰まることなく破滅を回避できたのか。そして、この二度目の人生で完璧な復讐を成し遂げるためには、世界のすべてを無策に敵へ回すわけにはいかない。
けれど! 私の魂が、誇りが絶対に許さない『明確な大罪人』だけは、何があっても必ずこの手で屠る。
「……全部で、『十三人』ね」
私は万年筆の先で、ノートに書き連ねた名前に斜線を引きながら、その数字を数え上げた。私の手で直接、その命の灯火を消し去らねば、この胸の抉られたような怨恨が永遠に晴れることはない。
その対象が、私にはきっかり『十三人』いることを確認した。
ただ、この大罪人のリストに連なる名前の中で、三人だけ、私が現時点で誰が復讐対象なのかはっきりしていない人物がいる。二人はなんとなく見当はついているが断定はできていない。
しかし最後の十三人目に関しては、誰なのかさっぱりわからなかった。最後の最後までその影すらつかめなかった相手。それが一人だけいると明確に分かっていた。
「誰があんなものを渡したのか……」
私は考えながらも結論が出るわけがないと首を振って、ノートの中に記した村娘の名前とエリック皇子達に目を向けた。
「あの化け物たちも、まだ私と同じ三歳児か……」
現時点で殺せれば一番簡単なのだが、残念ながらその方法がなかった。今の私はこの屋敷から一人で出ることすらできない。それでは復讐などできるわけもなかった。
「早く自由を手に入れなければ」
ともかく、これからの私の基本的な立ち回りとしては、このノートに記された十三人の首を、一人ずつ静かに、確実に刈り取っていく方向で進める。
「……待っていなさい。誰一人として、この私から逃がしはしないから」
脳裏に去来する凄惨な記憶の断片を、整理もろくにしないまま、ただ感情の赴くままに紙面へと書き殴っていく。とてもこの一夜だけで書き尽くせるような量ではなかった。
村娘と逆ハーレムの五人、私たちを切り捨てたお父様、そして残りの六名。
比較的容易に、事故を装って殺せるであろうと思える相手も数名はいる。
しかし、最も殺したい村娘においてはそれが一番難しい。
なにしろ彼女はかなり小さい頃から光の精霊に守護され傷つけることができない。そして、お父様のように公爵家そのものの権力の頂点にいる者など、どう考えても今の私では殺せない相手もいる。
「焦る必要はないわ。時間をかけて、すべてを完璧に成し遂げなければね……」
決意を頭の中で反芻しながら、私はようやく、万年筆を机の上へと置いた。




