第4話 決別と出会い
「誰だ?」
「フレデリカですわ、お父様」
「おお、私の可愛いフレデリカ。入っておいで」
一瞬、ぞわっと全身に鳥肌が立った。可愛いフレデリカを、あの皇子と一緒になって殺したのはあなたですよ。そんな思考を私が脳内で巡らせている間に、アンナが恭しく扉を開けてくれた。
「フレデリカ!」
お父様が華やかに笑った。満面の笑顔で出迎えてくれたのだ。二度とこの屋敷に住まいを戻す気などないくせに、よくもまあ、そんな白々しい顔ができるものである。
整った顔立ちを持ち、私と同じ深い碧眼が特徴的な、まだ若いお父様。
あの断頭台の記憶と比べると、本当に若い。私に最後の引導を渡しに監獄へ来た時は、こんな青臭い感じではなく、もっとダンディーで、どこまでも残酷な顔をされていたものだ。
お父様は公爵としての威厳を出すためだろう、綺麗な口ひげを生やしておられる。身長は高く、とても筋肉質でしなやかな肉体。一度目の人生の終盤、私が少々抵抗したところで、ピクリとも動かなかったっけ。
それにしても若い。そうか。この時はまだ、お父様も今の私の精神年齢より若かったのだ。公爵でありながら恋愛結婚を望んだ愚者。それでいて、最終的には肉親すら殺して何もかもを手に入れた勝者。
「おいでフレデリカ。私の大事な花よ」
手招きされて、仕方ないからお父様に抱きつきにいく。ぎゅっと抱きしめると、小さな体を簡単に持ち上げられて、そのまま抱っこされた。私はニコニコとした愛らしい笑みを、崩さなかった。
これから堂々と浮気をしに皇都へ行くお父様。その一番の理由が、何よりも優秀な私と同じ年齢の『妾の子供』の存在だった。すでに生まれているその子供に、お父様はすべてを賭けたのだ。
「あなた、早くお帰りくださいね」
「そうだよ。お父様。皇帝陛下のお手伝いもいいけど、まだまだ僕は、お父様に教えてほしいことだらけなんだから」
この時点で、お母様はお父様の心がまったく家族に向いていないことに気づいている。けれど、お兄様はお父様の行動の真意をまだ何も知らない。
そして、お兄様はこれから、お母様に、お父様に、そして私に、人生のすべてを振り回され、最後は私と一緒に断頭台で死んだのだ。でも、ご安心なさってください。今度あなたを振り回すのは私だけです。
そしてお兄様を、今度はちゃんと育ててあげますからね。以前は養育環境も悪かったから、余計にお兄様は使い物にならなかったのだ。
まずはそれを改善し、お父様と妾の間に生まれた『キース』に、お兄様が家督争いで絶対に負けないように仕込まなくては。
「おお、もちろんだとも。パトリック皇帝陛下の要請が終われば、すぐにでも帰ってくるとも」
いいえ。あなたは一日だけ帰ってくる日はたびたびあったけど、結局本格的にこの屋敷に帰ってくるのは、お母様と私とお兄様を、この家から追い出す時ですよね。本当に、あなたという人は……。
「フレデリカ、どうした? ずいぶんと悩んでいるようだね」
私をまだ抱き上げていたお父様が、心配そうに顔を覗き込んできた。この時、この男は一体何を考えていたのだろう。
この時点で、これから向かう皇都に愛妾がいて、そちらの方にお父様が本気になっていることは知っている。どうやらお父様からしたら、お母様との結婚は本意ではなかったようだ。
というのも公爵家には一人娘であるお母様しかおらず、優秀な婿養子が欲しかった。そこで、文武に優れ、おまけに美男子ときたお父様を、若き日のお母様が熱望したのだ。お母様も顔はかなり良い方だ。
おまけに公爵家の一人娘となれば、その誘いを断る男など、普通はいないはずだった。しかし、お父様は違った。その皇都にいる女を、心から愛していた。
だからこそ、これからお母様の失態を誘発させ、何よりもお母様の血筋を持つ私が皇子と不仲になったことを決定打にして、ただの妾だった女を『第二夫人』として迎え入れる大義名分を得るのだ。
お母様と私とお兄様の失態が、お母様の権力を限界まで弱らせ、その逆にお父様はパトリック皇帝の腹心として、国の内憂外患を治めて立場を不動のものにした。
