第7話 公爵家のメイド
「いいえ、それは少し傲慢が過ぎるというものですわ、奥様。三歳時点のお嬢様ほどの密度を持つ方は、確かに他にはいないでしょう。しかし、人間は年齢を重ねるほどに、努力をものともせず一つの道を狂気的に極めようとするものです。その上に、本物のギフテッドを持った化け物もまた、この世界には確実に存在するのです。自分の子が一番才能があるなどと、他を侮ってはいけません」
「しかし、この子は本当に優秀ですよ?」
「ええ、それは認めましょう。現時点であれば、お嬢様が同世代の頂点だと私も断言します。しかし、ここから先、お嬢様はこのダンスのレッスンを続ける気がありません。それでは、ダンスの真の頂点を極めるなど不可能ですわ」
「なるほど……。やはり、フレデリカが本当に行き着こうとしている場所は――」
私は二人の会話を横目で眺めながら、疲弊した体内にじわりと魔力を流し込んでいく。魔法というのは、本当に便利だ。
魔力で補強すれば、この三歳児の未熟な体でも、かなり極端で強引な身体動作を行うことができる。そして、この世界に戻ってきてから、早くも一ヶ月。
これまではダンスを最速で終わらせることに全神経を集中させていたが、約束の期日だ。本当にやるべき『次のステップ』を始めなければいけない。
【戦闘魔法】
かつて一度目の人生で磨いた殺戮の技術が、現時点でこの三歳の体でどこまで使用できるのか、正確な出力を今すぐに確認したかった。
しかし、それを行うにはそれ相応の『場所』が必要だ。下手に屋敷の中で使用すれば、それだけで公爵邸が壊れてしまう。それに、私は魔法以外の分野でも、まだ何か目に見える結果が欲しかった。
これから先、ピアノやマナー、淑女らしい教養の訓練は山ほどある。
特に、まだ短くて細い三歳の指では、ピアノの演奏には酷く苦労することになるだろう。我が国では、高位貴族の淑女たるもの、楽器の一つは必ず完璧に弾きこなせなければならない。
なぜなら、この国の守護神フィノメノンは無類の『音楽好き』だと言われているからだ。
そのため見事な音楽を奏でると、それが守護神に認められ、魔法へと昇華すると言われていた。これを村娘と逆ハーレムの一人が使用することができ、その威力はあまりにも絶大だった。
だからこそ、この国では音楽の才能に秀でていると、それだけで『神に愛されている神聖な存在』として崇められる。
『歌声が汚いのは、その者の心の中が汚れているからだ』
この国では、音痴だというだけでそこまで苛烈に蔑まれてしまうのだ。前世の私は決して音痴ではなかったが、ここでも『優秀以上』の領域を超えることができなかった。
二度目の人生で戦闘魔法の他に何を求めるかと言われたら、私はこの才能を磨くことを求める。それぐらいこの点に関しては苦い思い出が多いし、音楽魔法は戦闘魔法では対抗できない悪辣さがある。
ともかく、何よりも優先順位が高いのは、やはり戦闘魔法。私が鋭い視線でレッスン場を見回すと、専属メイドのアンナが部屋の端から私を見つめているのが目に入った。
彼女に声をかけようと、小さな口を開きかけた、その時。
「フレデリカ」
お母様が、私を遮るように声をかけてきた。
「とりあえず、ダンスの訓練はこれで一段落したのでしょう?」
「はい。一応の終わりですわ。もちろん、今後も質が落ちぬよう継続して努力はしていきますけれど」
「もはや、あなたの努力に対して私は何一つ疑いを持ちませんよ。この一ヶ月、あなたの頑張る姿を見て十分に理解しました。あなたは本当に、子供とは思えないほどひたむきな子です。でも、まだ幼い子供なのだから、休むことも同じくらい大事なことですよ。この一ヶ月、母はあなたの体が壊れてしまうのではないかと、心配ばかりしていました」
お母様は慈愛に満ちた表情で、私の小さな頭にそっと優しく手を置いてくれた。けれど、私の内心はひどく渋い顔になっていた。正直に言えば、今の私は『休むこと』そのものが怖かった。
一瞬でも足を止め、のんびりと休憩などしてしまえば、あの惨憺たる監獄の地獄が、断頭台の刃が、一歩ずつこちらへ近づいてくる。
「そんな難しい顔をしてもダメですよ。これからどうするかは、イメルダ先生とまた話し合いましょう。あなたは放っておくと、いつまでも際限なくレッスンを続けていそうですからね。今日は私から、母親としてはっきりと『休憩』を命じます。いいですね?」
お母様は、私を心配そうに見つめてきた。でも、このお母様の心配も、私がまたあの村娘に負けてしまえば、何の意味もない無価値なものに変わる……。
込み上げてくる暗い不安を、私は精神力でぐっと抑え込んだ。そして、小さく息を吐く。
「わかりましたわ。今日は休ませていただきます」
