第12話 生存戦略
「そ、そうだよ! 僕、フレデリカみたいな無茶させられたら、本当に死んじゃうよっ!」
これまで生まれたての子鹿のようにガタガタと小刻みに震えながら、ひたすらに沈黙を守っていたお兄様であったが、いよいよ我が身に危機が迫っていることを本能的に察知したらしい。
涙目で必死の形相を浮かべながら、私に向かって精一杯の異議を唱え始めた。
三歳児の私に対して、五歳の兄が必死になって命乞いをしているかのようなその情けない構図に、私は冷ややかな吐息を一つ漏らす。
「……お兄様。おっしゃる通り、その言葉自体は否定しませんわ。お兄様に、私と全く同じことをさせれば、三日と持たずに死んでしまうかもしれませんね」
「だよね、だよねっ!? ほら見ろ、フレデリカだってそう言ってるじゃないか!」
万が一にも自分の身に『血反吐を吐くような特訓』が降りかかってこないようにと、お兄様はここぞとばかりに安堵の表情を浮かべ、盾にするようにお母様の背後へ大急ぎで逃げ込もうとした。
私は座ったまま、誰の目にも止まらぬほど迅速に、音もなく小さな右足をスッと出し、お兄様が逃げようとしたその行先を物理的に阻んだ。
「ぶぼっ!」
足を引っ掛けると、あまりにも無様に、お兄様は石床の上の絨毯へと転がった。ぽっちゃりとした体が鈍い音を立てて床を転がる。
――ざまあないわね。
この程度のあからさまな障害すらも見切れず転倒するなんて、戦場であれば一瞬で首が飛んでいるところだ。私なら、こんな不細工な形で引っ掛けてきた足など、それこそ骨ごと踏み抜いて再起不能にしてやるところだ。
「い、痛いよフレデリカ! 何するんだよ! 貴族の意地悪な子たちみたいなことしないでよ!」
お兄様は涙目で自分の膝をさすりながら、情けない声を上げて私を睨みつけてくる。……あら、お兄様。今、なんとおっしゃいました? 『貴族の意地悪な子たち』、ですか。
なるほど、まだ五歳だというのに、何かの集まりに出た際はすでに周囲から、こんな惨めな扱いを受けていらっしゃるのですね。本当にお可哀想に。
「お母様。今の、お兄様の言葉をお聞きになりましたか?」
「……何のことです?」
「本来であれば、バランシエール公爵家の嫡男たる存在が、貴族の集まりで足を引っ掛けられるなど、断じてあってはならない事態ですわ。それが現実に今、この瞬間に起きているのは、他の貴族も、お兄様がこのバランシエール公爵家の跡継ぎだと思っていないからに他なりません!」
私は床に倒れたまま、情けなくこちらを見上げているお兄様を上から冷ややかに見下ろし、現実をお母様へと突きつける。
「あちらの妾の子供に比べ、我が家のお兄様は少々肉付きが良すぎますし、いささか頭の回転も緩やか。残酷なまでに純粋で、かつ権力構造に敏感な子供たちは、二人の兄弟を天秤にかけ、劣る方を格好の餌食として定めているのです。加えて、公爵であるお父様が、向こうの屋敷にばかり入り浸って戻ってこないとなれば、周囲の貴族が我らを侮るのは当然のこと」
「……フレデリカ。何が言いたいのです?」
「このまま何の対策も講じなければ、お兄様は間違いなく遠くない将来、公爵家の後継者という立場を奪われます。お母様は、それを、ただ指をくわえて黙って見ていろとおっしゃるのですか?」
事実、一度目の人生において、絶望を味わうことになるのだ。あの時、お母様は自分の指を肉ごと噛みちぎるほどの、この世の全ての呪いを凝縮したかのような悔しさを滲ませ、血の涙を流していた。
あの落ちぶれていく日々の惨めさを、地獄のような苦しみを、私は決して忘れない。もちろん子供の癖にここまで言えば、私はお母様から嫌われるかもしれない。しかし、お母様は、この段階ではそんな未来の破滅など知り得ない。
だが本当に、このまま何の手も打たなければ我ら三人は破滅するのだ。それは今の時点でも明らかに予想できることだ。それくらいに、あちらと、こちらのぽっちゃりお兄様には、天と地ほどの差が存在している。