だから、今日この日は私たちが落ちぶれていくための、最悪の序章だ。
そこまで考えを巡らせた瞬間――私の心の中に、限界を超えて煮えたぎるほどの憎しみが爆発した。
全部、お前のせいだ……。
「殺してやる」
気づけば私は、三歳の愛らしい口元から、およそ父親に向けるものとは思えない言葉を放っていた。
「……う、うん? フレデリカ、今何か言ったかい?」
「いいえ、お父様。皇都ではお身体をご自愛くださいませ、と言いましたの」
まあこの男の言い分もわかる。確かにお母様には、色んな意味で恨みがあったかもしれない。しかし、私と兄はそれに関係なかったはずだ。それなのに、私たちを裏切った。私と兄を殺した。
自分の実の娘と息子を、断頭台へ送った。なのに一度目の人生の最後、世間はお父様の行いこそが正義だと、彼を英雄のように褒め称えたのだ。
お父様は私をふかふかの絨毯の上へと下ろした。どこか私の毒に気圧されたような、奇妙な顔をしている。そして身支度を整えると、外で待機している馬車へと向かった。
「では、しばらく家を空ける。家族や領地のことで何か困ったことがあれば、いつでも使いを出してくれ」
「それよりも、早く帰ってきてくださいね」
お父様は私たちの心配を本当にしているようにしか見えない、完璧な聖父の顔で馬車に乗り込んだ。
この世界には魔法がある。そして公爵の乗る馬車には、最上級の魔法が仕掛けられている。馬車の前に繋がれているのは、額に黒い角を持つ、美しい真っ白な馬が二頭。地面をその足で、鋭いいななきとともに力強く叩いた。
そうすると、地面に淡く輝く魔法陣が浮かび上がる。馬が走り出す。そのまま馬車ごとふわりと宙に浮き、上空へと真っ直ぐに駆け上がっていく。空を駆ける天馬『ジグラス』と呼ばれる聖獣。
帝国でも一部の選ばれた人間しか乗ることが許されない、莫大な財力の象徴である超高級馬車だ。皇都まで海沿いを南西に三百六十キロル。ジグラス馬車なら、午後には皇都へ着いてしまう。
お父様が空の彼方へと遠ざかっていく姿を、私たちは見送る。行ってしまわれた。私たち三人とお父様の、これが決定的なお別れ。チラリとお母様の横顔を盗み見ると、それはそれは、とても厳しい表情をしていた。
「さあ、中に入りましょう、レオナルド」
お兄様は、自分の凄惨な運命などまだ何も知らずに、素直に頷いていた。
「フレデリカ。あなたには、今日から新しく『すべての淑女教育に精通している』というイメルダ先生が来てくださいます。すぐに準備をしてダンスのお稽古をしていなさい。お父様は『お稽古などまだ早い』と言っていましたが、今日からは厳しくいきますからね。分かりましたね!?」
「かしこまりましたわ、お母様。是非そのようになさってください」
そう言って私は優雅に微笑み、小さな手でドレスのスカートの端をちょこんとつまんで、完璧なカーテシーの礼を取った。
「……」
顔を上げると、お母様がひどく不思議そうな目で私を見つめていた。理由は分かっている。本来のこの年齢の私は、お母様の厳しい言葉に驚いて、その場で激しく泣き出すはずなのだ。
『大好きなお父様』がいなくなって寂しくなったばかりのその日のうちに、初めての厳しいお稽古が始まるのだ。今まではそんなもの一切なく、のびのびと甘やかされて暮らしていた。
それが急に変わると告げられて、前世の私は泣き喚いたのだ。お母様にすれば、皇都にお父様の妾がいて、その間にすでに子供が生まれていることを、この時点で知っていたのだろう。
しかも、あちらの子は三歳にしてすでに優秀さの片鱗を見せているという。
その事実に、お母様はかなりイライラして焦っているのだ。立場的に負けるわけがないと意地を張っているが、実力的にも、私たち正妻の子が愛人の子に負けることがないように、今から『私』を必死に仕込もうとしている。
その割に、お母様は自分自身とお兄様には甘いのよね。困ったものだわ。
さて、まずはどう動こうかしら。ともかく、以前のようにいつの間にか外堀を埋められて追い詰められ、散々もがいた末に断頭台にかけられている――なんて間抜けなことだけは、絶対に阻止しなければならないわ。