私の素直な返答に、お母様はちょっと驚いたような顔をした後、嬉しそうにクスクスと笑った。前世の記憶を辿っても、お母様がこんな風に穏やかに笑う顔など見たことがなかった。
「そうしなさい。後であなたの私室に、美味しい紅茶を飲みに行きますわ。たまにはお母様とゆっくりお話しいたしましょうね」
「では、最高のお茶菓子をご用意してお待ちしておりますわ」
「まあ、この子ったら。ふふ、頼もしいこと」
『紅茶を飲みに行く』というのは、貴族の淑女界隈において、本当に仲が良く気を許した相手にしか使わない親愛の言葉である。そして『お茶菓子を用意してお待ちしておりますわ』は、それを受ける貴族の女性がマナーとして返す定型句だ。
大人の社交界で交わされるようなやり取りを、わずか三歳の私が返してみせたものだから、お母様はとても楽しそうだ。こんな些細なことで喜べるなんて、お母様も随分と単純なお方だわ。
それでも、前世では決して見ることのなかったお母様の心からの笑顔に、私の張り詰めた緊張も少しだけ緩みそうになる。だが、私はすぐにその気持ちを引き締めた。
「――あの……、お嬢様」
「どうしたの、アンナ?」
急いでお茶会の用意を整えていたアンナは、手際よくお茶会のセッティングを終えると、部屋にいた他の若いメイドたちをすべて部屋の外へと退出させた。
二人きりになった室内で、アンナはどこか落ち着かない様子でモジモジとしている。
「その、お嬢様。……分かってはいるのです。お嬢様が今日まで、本当に驚くほど血の滲むような努力をされてきたことも、その努力の成果をご覧になって、奥様が嬉々として娘とお茶会をしにいらっしゃることも。これが我が家にとって、どれほど大事な場であるかは重々分かっているのです。でも、その……」
こんな私室での大事な仕事の最中に、今言うべきことではない――。
アンナ自身が一番そう分かっているというような申し訳なさそうな顔で、じっと私を見つめていた。彼女が何を言いたいのか、私が忘れるはずもない。
何しろ私は、二度目の人生ではできる限り、自分の身近にいる人間を『疑わずに済む信頼できる味方』として囲い込みたいのだから。
「アレックスの件ね。アンナ」
「あ……」
「そうね。当初はお兄様に間に入ってもらって、お母様へ言ってもらおうと思っていたのだけれど……今のお母様の様子なら、私から直接お願いしても十分に聞いてくれそうだわ。それに、ちょうどいい機会ね。ちゃんと分かっているわ。今日のお茶会で、あなたのためにちゃんと言ってあげるつもりだったのよ」
「お嬢様……っ!」
まるで救世主でも見るかのように、アンナが感動に打ち震えた瞳で私を見てくる。一度目の人生では、『行き遅れのアンナ様』と周囲から陰口を叩かれていた彼女。
そんな彼女に、騎士として将来が非常に有望視されている二十歳の青年、アレックスを結婚相手として紹介する――。私は、彼女とそんな約束を交わしていた。
すでに結婚を半分諦めかけていたアンナは、その分不相応なほど極上の条件が揃った縁談に全力で飛びついた。それから過酷なダンス特訓が始まり、丸一ヶ月間なんの動きもないことに、彼女は今日まで必死に催促するのを我慢していたのだろう。
それが、今日の私の快挙とお母様の機嫌の良さを見て、ついに口から出てしまったというわけだ。
「それではアンナ。今日のお茶会の間、お前は席を外していなさい」
「えっ……!? ど、どうしてですか?」
「バカね。お前がその場にいては、『お前が三歳の幼い私を利用して、自分の個人的な欲望のために結婚相手の紹介をねだった』とお母様に思われたらどうするの」
私がそうとは悟られないように、お母様の世間話からうまくアレックスの話へと誘導してあげるから、お前は一旦この場から下がりなさい、と私は告げた。
お茶の給仕は、他のメイドに任せればいい。
「し、しかし、お嬢様……っ! 私が、お嬢様の筆頭専属メイドの身でありながら、このような大事なお茶会の場を他の者に譲るなど……」
「大事な場所には、お前がいつも私のそばにいる。それはよく分かっているし、またそうでなければいけないわ。あなたたち使用人の間の規律や、席次の決まり事だってちゃんと理解している。……でも、背に腹は代えられないでしょう? お前が意地を張ってここに残れば、確実にお母様はお前のことを疑って、怒りだすかもしれないわよ?」
「それは……っ。……分かりました。お嬢様、ご提案されるのは、本日はやめて、もう少し後でも構いませんわ。お嬢様にご迷惑をおかけするわけには……」
「あら、良いのよ。ふふ、気にしなくて」
アンナは今現在、私の『一番手のメイド』という立場を手に入れるために、死に物狂いで努力を重ねてきた。何しろ『私の結婚相手』は確実にかなり有力な家の跡継ぎだと見られている。
