第13話 裏山に潜む影
そういえば、今後の教育方針については私のことも含めて、じっくりと協議するはずだった。それなのに、つい気分が高揚してしまい、抵抗するお兄様の襟首を引っ提げたまま、窓から外へ飛び出してきてしまった。
冷静になって振り返ってみれば、生後わずか三年の幼児の行動としては少々やりすぎたか。
「まあ、お母様も先生も、誰も私を止めなかったのだから良しとしましょう」
「フレデリカ……僕、本当に頑張るのとか得意じゃないっていうか……その、足が地に着かないのは本当に怖いし、お願いだから痛くしないでね?」
私は地面に降りたが、お兄様は【浮遊魔法】によって空中へぶら下げられたまま、涙目で震えていた。そんなお兄様に答えたのは、背後に音もなく控えていたイメルダ先生だった。
「ご安心ください、レオナルド様。これからレオナルド様が習得しなければいけない魔法の基礎訓練において、痛みを伴うようなことはございません。まずは基礎から、確実に実践することから始めましょう。……ところで、お嬢様。訓練における最初の段階は、ご自身の手で色々と『お試し』になりたいのではありませんか?」
それを聞いて私はドキッとしながら先生の顔をよく見た。
「……よく分かりましたね」
ロック様は、私が未来から回帰した事実をこの先生には伏せているはずだ。それなのに、この人はまるで私の手の内を知っているような物言いをする。色々と全力でやりすぎて、鋭い人間には何か気づかれるものがあるのか。
「まあ、お嬢様の様子を見ていると、まだまだ随分と加減して生きていらっしゃるように見えますので」
「加減ですか……」
「もっとできる。お嬢様の顔はそう言っています。普通の三歳児であれば、たとえギフテッドであったとしても、お嬢様のように自らの能力を冷徹にコントロールし、加減して生きているようには見えないものですが……。実に不思議です。とはいえ、お嬢様は周りの大人の目に対して少々無頓着すぎます。あなたは正直、客観的に見てかなり『異常』に見える。まずはその事実をご自身で理解した方がいい」
「それは、そうかもしれませんが……」
だからって誰にも疑われないような『まともな子供』の振る舞いがどんなものか、そんなものをのんびり考えている暇があったら。未来の破滅を回避するために少しでも努力したい。その焦燥が私には常にある。
「ほら、今のような感じですよ、お嬢様。私の言ったことの本質を、あなたは今、完璧に理解してしまっている。その上で、大した動揺も見せない。たとえそれがギフテッドを持っている子供でも、大人に『異常』などと言われたら、かなりの動揺を見せるものですよ。つまりお嬢様は、ギフテッドとともに『何か違う存在』であると自ら認めてしまっている。その点はどう思われますか?」
「……」
私はなんと答えていいのか言葉に窮した。
「おや、さすがに今の問いかけには動揺しましたね。まあいいでしょう。ともかくお嬢様、何をするにしても、少々お待ちくださいな」
「……待つのですか?」
私はわざと首を小さく傾げ、幼子らしい無邪気で愛くるしい仕草を作ってイメルダ先生の顔をじっと覗き込んだ。大抵の大人ならこれで容易に騙されて相好を崩すが、イメルダ先生は表情一つ変えず、すんっとした鉄面皮のままになる。
「冗談はいいので、お嬢様、私がこれからこの山全体に、他者が絶対に立ち入れぬよう強固な結界を張ってまいります。その結界の構築が完全に完了するまでの間、その場でお待ちになればいいですわ」
「……山全体に? ……そんな強大な術式、普通にしようと思えば、どれほど膨大な時間と魔力がかかるか。あっ……」
「ふふ、山全体への結界展開がどれほど難易度の高いものか。それを瞬時に理解し、計算できる三歳の子供なんて、この世のどこを探してもいるはずがないのです。……ご自身のその博識な発言に気づいて、今、慌てて口を噤まれましたね?」
「……」
なんだか騙されたようで悔しくて顔がゆがんだ。
「そういう顔はとても好きですよお嬢様。私はあなたのことを現段階でとても気に入ってます。ですから少しぐらい素を見せたところで、大丈夫ですよ。それに博識の理由を無理に聞こうとも思いません。それよりも、お嬢様がこの山で試したいのは戦闘魔法でしょう。ダンスならばまだ良い。ですが三歳児が戦闘魔法を使えるなんてこと、誰にも悟られない方がいい。理由は分かりますね?」
