第3話 アンナとの再開
「おはようアンナ。今日はとてもいい朝ね」
私は気持ちよく、ふかふかのベッドの上で伸びをした。断頭台にかけられて首を落とされ、死ぬ前は、こんなベッドの上で眠ることは許されなかった。
硬い石の床で寝かされ、罪人として鎖につながれ、トイレに行くことすら許されず、糞尿にまみれたその醜態を大衆の見世物にされ、その上で何日も何週間も何ヶ月も過ごしたのだ。
それに比べて、今は本当に天国のようだ。
「お、お嬢様がもう起きてる? 自分で起きていたのですか?」
この頃の私は朝がとても苦手だった。まだ三歳である。世間の常識でいえば、朝が苦手で当たり前なのだ。それでも、この私付きのメイド、アンナにはよく強引に起こされたものだ。
「ええ、朝は自分で起きるもの。そうでしょう?」
「そ、そうでしょう? お嬢様、そんな喋り方でしたか?」
「もう三歳だもの。これからは言葉遣いも大人っぽくしようと思うの。社交界の華を目指す私においては、大事なことでしょう?」
「まあ……分かっておられるならいいのですが……」
何か気味悪そうに、アンナが私を見ていた。アンナの顔はなかなか綺麗だ。しかし陰で若いメイドたちから、どう言われているかは知ってる。
『行き遅れのアンナ様』である。
この頃でもう二十六歳か。肩のラインでぴたりと切り揃えられた、艶やかな漆黒のボブカット。白い肌は透き通っていて、瞳は冷静で鋭い光を宿している。成長した時の私と違って胸が小さい。身長は少し低めだ。
長くこの家に勤めているが、二十歳~二十二歳が適齢期と言われるメイド社会で、気づけば完全に行き遅れて貰い手もない。
確か三十の頃に商家の老主人の数多いる愛妾の一人となり、その後の人生は碌な人生ではなかったようだ。アンナは私が完全に落ちぶれる前であったが、厳しくても忠誠心の強い女だった記憶がある。
それなら今回は、愛妾になどならないように適当なところで、騎士の妻程度にはなれるようにして……。
「ねえアンナ。あなたが他の若いメイドたちから、陰でなんて呼ばれているか知っていて?」
「それはどういう意味でしょうか……?」
アンナが私の言葉に驚いて、目をまたたいた。
後から考えると私はまだこの時、自分の年齢に対する自覚がなかったのだなと思う。だからこんな言葉が出た。
「『行き遅れのアンナ様』、ですって。ふふ、生意気よね。でも安心なさい。あなたがそんなことにならないように私はいつも考えてるの。そうね。誰か良い公爵家の騎士との縁談をセッティングしてあげましょう。お母様は私に厳しいけど、お兄様は私に優しい。お兄様を使えば、きっとそれぐらいできると思うのよ。その代わり私を裏切ってはだめよ?」
お兄様は私の二つ年上。そのお兄様がお母様に『アンナって行き遅れなの? お母様はどうして結婚させてあげないの?』とでも言わせれば、お母様は簡単に動かせる。
「……お、お嬢様っ、起き抜けに言う冗談としては強烈すぎます。どこでそのような可愛げのない会話を覚えたのですか。若いメイドたちが余計なことを教えたのなら叱らねばいけませんね」
「まあそうね。じゃあ聞かなかったことにしてちょうだい」
「そうです。冗談はその辺にして早く用意をいたしますよ」
「でも、とても残念だわ。アンナはとても私に良くしてくれるから、アンナがそんな風に呼ばれているのが私、悔しくて……。私、アンナには幸せになってほしいと思っただけなの」
ここで慌てなくていい。アンナが婚期に焦っていることは間違いない。血迷っていくら金持ちとはいえ、老人の愛妾になどなったのだ。
前世の私はまだ呑気で、『アンナは仕事に生きる厳格な人間なのだ』とばかり思い込んでいた。だからこそ、彼女が愛妾となった報せを聞いた時は、ひどく驚いた記憶がある。
だから、今この場で信じなくても、時間をかければきっと私の話が気になって仕方なくなってくるはず。
「……お嬢様」
しかし、前世で散々結婚につまずき、最終的に猿のような男と結婚したというのに、私はまだ婚期に焦る女の気持ちというものを侮っていた。
「何?」
「これは、あくまで私の独り言、ただの戯言だと思って聞いていただきたいのですが……」
「どうしたの?」
「私、できれば結婚相手は誰もが振り返るような男前がいいです! あと、絶対に浮気をしなくて、私だけを一生お姫様のように甘やかしてくれる優しい人がいいです! 背もできれば高くて、ガッシリした体型の方がいいです! そして我が公爵家騎士団の中でも、将来の団長間違いなしと言われるアレックス様のような、圧倒的に魔法も剣も優秀な方がいいと思います!」
「そ、そう……」
急に三歳児を相手に何を言い出すのだ、この女は……。
よくもまあ、二十六歳にもなってそこまで恥ずかしげもなく夢を見られるものだ。男前で、優しくて、誠実で、高身長で、おまけに将来有望なエリート騎士。
そんな完璧な男が、なぜわざわざ婚期を逃した口うるさい行き遅れのメイドを選ばなければならないのか。そんな好条件の男など、とうの昔に若くて可愛い下位貴族の令嬢と付き合っているに決まっている。
相変わらず、自分の立ち位置というものを分かっていない。
「は!?」
……いやいや、落ち着こう。
前世の私なら、ここで『鏡を見てから言い直しなさい』と即座に一蹴し、彼女のプライドを粉々に踏みにじって余計な敵を作っていただろう。だが、今の私は違う。
それによく考えれば『アレックス』か……。
なるほど、彼は確か今年で二十歳だったかしら?