実のところ、今はまだ決まっていないがアトラス帝国・第一皇子の可能性が一番高いとすら思われている。つまり私の筆頭専属メイドで居続ければ将来は、皇妃の筆頭専属メイドになる。
これがどれほどの意味があるか……。もちろんアンナもこう見えて小貴族の娘であり、この立場の重要性を理解していた。他にも様々な理由があったのだろうけれど、そのキャリアのために婚期を逃してしまったという側面もあるのだ。
それなのに、一度でも正当な理由なく、お母様の前で他の人間に『私の給仕のポジション』を譲れば、メイドたちの人事権を握る上司から彼女がどんな手痛い評価を受けることになるか、分かったものではない。
「でも、近いうちにちゃんと段取りを組んであげるわ。今日まで長く待たせてしまってごめんね、アンナ」
「い、いいえ! 私の方こそ、自分の不作法な私欲のために、お嬢様にこのような恥知らずなことばかり……本当にお恥ずかしい限りで……」
アンナは顔を真っ赤にしながら、恐縮したように深く頭を下げた。
――その後、お母様と私のお茶会は、終始和やかに、非常に穏やかな空気の中で進んでいった。
私の斜め後ろに控えるアンナは、相変わらず一分の隙もない完璧で卒のない動きを見せており、その洗練された一挙手一投足からは、裏で自分の婚期を必死に気を揉んでいる一人の若い女性の泥臭い気配など、微塵も感じさせない一流のメイドの姿そのものだった。
「さて――」
お茶会が終わった私は、ソファーに小さな体を預けて一息ついていた。とりあえず、ロック様が導いてくれた一人目の人間であるイメルダ先生とは、良好な関係を築くことができたと思う。
噂では色々と気難しい人らしいけれど、今のところ私にはそのようには見えない。厳格で、非情で、私にとってはこれ以上ないほど素晴らしい最高の指導者だ。
これからも、私を死なせないためにバシバシと狂気的に鍛え上げてほしいものである。ともかく、お母様に命じられたからとはいえ、のんびりと休憩などしている時間はない。
今のうちに、一人で深く考えておかなければいけない最優先の課題があった。
「まず、以前の人生で起きたすべての出来事を、忘れないように記録しておかなければいけないわね」
これも、私の復讐において極めて大事なことだった。
私が持っている『前世の記憶』という未来予知にも等しい知識は、強力な武器になる。けれど、それを何にも書き起こさず、ただ自分の脳内の記憶だけに頼り続けるのは、あまりにも危険が大きすぎる。
何しろ、人間とは時間の経過とともに簡単に重要なことを忘れていく生き物なのだから。
今のところは、一度目の人生の記憶はまだ鮮明に頭の中に残っている。ただ、これから何年、何十年も時間が経てば、細かいディテールが曖昧になってくることも当然出てくるだろう。
実際のところ、今こうして生きている『三歳』の頃の本来の記憶だって、曖昧な部分が多々あった。初めて私を教えてくれる先生が違う人物になっていることにも、なかなか気づけなかった。
「……やっぱり、どこかに書き起こしておいた方が賢明かしら」
けれど、その場合、そのノートの内容は『絶対に誰にも見られてはいけない最高機密』になる。何しろ、これから先の未来で起きる大事件や国の動向を、まだ起きてもいないのに三歳の子供が詳細に知っているのだ。
それを一から十まで書き記したノートが存在し、もし万が一にでも他人にそれを見られた瞬間、私が周囲からどんな目で見られ、どんな恐ろしい扱いを受けることになるか分かったものではない。
下手をすれば悪魔憑きとして、教会に監禁されるのがオチだろう。
「でも、私の部屋は完全に私一人だけの空間ではないのよね。一人にしてくれと命じたところで、公爵令嬢という私の立場がそれを許してはくれないでしょうし」
公爵令嬢という立場上、主人の部屋には管理のために常にメイドが頻繁に出入りする。私は掃除も自分では一切しないし、私専用のクローゼットに出入りするのもすべてメイドたちの仕事だ。
この広大な屋敷は執事とメイドたちによって完璧に管理されており、私が記憶を記した秘密のノートを部屋のどこに隠そうが、あるいは部屋の外のどこかに埋めようが、誰の目にも触れさせないというのは至難の業だった。
そして……。
「前世では、専属のアンナともう一人のあの子だけは心の底から信用していたし、今の時点で裏切る心配があるとは思わない。でも『見るな』って言っても見るわよね」
私がどれだけ厳命したところで、彼女たちは主人への抑えきれない好奇心から必ず触り、中身を見てしまうに決まっている。人間の好奇心とは、そういうものだ。
「うーん……」
ともかく『未来を知っている』という最大のアドバンテージを、忘却のせいで簡単に手放して良いはずがない。あの化け物じみた村娘に絶対に殺されないようにするためにも、書き残せることはすべて残しておくべきだ。