「……結界の方よろしくお願いしますわ」
「了解しました。では、私は自分がいかに『できる女』であるかを証明してきます。良い子で待っていてくださいませ」
私は大きく息を吐き、先生から指摘されたことを考えた。あえて先生はわかるように私に教えてくれたのだ。このような流れで私はあなたを推理したのですよ、と。
私の仕草自体が、どう見ても中身が『大人』であると推理できてしまうわけだ。そしてその理由が何なのかまで先生は『聞かない』と言ってくれた。だったら今のところは甘えておこう。
しかし、これが先生以外の人間だった場合……。
「大丈夫ですよ、お嬢様」
私を落ち着かせるように、イメルダ先生が私の小さな背中を優しく撫で、乱れる呼吸をそっと整えてくれる。
「私ですら、今のあなたがいかなる存在なのか計りかねているのです。他の誰かが、あなたの正体に今の時点で気づくとは思えません。ただ、ここから先は一線を越える可能性がある。だからこそ、慎重になるべきだと進言しているのです」
「……ありがとうございます、イメルダ先生。あなたのおかげで少し頭が冷えましたわ。お兄様の次くらいには、あなたを信用してもいいと思えましたわよ」
「それは、私にとって最高級の褒め言葉ですね。では、少しこの山を回って参りますので、その場でお待ちください」
イメルダ先生は木々の合間へと驚異的な速度で消えていった。それを見ながら私は長いため息をついた。今回こそは失敗できないと心に決めていたはずなのに、焦燥に駆られるあまり慎重さを欠いていた。
前世で足をすくわれたのも、この『不注意』が原因だったというのに。あの忌々しい村娘の存在を、私は前世でただの小娘だと徹底的に侮ってしまった。相手が化け物だと気づいた時には、もう手遅れだった。
人は窮地に立つほど、過ちを繰り返してしまうものなのだろうか。
「……フレデリカ」
空中に置き去りにされていたお兄様が、自信なさげな声を絞り出して私を呼んだ。
「何かしら?」
「フレデリカは本当に……僕に、何かできると思ってるの?」
「何もできない人間など、この世には存在しませんわ。あるのはただ、『やる』か『やらない』かという選択だけ。お兄様がもし、今、自分は何もできないのだと思っているのだとしたら、それは今まで何もしなかったからですわ」
「……そうなのかな。お父様は、僕のペースでゆっくりやればいいって言ってくれたけど、あれは間違いだったのかな」
「お兄様。あの方がどのような心算でその言葉を吐いたのかは存じません。ですが、バランシエール公爵家の嫡男という立場に生まれながら『自分のペースで』などと甘えたことを口にするのは、滑稽な話ですわ」
実力至上主義の帝国貴族の跡取りとして生きるということは、それほど気楽なことではないのだ。莫大な権力を持つ責任ある立場のものには、それに相応しい責任ある行動と義務が求められる。
そしてそれを幼少期から身につけるのは、決して簡単な話ではない。それをのんびりやればいいなどと、言葉を聞いているだけでも、吐き気がしてくる。
妾の子供がいる以上、それではダメなのだと一番よく知っていたのは、お父様、あなたでしょう……。
「フレデリカはお父様が嫌いなの?」
「ええ、大嫌いですわ」
即答した。できることなら、この手で今すぐにでも殺したいほどに――。
「そんなこと、口にしたら怒られるよ」
「誰に、ですの?」
「そりゃあ、お父様に決まってるじゃないか」
「あの方はもう、二度とこの屋敷には帰ってきませんわ」
「そんなこと、わからないじゃないか!」
お兄様は少しムキになって声を荒らげた。まだ父親の愛情を信じたいのだろう。空中に浮いたままもがくその姿は、見ていて非常に不安定そうだ。
「いいえ、わかるのです。あれは私たちのことを、家族だとすら思っていないのですから」
「でも、お父様はフレデリカにだって、会うたびに優しいじゃないか!」
「……私に優しい?」
お兄様の無垢な言葉が聞こえた瞬間、私の瞳からすべての光が消え失せた。前世の最期にあの男が私に向けた、冷たい眼差しが脳裏をよぎる。
あの男が私に優しいだと?