脳裏の記憶を掘り起こす。確かアレックスという騎士は将来、女とギャンブルに溺れて騎士としての身を持ち崩すはずだ。私と同じく今の評価が、先の評価と同じとは限らない典型のような男だ。
その落ちぶれ方が自分と被って見えたから、アレックスのことはよく覚えていた。この、だらしない男の手綱をしっかり者のアンナが握って支えれば、案外、良い夫婦になるのではないか。
もちろん、アンナがそんな男の情けない一面を受け入れられるかが問題だが、女とギャンブルの件が表沙汰になる前に私が裏で手を回して潰してやれば、アンナのプライドも保たれる。
そうなればアンナも文句はないはずよね……。
フフ……上手く使えば、アンナを以前以上に、私への忠誠心が高い駒に仕立て上げられるかもしれないわね。
「よく分かったわ、アンナ」
私は笑みを浮かべ、小さな手をアンナの頬にそっと添えた。
「私はこの件をしっかりと聞き届けたわ。だから、あなたの未来の夫はアレックスよ」
「っ……! お嬢様……! い、今のは本気で言ったわけではなく、私も悩みすぎて……なぜこんなことを言ってしまったのか」
現実的な言葉が出て、少し冷静に戻ったか。まあこれを三歳児に最後まで本気で言ってたら、それはそれで問題ね。
「まあいいではないの、アンナ。とにかく私はあなたの言葉を覚えておく。それでいいわね?」
「それは構いませんが……」
そこで私は話題を切り替えることにした。
「アンナ。今日からお父様が皇都に住居を引っ越されるのよね?」
「は……はい。公爵様はしばらくあちらで、パトリック皇帝陛下の側近の一人となられます。本来ならば公爵様のすることではないのですが、幼馴染でもあるパトリック皇帝陛下から、どうしてもとの要請もあったようです」
今から考えると妙な話だ。いくら皇帝陛下とはいえ、公爵を側近になどできないはず。公爵と皇帝陛下で、側近になるほどの決定的な身分差はないからだ。
お父様はその後、私たちが魔国の人間を引き入れ、あの村娘の暗殺を企てたことを理由に、全力で私たちを処刑しようと動いた。
その結果、お父様はその功績を評価され、血縁に罪人が出たにもかかわらず、何の罪にも問われず、さらに立場を強化し、領地も加増された。
私たちを殺すことに加担するお父様。
理由からして、私たちが殺されるのはやむを得ないと、お母様とお兄様は思ったようだが――私は違う。そもそも、そうせざるを得ないほどお父様が、私を追い詰めてきたのだ。
「お嬢様?」
アンナが私の顔を鋭く見ていた。
「あら、何?」
「あ、いえ。ともかくご支度を。公爵様をお見送りしなくてはいけません」
「そうね。ちゃんと見送ってあげないとお父様、泣いてしまうわね」
私はすっとベッドから降りた。
それと同時にアンナが手を叩く。そうすると部屋にもう二人、メイドが入ってきて私の服を脱がし始めた。
その行動に一瞬、戸惑った。公爵家を追われてから、自分の身の回りの世話はすべて自分でしてきた。そして、その方が快適だった。何よりも、ここにいるメイド二人はお母様と私の立場が傾くと、あっさり裏切ったのだ。
私の人生で、私を裏切らなかったものは少ない。そして私に最後までついて来たのは、そうせざるを得なかったお母様とお兄様だけである。だから、メイドたちに体を触れさせるのも不快であった。
「あなたたち早くしなさい。お嬢様を待たせてはいけません」
「は、はい。申し訳ございません」
アンナが厳しい声を出す。アンナは私付きのメイドとして一番立場が高い。着替えをさせるメイドたちは若く、立場は低い。確か今は二十歳だ。
アンナもだが、公爵家が隆盛な時の私付きであるだけに、全員が公爵家に連なる小貴族の子女である。この二人は、正直言えば許せない。だが私も一度目の人生で学んだことがある。
