第10話 三歳児の秘密
「……全く。夜中に眠りもせずに、私はなんて勤勉なる反逆の徒だこと」
万年筆のキャップを締め、私は誰に聞かせるでもなく、自嘲気味な小さな呟きを漏らした。一度目の人生を吐き出し、復讐のノートにひとまず今日は記し終えた。
さあ、今度こそこの頼りない三歳児の肉体を眠りにつかせよう。
そう思って息を吐いたものの、私の理性がすぐさま次の問題を思い出させた。
アンナに街から買ってきてもらったこの本物のノートと、魔法によって完璧に複製した『もう一冊のノート』の処遇だけは、今夜のうちにどうにかしておかなければならない。
これを怠れば、明日の朝にでも致命的な面倒に繋がってしまう。
私はまずアンナが買ってきたノートを引き寄せた。そして再び万年筆を取り、その白いページに文字を黙々と記していく。こちらは万が一誰かに見られた際の『偽装用』の日記帳だ。
今日起きたことを日記形式で一日分だけ、表向きの体裁を整えて書けばいいだけなので、その作業はすぐに終わった。実際に後で自分が読み返すのにも役立つから、意外とちゃんと書いておいた。
「さて、問題はこの一冊の隠し場所ね」
日記は誰に見られても問題のない内容しか書いていないが、私の一度目の人生を全て書きなぐったこちらのノートは見られたら終わりである。だから私はこれを隠さねばならない。
しかしこれを隠す難易度は高い。
何しろ、専属メイドであるアンナたちが、毎日どれほど丁寧に部屋の隅々まで掃除をしようとしたとしても、絶対に、天地がひっくり返っても気づかれない場所に保管しておかなければいけない。
そして今の私は、三歳児。誰か他の者の――例えばお母様の気分や家令の権限によって、模様替えと称して突然室内の家具が丸ごと買い替えられてしまう可能性だって否定はできない。
だから、単純にタンスの裏や引き出しの奥に隠すというのは、悪手の中の悪手だ。
「うーん……」
ベッドの下もダメだ。私のベッドはまだ子供用の小さなサイズで、私が成長して大きくなれば、当然のように大人用のものへ突然買い換えられる可能性が極めて高い。
そういう物質的な変動の危険が、この先十数年にわたって一切発生しない安全な場所――。
私は、月明かりが美しく差し込む石造りの静謐な寝室で、誰にも見られてはいけない秘密のノートを小さな手に握り締め、机の椅子から静かに立ち上がった。元より隠す方法が一切ないのであればこんなものを記さなかった。
向かったのは、部屋の最も奥まった隅。重厚なタペストリーの影に隠れた、床板の上だ。私はその場にそっと跪き、小さな指先を冷たい床へと触れさせた。
【身を隠せ】
魔力を込めて低く呟いた瞬間、古びたオーク材の表面が、まるで水面に投げた小石のように、柔らかな波紋を描いて歪んだ。土属性の魔力が木材の結合を緩め、硬いはずの床を、底なしの泥のようにドロドロと溶かしていく。
私はその泥の隙間へと、秘密のノートを迷わず深く押し込んだ。ノートの頭が完全に木材の底へと呑み込まれたのを確認し、泥の中に沈んでいた指をゆっくりと引き抜く。
【綴じよ】
そして最後にもう一度、魔法の終わりを告げる緊束の呪文を紡いだ。
次の瞬間、液体のように波打っていた床は瞬時に元の硬質な材質へと戻り、そこには元通りに磨き上げられたオーク材の美しい木目だけがあった。
これなら、メイドたちも、ちょっと過保護でうるさいお母様も、私の秘密の核心にたどり着くことはできないだろう。
「ふう。これでようやく、眠れるわね……」
私自身もその日は完全に疲れ切っていた。復讐の道筋を記し、偽装の仕込みまで終えた。肉体的な限界を迎え、ベッドに吸い寄せられるようにしてふかふかの布団の中へと潜り込む。
そうすると、意識を保つ間もなくそのまま深い眠りについていた。
翌日の朝、朝食を淑女らしく平らげた私は、ステップを忘れないようにするためにダンスのレッスンを行った。とはいえ、まだ三歳の幼い肉体だ。体に過度な負担をかけないよう、今までほど苛烈ではない程度に留めておく。
午後からは、イメルダ先生とお母様も交えて、私の今後の教育方針について話し合うことになっていた。本来なら、たかだか三歳の子供の意見など無視して大人の都合だけで話し合われる内容である。
しかし、お母様も私のこの一ヶ月の劇的な変化を見て思うところがあったらしく、その話し合いに私を同席させることには賛成してくれた。
大人たちとの話を控えた午前中、私には、もう一つ、早い段階で手を打っておかなければいけないことがあった。
「……問題はお兄様ね」
お兄様の問題も、できる限り早く対応したかった。というのも、あと一年でお兄様はアトラス帝国初等学園に通い始めるのだ。
その時、新入生を待ち受けているのが『魔力測定』というものなのだが、形式的には『精霊召喚の儀式』と呼ばれている。しかし実際には精霊を召喚できる子供などこの帝国でも年に一人いるかどうかだ。
だから、精霊の召喚は今はいい。
ただ、我が公爵家のお兄様は、根が優しくて無害なのはいいのだが、同時に『努力』という泥臭い行為が絶望的に嫌いな人間だった。
どういうわけか昔から全く自分を鍛えようとせず、前世の歴史における入学時の魔力測定では、『魔力値8』という、貴族の嫡男として、あり得ない平民以下の数字を叩き出してしまったのだ。