「ひっ……!」
「二度と私の前であの男が、私に優しくしたなどと、口にしないでください。私はその言葉を聞くと、それだけで――」
そこまで言いかけて、私は無理やり言葉を喉の奥へ押し戻した。
空中ですくみ上がり、涙を浮かべて私を恐れるお兄様の瞳。それが、一度目の人生の終盤、私をいつも拒絶し、怯えきった目で見ていたお兄様の姿とダブって見えた。
胸がギュッと痛む。いけない。これではまた嫌われてしまう。今世こそは彼を守ると決めたのに、私が彼を恐怖させてどうするのか。
我に返り、乱れた呼吸を整えようと深く息を吸い込んだ――その瞬間だった。
完全に静まり返ったはずの森の奥から、かすかに大気をきしませるような不審な音が、私の耳へと届いた。
「おかしいわね。こんなモンスター、この山にいたかしら?」
私は瞳を細め、鬱蒼と生い茂る木々の合間のさらに奥を見つめた。
「フレデリカ?」
「お兄様。私の後ろにいてください。どうも妙なものがいるようです」
「妙なって……っ!」
それと同時に、お兄様でも嫌応なしに気づくような、周囲の地面を激しく揺るがす地響きのような足音が鼓膜を打った。人間の足音ではない。この辺りに生息する程度の低級なモンスターが出せる重さでもない。
地面に深く沈み込むような、重厚で禍々しい足音だ。
バキバキと木々をなぎ倒して進み出る。そこには、太い二足歩行で大地を跨ぐ、巨大な牛の頭を持つ魔獣が威風堂々と立っていた。
「驚いたわ。……ミノタウロスよね?」
「グゥ……ルルゥ……ガアアアアアアアアアアアッ!」
その雄叫びに文字通り大地が震えた。
少し大きなウサギやネズミのモンスターならともかく、本邸裏の山にミノタウロスが現れるなど、生態系的にあり得ない話だ。本来モンスターというものは、魔力が空間に多く充満している場所ほど、強い個体が現れる。
だからミノタウロスなどは、よほどのことがない限りダンジョンの中にしかいない。こんなモンスターの存在を生み出すほど、地上は魔力に満ちていないのだ。
誰かが意図的にこれを召喚し、ここに配置したか……。
可能性として真っ先に浮かぶのは先ほど姿を消したイメルダ先生だが、あの人のあの言葉を嘘だと私は思わない。だとすれば私の実力を試したいのか。
だが、いくら私を試すためとはいえ、まだ具体的な戦闘魔法の実力すら見せていない三歳児の前に、これほど明確に殺意の高い『実戦教材』をわざわざ用意するのか。
「いえ、ふふ、あの人なんだかそういうことやりそうだわ」
研ぎ澄まされた二本の巨大な角。浮き出た血管が脈打つ鼻面からは、煮え立つような熱い蒸気が吐き出される。赤く濁った瞳には知性の欠片もなく、ただ食欲と破壊衝動だけが渦巻いていた。
その太い腕に握られた巨大な両刃の斧が一振りされれば、三歳の私の首など容易く吹き飛ぶだろう。
「ひ、ひぃっ……!」
あまりの恐怖に、お兄様は完全に腰を抜かし、空中でありながら地面を手で這うようにして必死に動かした。まあ、これで怯えたからと言って、お兄様を責めるのは酷であろう。
私はこの状態で空中に浮かんでいるのは怖かろうと、お兄様を地面に降ろして差し上げた。
そうして、山の奥の空間から別の気配も感じた。
「これは先生ね」
遠くからこちらにしっかり視線を向けている。目に魔力を集中させると、ひときわ高い木の頂点からこちらを見つめるその表情まではっきり見えた。目線がしっかり合うと、片方閉じてきた。頑張ってくださいと言いたげだ。
「やれやれ、困った人だわ。聞かないと言いながら、私の実力にはとても興味があるのね。それにしても召喚が使えるなんて大したものだわ。ほんと、何者なのかしら」
「オオオオオオオオオッ!!!」
ミノタウロスが咆哮した。大気を激しく震わせ、地面を揺らす怒号。けれど、その圧倒的な威容を前にしても、私の心に『恐怖』という感情が湧き上がることはなかった。
自分がどこまでできるのか試したくはないかと、先生は聞いていた。
「なるほどきっとこれは親切なのね」
今の実力がどの程度なのか、確かめるのには丁度の相手かもしれない。
「さて――。先生以外、誰も見ていないなら問題ないわね。今の私の体で、どこまで前世の戦闘技術が使用できるか、やってみましょうか」
私はお兄様を背に庇うように小さな片手を前方にかざし、足元の地面へと、眩い光を放つ白銀の魔法陣を浮かび上がらせた。




