第11話 盗聴する三歳児
「そ、それで、僕に一体何の用なの? 僕、何かフレデリカに悪いことしちゃったかな?」
「何もしてませんわ。ただ今のお兄様と少しお話をしてみたかったのです。お兄様。あなたは今の私を見てどう思いますか?」
少し胸がドキドキした。ちょっと怖がるぐらいはいい。でも否定の言葉だけは言われたくはなかった。
お兄様が、ぽつりと小さな声を出した。
「フレデリカは、本当にすごいね」
「すごいですか?」
「フレデリカは、もの凄くダンスを頑張ってたよね。実はよく見てたんだ。足の豆が何度も潰れて、血が流れても、それでも平気な顔をして踊り続けてた。僕、その姿に不謹慎だけど見とれちゃったんだ。……でもね、なんだかそれを見てたら、胸の奥がモヤモヤしたんだよ。僕には、あんなの絶対に無理だ。お父様にも、『お前は人よりドジだが、優しいのだから、お前なりにゆっくりやればいいんだ』って言われたけれどさ……。僕、フレデリカを見てたら、もうちょっと自分も頑張れたらなって思ったんだ」
「お父様が……お兄様に、そんなことをおっしゃったのですか?」
「うん。『お前は何をさせても人並みに器用にこなせない子供だ。だからそんなに焦ることはない。お前はお前なりに、ゆっくりと自分のペースで生きたらいい』って。お父様は僕に、いつもそう優しく教えてくれたんだよ」
「……そうですか……」
お父様は、かつて一度目の人生の初期において、私のことを少しでも愛していた時期があったのだろうか。後々には、明確に私たちを切り捨て、私たちを嫌悪することは分かっている。
けれど、元からすべてが偽りだったのだろうか。そんな底寒い疑問が、私の中に湧き上がった。
そして同時に、私はその言葉の持つ『意味』を考えた。お兄様の持つ優しさは、確かに人間としての美徳だと思う。事実、前世で私たちが破滅へ向かって辛い日々を送っていた時、気は弱いけれど優しいお兄様に、私は何度も心を慰められた。
……しかし。同時にお兄様に、『もう少し敵を噛みつく牙があれば』と、思ったことも一度や二度ではなかった。一度目の人生でお兄様は、あまりにも気が弱く、それゆえに過ちも犯した。
そして完全なる『無能』だった。
お父様に言われるがまま自分のペースでゆるゆると生きた結果、公爵家の跡継ぎとしてとても役に立つレベルではなかった。結果、お兄様は許嫁の伯爵令嬢にも心底嫌われ、私よりもずっと早い段階で婚約を一方的に解消されていた。
相手の女はよほどお兄様が嫌だったのか、最終的にあのエリック皇子に泣きついて、その声が皇帝陛下の耳にまで届いたほどだ。お兄様の無能ぶりは社交界であまりにも有名で、この婚約解消騒ぎにお父様は、味方にならなかった。
結果として、公爵家の本来の正当な跡継ぎでありながら、家格が遥かに格下である相手側から婚約を解消されるという、前代未聞の恥辱を味わうことになった。
それが前世でのお兄様だ。
『お前はお前なりに……』
普通に聞けば、それは何も悪い言葉ではない。子供の個性を尊重した、慈悲深い親の優しい言葉に聞こえる。
しかし、厳しい貴族社会を生き抜く人間は、優しさだけで育つものではないのだ。
私がお母様に厳しく教育されたことで、多少なりとも前世で世間に通用する苛烈な女になれたように、正当な後継者たるお兄様にこそ、血を吐くような厳しさが必要だったはずなのだ。
「お母様も、お兄様にはとことん甘いものね……」
それも大きな問題だった。前世で私にはあれほど厳しかったお母様が、お兄様に対してだけは盲目的に甘かった。その結果、お兄様はブクブクとお太りになり、おまけに何一つ能のない、ただ優しいだけの男になってしまった。
しかも、その優しさすらも、あまりの見た目の悪さと鈍臭さのせいで、周囲から美点と思われることはなかった。お兄様の優しく穏やかな美点に気づいていたのは、世界中で私だけだったのだ。
それにお兄様は……私は扉の向こう側にいるカミラへと目を向けた。いや、あれはもう起きないことだ。あんなことだけはお兄様に絶対にさせない。する必要がないように私が導く。
「お兄様。お兄様が何かを失敗されるたびに、お父様は決まってその『ゆっくりでいい』というお言葉を口にされたのですか?」
「え? うん、そうだよ。だから焦らなくていい、ゆっくり生きればいいって、いつも僕を抱きしめて教えてくれたんだ」
「では何だったかしら、えっと『周りよりも劣る』だったかしら? これも、いつも口にされてたのですか?」
「うん。そういう子供みたいなんだ。周りよりもできなくて仕方のない子供で、だから周りよりも劣ってて当たり前で、できなくてもいいんだって」
「……そうですか……」
お父様。あなたは本当に、私やお兄様を我が子として好きであった時期が、一瞬でも存在したのですか? その呪いのような優しい言葉に、本当に一片の悪意もなかったと言い切れるのですか?