身の回りの人間に敵がいることほど面倒なものはない。たとえこの子たちでも敵にすれば私は身動きがとれなくなる。それならば、どうあっても復讐したい相手以外は、許すべきだ、と……。
大人しく服を着替えさせてもらった。
「二人ともありがとう。いつもご苦労様」
フリルのついた青を基調にした子供用のドレスは、絹の生地で贅沢に仕立てられている。少し前とは比べものにならないほど華やかで、可愛い少女に私は変身した。
「ふむ……」
姿見の前に立ち、綺麗な服を着て髪の毛を整えてもらったにもかかわらず、口元に笑みは浮かばない。無表情のまま、自分の体の各部をじっくりと確認していく。
整った鼻梁はまるで彫刻のように美しく、ほんのりと朱に染まった白い肌は、花びらのように柔らかそうだ。そして、深い色を讃えた碧眼は、神秘的な光を放っている。
私の瞳は、冷静で大人びた印象を与え、控えめに言っても整った顔立ちは、まるで計算高い悪の令嬢のようだ。最初はこの可愛さを武器に、周囲を見透かしてうまく立ち回っていた。
それが、一体どこから狂ったのか。
「あの芋臭い女に、どうして負けたのかしら。魔力以外はすべて私が勝っていたと思うのだけど……」
「お嬢様? 何か言われましたか?」
「……いいえ、何でもないの」
着替えが終わり、若い二人のメイドが退室していく。
部屋にアンナと私だけになったのを見計らい、私は鏡越しに彼女を見据えた。
「アンナ」
「何でしょうか?」
「私は一度した約束は破らないわ。だって私はアンナのことがとても大好きなの。だから大事にすると決めてるのよ。それを忘れてはダメよ」
前世では裏切られ続けた。だから私は今世で自分を大事にしてくれる人を決して裏切らない。密かにそう心に決めた。
「お嬢様……」
「お父様は朝食は召し上がられるの?」
「えっと……い、いえ。公爵様はお嬢様方とお別れの挨拶をされたら、すぐに出発されるご予定です。あちらで重要なご用事があるそうで、大変お急ぎなのです。それなのに、お嬢様のお目覚めが一番遅かったもので、公爵様も少々焦っておられるのですよ」
「それは大変ね」
「あの……お嬢様、気を落とさずに。このアンナがいつもそばにいますからね!」
「ありがとう、アンナ」
別に、気落ちなどしていない。ただ、自分の二人の子供を死ぬまで追い詰め、正妻まで殺した。これからそうしようとしている父親の顔を、ちゃんと見ておこうと思うだけだ。
私は部屋を出た。まずはお父様の部屋で最後のお別れをするらしいから、そこへと向かう。廊下の光景に、少し足を止めた。
豪華なシャンデリアに、ふかふかの絨毯。重厚な柱の立った、それはそれは立派な建物。
私が村娘と関わらず、これから何もしなければ、少なくともここで暮らし続けられて、断頭台にかけられ、死ぬようなことはないかもしれない。それどころか、良い旦那様にも恵まれて幸せな人生は送れるかもしれない。
でも、そんなものはいらないから何かする。
まずは隣国の魔国と、早めに連絡を取りたい。そして私自身、もっと魔法を磨きたい。ただ、己の魔法の才についてはあまり期待していない。
ロック様は私に何も与えられないと言っていたから、魔法の才能は以前と同じ程度なのだろう。それでは、あの化け物かと思えるほどの魔法の才能を持つ村娘と、あの女に群がる五人の男たちには到底勝てない。
だからとて、努力せぬ理由にはならない。幸い私の今の心は大人だから、昔よりは才能を伸ばせるかもしれない。他にも歌や音楽、そういったものにも磨きをかけたい。
もう二度と人に私の人生を左右させたりしない。
そのために、狂気に染まるほど努力して見せましょう。
そんなことを考えながら歩いていると、お父様の部屋の扉の前まで来ていた。