それなのに向こう以上に努力しない、自堕落な姿勢を許すわけにはいかない。
「……レオナルドはまだ、五歳なのですよ?」
「五歳であれば、今から死に物狂いになれば間に合うかもしれません。いいえ、何が何でも間に合ってもらわねば困ります」
「……」
張り詰めた沈黙が、部屋全体の空気を支配した。お母様は悔しさと、理解の及ばない我が娘への恐怖を滲ませながら、私を射殺さんばかりに睨みつけてくる。
けれど、その程度の視線で、前世を戦い抜いたこの私が一歩でも退くはずもない。それにね、お母様。あなたが今、どれほど私に腹を立てて忌み嫌おうとも、あなたと私との縁を切り離すことなどできはしない。
なぜなら、後の世で私がどれほど狂気に染まった行動に出ようとも、あなたが最後の最期まで、私を見捨てずに寄り添ってくれた事実を、私は決して忘れはしないのだから。
「フレデリカ……。あなたは、レオナルドを一体どうするつもりですか?」
「お兄様に、これ以上の生ぬるい生活など必要ありません。これからは、貴族として私以上に、とことんまで追い詰めさせていただきます」
「あ、あなた以上ですって……!? レオナルドはあなたのような化け物とは違うのですよ!? 一歩間違えれば、自分自身の肉体を再起不能にしかねない、あのような行為!」
「ではこのまま放置すると? お母様、お兄様はこのまま行けば確実に初等学園でも馬鹿にされ続けますよ?」
「それは……と、ともかく、レオナルドには、まだ早すぎます!」
「もちろん、いきなり私のようなことをさせようとは思ってません。私と、そちらのイメルダ先生の二人で、まずは基礎の能力から骨の髄まで徹底的に叩き込みますわ。ですが、最終的にお兄様に目指していただくのは、魔法使いの『Aランク』。いいえ『Sランク』にまで到達していただきたい。……まあ、これは私の個人的な願望でもありますけれど」
「エス、ランク……っ!? フレデリカ、あなた正気ですか!? この可愛いレオナルドに、そこまでの天を突くような才能があると、本気で思っているのですか!?」
お母様が、驚愕のあまり椅子からガタッと身を乗り出した。いかなる系統であれ、最高峰である『Sランク』の魔法を完全に操る個は、世界のどの国家においても一騎当千の『英雄』として国賓級の優遇を受ける。
ましてや、名門公爵家の嫡男がその領域を成し遂げたとあれば、その圧倒的な魔力による発言権は、皇帝陛下にすら比肩する絶対的な力となるだろう。しかしそれは最低ラインなのだ。
何しろ、あの忌々しい、全ての元凶である『村娘』が引き連れている逆ハーレムの男たちは、例外なく全員がそのSランクを冠する化け物揃いなのだ。
「才能の大部分は、死に物狂いの努力によって後天的に構築されるものだと、私は信じておりますわ。事実、私は努力で、妾の子供以上の能力を示しているつもりです」
「努力、ですか……」
「公爵夫人、横から口を挟む無礼をお許しください」
ここでようやくイメルダ先生が口を開いた。
「構いません。本当にこの子は一体どうしてしまったのか。急に目覚めたように大人顔負けに知恵が回るようになるし……はあ。先生からもこの子に何か言ってやってください」
「そう言いたくなる気持ちは理解できます。お嬢様はあまりに幼すぎる。ですが……私も、こちらのフレデリカお嬢様の意見に全面的に賛成ですわ。世人の言う凡百の徒というのは、そもそも『死に物狂いで努力し続けること』そのものができないからこそ、凡庸なのです。お嬢様は、わずか三歳にしてすでにその真理を肉体で体現なさっている」
そう言って、イメルダ先生が私の小さな肩へと、心底からの心酔を込めた熱い手をそっと置いた。
「これこそが、昨日私が公爵夫人に申し上げた、お嬢様が天から授かった真の【ギフテッド】であるということの証明なのです。レオナルド様も、五歳という今この瞬間の段階から死に物狂いで着手すれば、まだ決して遅くはありません。ちゃんと間に合いますわ。私は教育係として、これは絶対にやるべきだと進言します」