そもそも子供が何か新しいことをしようとして、うまくいかないことなど別に珍しいことではない。
それを……っ!
「お兄様。お兄様はまだ、わずか五歳ですわ。五歳の子供が、器用にこなせないなんて、むしろ当たり前だと思いませんか? 五歳で器用じゃないからって、それを理由に努力を諦めさせるなんて、それこそおかしな話だと思いません?」
「でも、フレデリカはあんなにもの凄く上手にダンスを踊るでしょう? 僕、あんなの逆立ちしたって絶対無理だと思ったんだ」
「おう……」
……困ったわね。少なくとも今世において、このままお兄様がダメ人間に仕上がってしまったら、それは一ヶ月間死に物狂いで完璧なダンスを披露してお兄様を絶望させた、私のせいが一番大きくなってしまうかもしれない。
それに対しては、私ももの凄く責任を感じてしまうわ。
だから、やはり、ちゃんとお兄様の責任は私が取ってあげないとね……。
午後になるまで私はお兄様とゆっくり話し合った。
そうしてから、私の教育係を務めるイメルダ先生と、お母様、そして私を交えた三者による、今後の教育指針を定めるための話し合いが設けられた。しかし、その席に――。
「レオナルド……。フレデリカ、あなた、なぜレオナルドまでこの場に呼んだのですか?」
ぽっちゃりとした五歳のお兄様の姿を認め、お母様が困惑の入り混じった深い皺を眉間に刻んだ。場所は家族のくつろぐ団らんの部屋だった。そういえば、お父様がいなくても、この部屋をお母様はよく使っていたなと思い出した。
「いけませんか、お母様?」
私の瞳を、お母様が射抜くように強く見据えてくる。けれど私は怯むことなく、その視線を受け止めた。
「ダメというより……あなたのあの『常軌を逸した異常な訓練』に、まさかレオナルドを巻き込もうなどと思っているのではないでしょうね?」
お母様はお兄様に酷く甘い。私から無茶なことを言われないように、明確にお兄様を庇うように言ってきた。
『私の可愛いレオナルドにあなた何をするつもり?』
と顔に書いてあるのが丸分かりだった。この場では分かりやすいのは助かるが、お母様ももう少し腹芸ができるようになってほしいところだ。そしてお母様。あなたは自分でそうして育てながら、将来お兄様の無能を呪うのですよ。
「お母様」
「な、何ですか、フレデリカ」
「このバランシエール公爵家の正当なる次の跡取りは、一体誰なのですか?」
「……それは、もちろん、レオナルドですけれど」
「では、今この瞬間から最も厳しく鍛え上げねばならないのは、私ではなく、お兄様のほうではありませんか?」
三歳児に正論を突きつけられ、お母様は困惑したように言葉を濁した。
「そ、それは分かっています。ですが、レオナルドにあなたと同じ異常な教育基準を求めるわけにはいかないでしょう。何というか、ほら……フレデリカ、あなたは少し、その、ちょっと……『おかしい』から」
「お母様。わずか三歳にして、『おかしい』子供など、この世に存在いたしませんわ。私はただ、自分のなすべきことをなしているだけですわ」
「それはもちろん分かっています。確かにそうね。あなたは自分の努力を精一杯してる。でも、あなたはちょっと……いえ、かなり……」
母の狼狽を冷ややかに見据え、私はさらに厳しい言葉を重ねる。
「何ですか?」
「あなたは少し、普通の子供より何事も『やりすぎ』でしょう?」
「ふふ、まあ認めましょう。私が人より少しばかり、命をかけるほどの努力家であることは」
「いえ、努力家と言うよりは……」
「お兄様に、私と全く同じ歩調を求めるのが酷であることも、重々理解していますわ。ですが、お母様、お父様が放ったあの言葉を、もうお忘れになったのですか?」
「それは……っ」
そして少し迷って私はもう一言付け加えた。
「『妾の子供はずいぶん優秀な子供らしい』」
私の言葉を聞いた瞬間だった。お母様の顔色がはっきりと怒りに染まった。
「どうして、あなたがそんなことまで知っているのですか!?」
お母様はまるで裏切り者を見るように、鋭く責め立てる視線でイメルダ先生をじっと見つめた。
お父様が外で囲っている妾の息子が超優秀であるという、我が家の存続に関わる情報を、この教育係がまだ三歳の私に吹き込んだとでも言いたそうである。
