第6話 公爵夫人の変化
「……あの、確かに私は、娘に厳しく指導してあげてくださいと先生にお願いいたしましたわ」
「はい。そのように聞いておりました」
「ですが……少しやりすぎているような気がするのは、私だけでしょうか?」
「いえ、奥様だけではありません。……実は私も、心の底からそう思います」
「う、ううん? 何か私、変なことを話しているかしら? 先ほどから少し見させて頂いていたのですけれど、どうも娘は、まるで一ヶ月後にダンスを完全に踊れなければ、その場で死ぬというくらいの気合いで練習をしているように見えるのですが……?」
「見えるというより、奥様。実際、お嬢様にはそのように聞いております」
部屋の入り口の方で、何か二人が真剣に話し込んでいた。天井から吊るされたシャンデリアの柔らかな光が、汗まみれの私の姿を白々と照らす。私は外界の音をシャットアウトし、ただひたすらに意識を集中させた。
室内には何の音楽も流れることはなかったが、私の頭の中には、かつて何度も踊った完璧な音楽が流れていた。誰に何を言われるでもなく、私はただ機械のように踊り続けた。
木製の床に、足元からじわりと赤い血が滲んでいる。
だが、この程度の過酷さでダメになって動かなくなるような足なら、今の私には端からいらない。もっと、もっと私は、圧倒的に強くなりたいのだ。
「いえいえ、先生、私の言葉が間違っていたのかもしれませんわ。それは私の方から申し訳なかったと言いましょう。ですが……娘はまだ三歳ですからね!? あんなに汗だくになって高価なドレスを汚して、あんなに必死になって社交ダンスの練習をしなくてもいいのですよ!?」
「ですが奥様。お嬢様自身が、こうして欲しいと強く望んでおられるのです」
「あ、あなたのご高名は、他家の貴族からも広く聞き及んでおります。自分がこれと認めた人間以外の指導は、決して本気ではなさらないという話も聞いたことがありますわ。……ですが、これはさすがに娘が可哀想です!」
「奥様」
「――ちっ」
激しくステップを踏みながら、私は思わず小さく舌打ちをした。
先ほどから外野の声が邪魔で、集中できないじゃないか。
「お母様!」
「ど、どうしたのですかフレデリカ? そのようなはしたない大声を出すのは、公爵家の娘たるあなたがすることではありませんよ」
「私の邪魔をなさらないでくださいまし!」
「邪魔……? あなた、一体何を言っているのです。どうしてあなたが、そこまで死に物狂いで頑張る必要があるのです。私は確かに、あなたを一流の淑女に育てようと、一流の教師を呼びました。しかし、このような過酷な、大人でもやらないようなレッスンをしろとは、一言も言っていませんよ!」
お母様は、ごく当たり前の常識を言っている。
そう、この時点のお母様は、何一つ先の未来の惨劇を知らないのだ。誰からもまだ精神的に追い詰められてはいないし、ただ、『夫が別の女のところに浮気をしに行ってしまった』というだけの認識。
公爵家の本当の実権は、正当な公爵家の血筋を持っている自分自身が握っているし、それを手放さなければ絶対に大丈夫だと思っている。そしてそれは、自分の手から決してこぼれ落ちることのない、永遠に握り続けられる全能の権力だと信じ込んでいるのだ。
すでにお父様はお母様が持つ全てを、簒奪するつもりで動いているなどと夢にも思っていないだろう。だから、今日この日にこんな甘えたことを抜かすのだ。
私は、お母様を射殺さんばかりの鋭い視線でしっかりと睨み据えた。
「お母様。私は、ただの凡人です」
「何を言っているのですか、フレデリカ。偉大なる公爵の娘であるあなたが凡人などと……一体、誰がそのようなおかしなことをあなたに教えたのですか!? まさか……」
イメルダ先生に余計なことを吹き込まれたのかと、お母様がそちらへ鋭い視線を向けた。
「私ではありません。そんなこと、もし思っていても口にしませんし、そもそもお嬢様はいろんな意味で凡人などではございません。間違いなく、神からの大いなる授かりものを受けた、ギフテッドの一人だと私は思っておりますよ」
「フレデリカが……ギフテッド……」
ギフテッドとは、明確な基準があるものではない。どのラインからが『天才』を超えた『ギフテッド』と呼ばれるのか、そんな定義はどこにもないのだ。
ただ明らかに、人間の限界を超越した異常な能力を持つ子供を総称して、そう呼ぶに過ぎない。
「それは、母親としてとても素晴らしいことですが、だとしてもこのレッスンは、あまりにも行き過ぎているのでは……」
「お母様。――お父様が、一体何を考えてこの家を出て行ったか、私はすべて知っています」