「イメルダ先生まで……そんなことを……」
このイメルダという、どこか得体の知れない女について、前世の私の記憶にはその存在が何もない。詳しい生い立ちも目的も、私は何一つ知らないのだ。
けれど、お母様は彼女の言葉に対して、信頼を置いているようだった。そして今のところ、イメルダ先生は完全に私の味方として振る舞ってくれている。
もちろん、いずれ利害が一致しなくなった時に裏切られるのではないかという懸念は、今も胸の奥で消えずに燻っている。けれど、子供の意見だけでお母様を最後まで説得しきるのは難しく、今は間違いなく助かった。
「あ、あのさ……僕としては、その……今まで通りにゆっくり昼寝もして、美味しいお菓子をたくさん食べて、のんびり生きたいな、なんて……」
お母様の背後から顔を覗かせたお兄様が、なおも往生際悪く、消え入りそうな声でそんな甘ったれたことを口にした。
「ええ、お兄様。その、怠惰を貪りたいという気持ち、私にも痛いほどによく分かりますわ。何一つ責任を負わず、泥のように眠り、美味しいものを食べて過ごす生活は、この世で最も魅力的なものですもの。私だって、できることなら今日一日、ベッドの中から一歩も出ずに眠っていたい。ですが、お兄様。今の生ぬるいままのあなたでいれば、将来間違いなく、その首を落とされて『死にます』」
「死ぬって……フレデリカは何でも大袈裟だと思うな……」
「そうでしょうか? 今の時点ですでに跡継ぎがキースになるような噂が出ているのですよ? 何もしなければ、遠くないうちにあの子に公爵家のすべてを奪われ、文字通り路頭に迷う運命。いえ、お兄様の体には正統なる血が流れているだけに、お兄様こそ生き残れる可能性は一番低い」
「そ……そんなことないよ」
「あります。殺されるとすれば二十七年後ぐらいでしょう。お兄様、二十七年後に無惨に殺されるか、それとも今この瞬間から死ぬ思いをして生き残るか、二つに一つですわ」
私の死の宣告。それに追従するように、イメルダ先生がお兄様の退路を完全に断つかのように、深く、重々しく頷いた。
「レオナルド様。フレデリカお嬢様のお言葉に、何一つ嘘偽りはございませんよ。公爵様が外で熱心に教育されているキース様がいかに傑出した、魔法の才覚をお持ちであるか……。それは既に、私の耳にも嫌というほど届いておりますわ」
「でも、さ……。それなら、僕より優秀なキースが公爵家を継げば、それで丸く収まるんじゃないの……? 僕、別に跡継ぎになんてならなくていいよ……。『キースに全部譲ってあげる』って、お父様にちゃんと話をするよ」
「世間一般の基準、あるいは能力至上主義の観点から見れば、それで綺麗に完結するでしょうね。しかし、お兄様。あなたは本当に、それで良いと心の底から思っていらっしゃるのですの? バランシエール公爵家の正統なる第一子であり、純血の血筋であるあなたが、跡目争いで妾の子に無様に敗北するということ。それは、どういう意味かお分かり? この世は敗者に生き残る道など、最初から用意されてはいないのですよ」
「そんな……。どうして、どうして僕が、そんなこと言われなくちゃいけないんだよ!」
あまりにも理不尽な未来の現実に、顔をぐしゃぐしゃに歪めて涙を流すお兄様。そのぽっちゃりとした可哀想な頬を、お母様は胸を締め付けられるような痛ましげな表情で見つめ、そっと優しく撫でた。
「レオナルド……ああ、本当に可哀想に。お前を……お前をこのフレデリカのように、生まれながらにして優秀に産んであげられなくて、本当にごめんなさいね……」
お母様はお兄様を抱きしめ、激しい悔恨の言葉を口にした。しかし、そのお母様の瞳の奥に、先ほどまでの甘さはなかった。決意の火が静かに灯る。