「……完璧です、お嬢様! 素晴らしい! 何という優雅なダンスなのでしょう!」
ダンスの先生――イメルダ先生が、驚きに目を見開いて感嘆していた。早速始まったダンスの授業。教えていただくのは社交界で踊る社交ダンスである。それを私はほぼ完璧に踊って見せた。
三歳児では必要な筋力がまだついていないから、あくまで『ほぼ』であり、完璧な踊りではなかった。それでも、三歳児が踊れるような踊りではないことだけは確かだ。
何しろ私はその容姿の良さもあって、落ちぶれるまでは社交界の華などと呼ばれていた存在なのだから、三歳では踊れない領域に到達していて当たり前だ。
「ひょっとして、お嬢様はすでに邸内で練習をされていたのですか? いえ、それにしても足の運びといい、リズムの取り方といい、天才的としか言いようがないのですが……公爵夫人からそんなお話は聞いておりませんでしたし」
大人になってからの技術をすべて詰め込んだダンスを踊れば、相手は何を思うだろうか。しかし、その思いに構っている暇はない。私には時間がないのだ。
三歳児のお芝居で、わざとできないふりをしようかとも考えたが、遠回りしている時間が惜しい。まだ幼い子供の私に、大人の私の精神が宿っている。
本来の私がどこに行ったかといえば、私の記憶として吸収されて完全に一つに溶け込んだことが感じられる。自分のことだから理解できる。自然の法則なのか、それとも魔法の類なのか。
あの超越者(ロック様)がしたことなのだから私には想像がつかない。
そして、こんなこと誰も想像するわけがない。
その場合、相手はきっと真実にはたどり着かず、私を『神からの贈り物』だと思うだろう。この世には天才の中でも、さらに上を行く神から才能を授けられたギフテッドがいる。
そういう存在は幼くして難解な数式を解き、見事なピアノの音色を奏で、あらゆる場面でリーダーになり、応用力に長け、見事な絵画すら描ける。
だから、子供のふりなどしている暇はない私は、ギフテッドとして生きることにした。でも私はギフテッドじゃないから、成長すればすぐにメッキが剥がれてしまう。それが剥がれないように努力でギフテッドに見せかけるのだ。
「いいえ、先生。私がダンスを教えてもらうのはこれが初めてですよ」
幼い顔で私は上品に微笑んだ。
「それに、驚くほどきちんとした言葉遣い。公爵家には本物がいるのですね」
イメルダ先生は私の予想通りの理解をしてくれた。
――けれど、その時。私の心の中に、ふと小さな棘のような違和感が突き刺さった。
……待って。イメルダ、先生……?
私は微笑みを浮かべたまま、目の前の落ち着いたメガネをかけた家庭教師をじっと見つめた。
一度目の人生の記憶をどれほどひっくり返しても、このタイミングで私にダンスを教えに来たのは、もっとヒステリックで凡庸な別の女教師だったはずだ。
すべての淑女教育に精通しているというこの『イメルダ』なんて人物は、前世にはいなかった。私が彼女を知らないのは、単に忘れていたからではない。前世で私にダンスを教えていたのは、絶対にこんな女ではなかったからだ。
記憶と違う人物だと気づくと、目の前のイメルダ先生とやらに強烈な違和感が湧き上がる。
「私の顔をそんなに見て、どうかしましたか?」
「いえ……」
誰だこいつ?
こんな女ここにいるはずがない。だって私がここに戻ってきたのは、まだ数時間前のことだ。
お母様が私の影響を受けて、直前で教師を変えるにはあまりにも時間が早すぎる。イメルダ先生をお母様が雇った理由自体は理解できる。妾の息子が思いのほか優秀だという噂に、激しく焦ったのだろう。
それで『すべての淑女教育に精通している』などという、怪しげな肩書きを持つ人物を雇ってしまった。そこまで考えて、ふと、あることが引っかかった。
まさか……。
『お前に直接力を授ける気はないが、代わりに役に立ちそうな者を三人遣わしてやろう。それは元々お前の世界にいる者たちだが、これまでの人生でお前が出会ったことのない人間だ』
その言葉が私の頭の中にはっきりと浮かんだ。