「何を、知ってるですって……?」
「お父様がこの家を出ていかれたのは、お母様に無理矢理結婚させられたから。お父様には本当に愛している人がいたのに、どうしてもお母様がお父様を好きだからと、権力を使って無理に求婚したからですわ。だからお父様は――」
「違うっ!!」
お母様が悲鳴のような声を上げて叫んだ。もはや我が子を見る目ではない、憎悪の籠もった目で三歳の私を睨みつけていた。
「そんなことは絶対に違うわ! 誰が……誰がそんな滅茶苦茶なことを、あなたに教えたのですか!?」
「お父様は――」
「それ以上、言わなくていい!」
ヒステリックにお母様が叫び、肩を激しく上下させる。
「お父様は、お母様に『復讐』したいのですわ」
それでも尚、その言葉をぶつけた瞬間、お母様の顔が悪魔の形相へと変貌した。
「よくも……よくも実の母親に向かって、そのようなおぞましいことを!」
「お母様。私は何度でもそう言いますわ。お父様はいずれ、お母様からすべてを奪い取りにこの屋敷へ戻ってこられます。無理やり結婚させられた被害者面をして、お母様に虐げられたと周囲に被害を訴えながら……裏では心から愛したあの女を妾にし、すでに優秀な息子まで作って、ずっと、私たちからこの家を奪い取る算段を立てているのです」
「やめなさい!!」
「私、お父様『ご自身』の口から直接、『この家を自分の本物の家族で満たすのだ』と聞いたのですから、間違いありませんわ」
「……っ」
お母様の目が、信じられないものを見たかのように点になった。
そして、糸が切れた人形のように、その場でガタガタと床に崩れ落ちた。
お母様が過去に犯した過ち『お父様を愛した女から奪い取った』ことを、私が知ったのは、もちろん今この瞬間ではない。ずっと遠い未来。二度と絶対に起きないはずの、あの暗い未来。
私が村娘にしてきたことを知ったお父様が、完全に私と敵対し、私を断頭台へ送る直前に、私を罵るために吐き捨てた言葉だ。
『お前はやはりあの女の娘だ! あの悍ましい女の娘だ!』
「お母様。もう一度言います。私は、ただの凡人です。お父様のあの底知れない野心と恨みに、とても太刀打ちできるような賢い娘ではないのです。ですから、のんびりとダンスの練習などしている場合ではないのですわ。さっさとこんなものは最速で終わらせてしまいます。一通り覚えたら、あとは自分で忘れないようにだけ練習すればいいだけのこと。……お母様。このままじゃ私たち、お父様に惨殺されてしまうわ」
「フレデリカ、お前、は……」
「愛する人をどうしても手に入れたいと思い、お母様にはそれを叶えるだけの強大な権力があった。それを迷わずに振るった。……私は、そんなお母様を悪いとは思いませんわ。むしろお母様のような高貴で美しい女性を手に入れて好きにできたのに、あの男は何が不満だったのか。愛した女は妾にできたのだから、それで十分ではなかったのか……」
「そうです! 私もそれは許したのですよ!? だからあの人に言われるまま皇都に立派な妾の家を建てることも許した! なのにあの人は……それでもまだ私を許さない……どうしてっ」
「お母様――私にはお父様の心など理解しかねます。ですが確実に私が凡人のままでは、私たちはお父様に殺されてしまうの。私には、お父様の恨みは、それほどまでに強大で深いものだと感じられました」
「どうしたら……っ。今更、あの人を公爵家から排除するには、よほどの理由がなければ……」
「お母様。すべて、このフレデリカにお任せください。フレデリカが、必ず何もかもをやり遂げてみせますから」
私の汗が落ちた木製の床に跪いたお母様の青ざめた顔を、小さな両手でそっと包み込み、優しく微笑みかけた。それはきっと、誰の目から見ても、汚れなき天使のような美しい微笑みだったと思う。
ただ、お母様は、異質なものを見るような目を向けた。
お母様が正しいかといえば、正しくはない。
私が正しいかといえば、正しくはない。
だが正しい人間などどこにいる。
お父様が正しかったというのか。
あの村娘が正しかったというのか。
皇子が正しかったというのか。
断じて違うと私は言い切れる。
所詮、人は正しくないまま歩くしかないのだ。ならば私はこの復讐を最後までやり遂げる。そう決めていた。
「――お嬢様、はい、そこでターン!」
イメルダ先生の鋭い声に合わせて、私はくるっとその場に、まるで目の前にエスコートする相手がいるかのように鮮やかに回転した。そして、完璧なフィニッシュを決める。