どれほどお父様に執着していようとも、お母様もまた、誇り高き名門公爵家の正当な血を引く娘なのだ。私の突きつけた言葉の中に、一切の誇張も嘘もないということを、理解してしまったのだ。
「ですが、今この瞬間に手を打たねば、我が子の未来が完全に閉ざされてしまうというのもまた、避けることのできない現実。……仕方がないのですね」
お母様は、自分の背後に必死に隠していた我が子の、丸い背中を、私の前へと押し出した。
「レオナルド。母も全面的な協力を惜しみません。やらねばならぬというのなら、バランシエール公爵家の名にかけて、最後までやり遂げましょう」
「お、お母様、嘘でしょ!? 僕には無理だよ、絶対に無理だって言ってるのに!」
「……話がまとまりましたね。では、お兄様。早速、参りましょうか。お母様のお山は自由に使っても良いでしょうか?」
「自由になさい。ですがこの母にそこまで言ったのです。ちゃんと結果を見せるのですよ」
私はガタガタと震えて抵抗を試みるお兄様の衣服の襟首を、三歳児の魔力強化を施した小さな手で、ガシリと容赦なく掴み取った。
「ふ、フレデリカ……っ!? 冗談、冗談だよね!? ほら、よく考えてみてよ! 将来立派な、高貴な大人になるためにはさ、お茶の淹れ方とか、音楽とか、もっともっと真っ先に覚えるべきことがあるじゃないか!」
「どうぞご安心ください、お兄様。我が兄ながら、お兄様という人間にそれほど多くの物事を同時にこなせる優秀なリソースなど残されていないことは、この私が世界で一番よく理解しておりますわ。ですから、お茶も、歌も、高価な楽器の演奏も、そんな役に立たないゴミクズのような教養は、今日この瞬間を以てすべてドブの中に捨ててしまいましょう。幸か不幸か、この実力主義の我が帝国においては、戦闘魔法という最強の武力さえ極めてしまえば、あとの細々とした問題はどうとでもなりますの。中途半端に色々なことができて調子に乗っている馬鹿よりも、一芸のみを神の領域まで尖らせたほうが、戦場や政治の場においてはよほど重宝されますもの」
「ひどい言い方しないでよおぉぉ!」
必死になって歩くのを拒み、大粒の涙を流しながら絨毯の上に這いつくばって抵抗するお兄様の体を、私は無詠唱で発動させた魔法によって、強引に宙へと浮かび上がらせた。
「えっ!? あ、足が床につかない……身体が勝手に宙に浮いて……っ!? なんだよこれ、何したんだよ!」
「フレデリカ。あなたそんな魔法までもう覚えているのですか……すごい。これが『努力』」
「初歩的な【浮遊魔法】を応用した、質量操作のごく簡単な魔法ですわ。機動力に劣る格下の相手を無効化し、拘束するのに非常に有効な戦闘技術でして、これさえ実戦で使いこなせれば、安全圏から一方的に敵を攻撃し放題になりますの。とても合理的で、楽しい魔法ですわよ。お兄様にも、これから私の手で骨の髄までじっくりと教えて差し上げますから、何も心配しないでくださいね?」
「そんな心配、最初からしてないよ!! 降ろして、早く降ろして!」
私は、空中でもがいて泣き叫ぶぽっちゃりとしたお兄様を風船のようにぶら下げたまま、颯爽とした足取りで屋敷の裏手にある広大なお山へと運んでいく。その去り際、私はお母様の声が聞こえて振り返った。
「フレデリカ! くれぐれも……くれぐれもレオナルドに、手加減をしてあげるのですよ!」
「お母様。『手加減』などという高度な『手抜き』を知っている三歳児など、この世のどこを探したっていやしません。極限まで、やらせていただきます。……さあ、イメルダ先生。グズグズしてはいられません、参りますわよ」
「はい、フレデリカお嬢様」
私のすぐ後ろを、弾むような奇妙な足取りでついてくる教育係のイメルダ先生。その瞳の奥に宿る輝きは、正直に言って気味が悪い。けれど、今の私にはそんな些細な違和感を構っている時間はないのだ。
お兄様。どうぞ、今日という日を呪いながら覚悟してください。あなたの貪っていた生ぬるく平穏な日常は、たった今、永遠に幕を閉じたのですから。