「私は違いますよ、公爵夫人。お嬢様にそのような余計なことなど、ただの一つも教えてはおりませんとも」
なぜか私の横で不自然なほど距離を近くして、嬉しそうにニコニコしながら首を振っているイメルダ先生がいる。正直に言って、この先生の私に向ける熱視線はちょっと気持ち悪い。
とはいえ、この先生はロック様が選んでくれた存在。お母様に嫌われて、いなくなられては困る。
「イメルダ先生が私に教えたのではありませんよ。お母様、元より、屋敷を飛び交うメイドたちの口にチャックをすることなど不可能なのです。誰かがわざわざ私に吹き込んだなどと言いません。ですが、大人たちの言葉が私の耳へと聞こえてくる方法なら、この広いお屋敷の中にはいくらでもあります」
私がそう言って、小さな指先をパチンと軽く弾いた。
その瞬間、この大事な話し合いを外に漏らさないようにかけられていた厳重な防音魔法が霧散し、廊下でこっそり聞き耳を立てていたメイドたちの噂話が、遮るもののなくなった室内に鮮明に聞こえてきた。
「――ねえ、聞いた? 旦那様が囲っているあちらのお子様、もう攻撃魔法を習得したんですって」
「へえ、じゃあ跡継ぎ争いも分からないわねー。今のレオナルド様はおっとりしてるというか、かなり頼りないもの」
「でも、三歳の妹に教育方針を指図されるなんて、レオナルド様も形無しよね……」
「それにしてもフレデリカ様は何をどうしたらあれほど急激に変わるのでしょうね。頭でも打たれたのかしら?」
「そこ! 何を余計なこと言ってるの! しっかり仕事をしなさい!」
「「は、はい!」」
――どうです?
と言わんばかりに、私はお母様へ勝ち誇ったような笑みを向けてみせた。
「あきれたわ……。あなた、その歳で【盗聴魔法】を使えるの?」
お母様は、部屋に流れ込んできたメイドたちの声を聞き、私がこっそり発動させている魔法の正体に気づいたようだ。
「やはり、素晴らしい才能をお持ちですわ、お嬢様! これほど幼くして、誰に教えられるわけでもなく、風属性でもないお嬢様が、実戦的な諜報魔法を完全にものにされるなんて、私の想像を遥かに超えていらっしゃいます」
なぜかイメルダ先生は、感心したように瞳を爛々と輝かせている。少し鼻息が荒くなるのは見苦しいので、今すぐやめてほしい。
「フレデリカ、淑女を目指す身として、最初に習得する魔法が『諜報』というのはいかがなものかと思いますよ。あまりお上品とは言えません」
「何を言うのお母様。真の淑女たるもの、情報は百金にも勝る絶対的な価値があると知るべきですわ。情報を制するものこそが、最後に生き残るのですから」
「ああ言えばこう言う……。全く、誰に似てこんな恐ろしい性格になったのかしら」
お母様はため息をついたが、その表情には隠しきれない強い焦燥が混じっていた。私に対するものじゃない。間違いなく、お兄様に対してだ。
よりにもよって、妾側の血筋として凄まじい『当たり』の才能を、お父様が引き当ててしまった。これは私たちにとって、極めて良くない状況だ。お兄様を何としても公爵にしたいお母様にすれば、焦らずにはいられないはずだ。
でも、残念ながら正真正銘お兄様は平凡以下だ。
そしてお母様は、ぽっちゃりとして何をやらせてもかなり鈍臭いお兄様が、不憫で可愛くて仕方がない。せめて今のうちから厳しく育てなければいけない局面なのに、我が子可愛さが邪魔をして、どうしてもできないのだ。
「お母様。向こうの子供が優秀だという話は、私の耳にもしっかりと届いています。現にメイドたちの間でさえ、あちらを認めるような噂が広まっているのは理解しなければなりません」
「そんなことをしゃべるなど、公爵家のメイドとして教育がなってません!」
「ふん、面白いことを言うわねお母様。人などどれほど教育しても、心の中では好きなことを思うものです。それを黙らせたければメイドの口を無理矢理塞ぎますか? 塞いだところで妾の子供がバカになってくれるわけではありませんよ? だとするならどうすればいいかなど自明の理」
「だからといって! あなたと同じような教育を強いたら、レオナルドが死んでしまうわ!」
お母様は悲鳴に近い声を上げ、救いを求めるように、自分の傍らでオロオロと怯えているぽっちゃりとしたお兄様を見つめるのだった。