「これによって、お兄様は一気に周りの信用と期待を失う。そこから……ずいぶんと家の中と外で、お兄様の行動が変わっていってしまったわ。入学まで、残り一年。それまでにお兄様の努力を嫌う悪癖と、その致命的な魔力の低さを、私の手でなんとかして差し上げないと」
気が弱くて、やる気がなくて、最後の最後の瞬間まで結局なにも成し遂げられなかった弱い人間の典型のような兄。
でも、あの人は、一度目の人生の最期を迎えるその時まで、私に対してただの一度も裏切らない家族でもあった。
「……」
私は決意を固めて私室を後にし、長い廊下へと出た。部屋の扉の前には、いつも通り私の警護についているメイドの姿があった。
それは『戦闘メイド』と呼ばれる、有事の際には一騎当千の戦闘能力を発揮する戦闘技能特化の娘たちで構成された精鋭だ。
我がバランシエール公爵家は、財力に物を言わせてこの騎士にも勝る精鋭を抱えていた。
「今日は、シグニが当番なの?」
「はい! お嬢様、シグニですよ。今日もバッチリ警護いたします!」
話しかけると、シグニは親しみやすい笑みを浮かべて微笑んできた。そしてそのまま後ろについてこようとする。
「すぐ隣のお兄様の部屋に行くだけだから、わざわざついてこなくていいわよ」
「えっ、そうなんですかぁ……?」
シグニは一瞬にして、目に見えてあからさまに残念そうな顔をした。扉の前でただ直立不動で立っているだけだと暇だから、朝の散歩にでもいいからついていきたかった、という本音がその顔に丸出しになっている。
「ふふ、相変わらずお前は、考えていることが顔に出やすいわね」
「あ、うん。なっ、何の話でしょうか、お嬢様!」
赤くなって誤魔化す彼女の言葉にはあえて答えず、私はすぐ隣に位置するお兄様の部屋へと歩いた。後ろから、ただ隣の部屋に移動するだけだというのに、シグニが『大丈夫かしら』と言いたげな心配そうな視線を投げかけてきているのが気配で分かった。
まだそういえば三歳だったわね。
そんなことを思い出しながら、すぐ隣のお兄様の部屋の前に立った。お兄様の部屋の前には、同じくお兄様付きの戦闘メイドであるカミラが、鋭い佇まいで直立していた。
だけど、妹である私がお兄様の部屋を訪ねるのを、彼女が見咎めるはずもなかった。カミラは静かに一礼して道を譲る。
私は淑女としての礼儀正しさを保ちながら、しっかりと三度、ノックの音を響かせた。
「……誰?」
「フレデリカですわ、お兄様。少しお話をしたいのですけれど、よろしいですか?」
「フレデリカ……っ!? い、嫌だ! 今は入らないでくれ!」
あら、どうしたのかしら。
この拒絶は、ただの子供特有の一時的な癇癪みたいなものか。
「本当、仕方のないお兄様ね」
私はその理由を頭の中で分析しながらも、お兄様の拒否を完全に無視して、背伸びをしながら小さな手で部屋のドアノブを回そうとして届かず、カミラに開けてもらった。
「えっ!? ちょ、ちょっと、何で勝手に入ってくるんだよ!?」
部屋の中には、まだ五歳の、信じられないほど愛らしいお兄様がいた。少し小太りで、何をやらせても鈍臭いところのあるお兄様だけれど……私はこの世の男の中で、お兄様が一番好きである。
他の男は、これから先ほとんどが私と敵対するか裏切るかのどちらかだから基本的に大嫌いだ。
「そんなの決まっていますわ。可愛い妹がお話ししたいと言って訪ねてきているのです。断る権利など、最初からお兄様にはありません」
私は精一杯、三歳児としての愛らしさを前面に出して可愛らしく言ってみせた。現在の私の顔立ちは、客観的に見ても非常に愛らしく、破壊力は抜群のはずだ。それなのに、なぜかお兄様の顔は引き攣っている。
「お兄様、まさか食中毒にでもなりましたか? なんだか、酷くまずいものでも口に含んだかのようなお顔をされていますわよ」
「いや、だから、勝手に入ってこないでくれって言ってるんだよ!」
五歳児の分際で、なんだか一生懸命に抵抗していて大変に可愛らしいですわ。
「嫌ですわ。入ります。ほら、もう完全に入っちゃいました。嫌なら力尽くで私を廊下へ押し戻してくださいまし。押し戻さないということは、入室を許可してくださったということですね。さあお兄様、ほら、楽しくお話ししましょう。ここに座ってくださいな」
カミラが微笑ましそうに扉を閉め、私は小さな体でお兄様のベッドへとよじ登り、ちょこんと腰を下ろすと、自分のすぐ横のスペースを小さな手のひらでポンポンと叩いて彼を促すのだった。
「そ、それ僕のベッドだし!」
「知っておりますわ。ほら、早く座って」
「僕の言うこと全然聞いてない!」
「聞いてますわ。ほら、早く座って」
「やだよ、絶対に座らない! なんだか最近のフレデリカ、もの凄く怖いんだもん!」
「怖い……? お兄様。私は、同じことを二度も三度も他人に言わされるのが大嫌いですの。ほら、早く座って。私の声が聞こえませんの? それとも、お兄様のそのお耳はただの飾りですの?」
私は些かイラッとして、向けた視線に少しだけ『真剣な覇気』を込めてお兄様を睨みつけた。
「わ、分かったよ! 座る、座るからそんなに凄まじい顔で見つめないでよ! 怖いから!」
「……怖い、ですか……」
一体誰のことを言っているのだろう。わずか三歳の愛らしい女の子捕まえて『怖い』だなんて、三歳で怖い女の子なんて、この世のどこを探したっていやしないわ。全く、変なことを言うお兄様で困ったものだ。