張り詰めていた最後のポーズを解いた瞬間、今まで限界まで辛抱していた息を一気に吐き出した。私は肩を激しく上下させ、貪るように呼吸をした。
額には大粒の汗の玉が浮かび、視界をにじませる。呼吸は完全に乱れ、手足は疲労のあまりガクガクと小刻みに震えていた。いくら精神が大人のままであろうと、たった三歳の幼い肉体だ。
わずか一ヶ月という短期間で、この過酷な動きに耐えうる体力をつけるなど、そもそも生物的な限界がある。私は毎日死に物狂いでレッスンに励み続けたが、最後まで肉体の体力だけは追いついてはくれなかった。
「お嬢様。今日までよく頑張りました。大変素晴らしい。お嬢様はその三歳の体で、見事ダンスを今の段階における限界まで極めました。三歳の肉体では、これ以上の無理が利かないのが残念ですが……もちろん、ダンスの奥深さにはまだ先がございます」
「ふう……っ、ありがとうございます、イメルダ先生。私が、ここまで来られたのも……すべて先生の容赦のないご指導のおかげですわ」
「そう言って笑っていただけるのは、指導者として大変嬉しいですよ。……まあ、お嬢様が本当に目指しておられるのは、社交ダンスの頂点などではありませんものね。ひとまず、これで完成といたしましょう」
「……」
先生のその言葉を聞いた瞬間、私はその場に膝から崩れ落ちそうになり、奥歯を噛み締めてなんとか耐えた。私が目指すのは、品格があり、教養に富み、礼儀正しく、落ち着きと優雅さを兼ね備えた、完全無欠なる淑女。
どれほど疲弊していようと、他人の前で無様に疲れ果てた姿を見せるのは、淑女のすることではない。
震える足を精神力だけでなんとか律し、私が必死に呼吸を整えていると、部屋の端でずっと見守っていたお母様がこちらへ近づいてきた。
最近のお母様は、お稽古の時間になると、よくこの部屋へ足を運んでおられる。
「フレデリカ……あなたは何という子供なのでしょう。イメルダ先生。フレデリカはここまで完全に踊れても、まだ完璧ではないとおっしゃるのですか? 私はこの子以上にダンスが上手な大人など、社交界でも見たことがありませんけれど?」
この一ヶ月、私の死に物狂いのダンスレッスンを特等席で見続けて、お母様はずいぶんと私の体を心配してくださった。今の私たちは、同じお父様という男に裏切られ、捨てられた者同士。
その事実をあらかじめ伝え、お父様の考えを跳ね返すと誓った私に対して、きっと深く共感するところがあるのだろう。
それにしても……一度目の人生でのこの時期のお母様は、こんな優しい雰囲気ではなかった。
前世でも同じ境遇ではあったのだが、お母様はお父様が帰ってこなくなった寂しさと悲しみから、この頃にはもうすでに精神的におかしくなり始めていたのだ。食事制限もできず急激に太り始めてもいた。
けれど今世のお母様には、そんな狂気の兆候はどこにも見えない。そのおかげか、以前よりもずっとお母様は綺麗なままだし、深く心が通じ合い、仲良くなれている。これは私の計画にとって、とても良い兆候だ。
一度目の人生の最期、断頭台へ向かうその瞬間まで私と一緒にいてくれたのは、お母様とお兄様だけだった。しかし以前の私は、この二人ともあまり関係がうまくいっていなかったのだ。
「残念ながら奥様。お嬢様といえども一人の人間です。一人の人間が、その生涯で真に極められる領域は、一つと決まっています。お嬢様がもしダンスの頂点だけを目指せば、きっと歴史に名を残すレベルで頂点に立つことができるでしょう。それは間違いないのですが……」
イメルダ先生は、静かに首を振った。
「……娘の才能は、それほどまでに凄まじいのですか?」
「はい。お嬢様ご自身は自分に『天からの授かり物』などないとおっしゃいますが、私から言わせれば、わずか三歳でこんな地獄のような努力を継続できること、その精神力こそが本物のギフテッドです。ほとんどの人間は、どれほど優れた才能があっても、努力を行うこと自体ができません。それほどまでに努力とは辛く、苦しいもの。三歳の未発達な体と精神力であれば、尚のことですわ」
「確かに……。イメルダ先生、ひょっとしてこの子は、どのような分野であっても極めることができるのではないかしら?」
お母様は、イメルダ先生に対してかなりの敬意を払って接していた。公爵夫人として、社会的地位はお母様の方が圧倒的に上なのだが、どうもこの先生、教育や家庭教師の界隈ではかなり高名な人物らしい。
前世の私はそんなこと何も知らなかったのだが、私の世代が大きくなった頃には、彼女はもうとっくに引退していたのだろうか? まだ若く見えるのだけれど、そのあたりの歴史のズレはよく分からなかった。




