第25話 遅れてきた公爵
第一皇子から一方的に婚約を破棄され、さらには宰相の息子にまで断られ、泥を塗られたバランシエール公爵家。
さすがにそれだけでは帝都の外聞が悪すぎると判断した時の皇帝陛下は、事態の収拾を図るため、大公家の跡取りであるジュリアンを私の新たな婚約者として指名しようとした。
私は、胸の奥に燻る皇子への未練を捨てきれずにいたけれど、紹介される相手が幼馴染のジュリーならばと、激しく抵抗することはしなかった。しかし冷静に考えてみればジュリアンにもすでに婚約者はいた。
この時点で私はその婚約者からもひどく恨まれることになった。そしてなぜか婚約者はジュリアンを本当に奪った村娘には懐いた。この時点で、あの女の好かれ方はかなり無茶苦茶だった。
それでも言えるのは、皇子様には最初から私への気がなかったということだ。私の努力も、積み上げた礼儀も、皇子にとっては重荷でしかなかったのだと、私は自分に言い聞かせ、諦めるしかなかった。
でも、ジュリーは違う。
かつて中庭で『君のこと、結構好きだったんだけどな』と笑ってくれた彼ならば、きっと私をこの泥沼から救い出してくれる。彼とならば、皇子のことはゆっくりと忘れて、二人で穏やかな幸せを築けるはずだと信じていたのだ。
だが、現実は甘くなかった。
『ごめん、フレデリカ。今日はその話をしに来たんじゃないんだ。陛下、僕は……この婚約をお断りしたいのです』
大人たちが居並び、何よりも皇帝陛下の御前で、ジュリアンが放ったその言葉を、私は今も鮮明に覚えている。彼ははっきりと、私に対して『拒絶』を突きつけた。
『フレデリカのことは、友人として嫌いではないんだ。でも、僕の心にはすでに決めた女性がいる。そして、君はその女性にひどいことをたくさんした。だから、どうしてもこの縁談は受けられない。このまま不純な動機で婚約することは、フレデリカにとってもあまりに不義理だと、僕は思うんだよ』
ジュリアンはその場では、村娘の名前を出さなかった。もしこの時点で一介の平民の名を出していれば、さすがにあの女も『皇子と大公嫡男を誘惑した元凶』として問題視されただろう。
しかし、彼女を囲む逆ハーレムのメンバー、皇子、大公嫡男、そして我が家のキースまでもが、彼女の立場を危うくしないよう、細心の注意を払い、皇子以外の恋心が外部に露見しないよう振る舞った。
結果として、あの女は指一本動かさず、自分の持って生まれた回復魔法を使い続けるだけで全てを手に入れた。後になって聞けば、あの女はいずれの場合も、自分から男を誘惑したわけではないのだという。
それなのに、あの世代の、いや帝国の歴史を見ても稀なほどの才能に恵まれた男たちが、こぞって彼女に恋をした。
魔法にでもかけられたのではないか? 私は本気でそう疑ったこともある。何よりもこれほどの屈辱を連続して受けて、私は彼に直接問い質しに行ったことすらあった。
『……僕が操られている、だって?』
『ええ、そうとしか思えないわ! だってジュリー、あの村娘は皇子様やキースとも、度を越して仲良くしているのよ? おかしいとは思わないの?』
『その呼び方は不快だな』
『あ、ご、ごめんなさい。もうジュリアンと呼ぶべきよね』
『そうじゃない。どうして君はわからないんだ。僕が愛する人が、そんな蔑称で呼ばれるのは気分が悪い。……フレデリカ、やっぱり君は、噂通りの嫉妬深い女なんだね』
『そんな! だっておかしいじゃない。あなたは今や『楽聖』とまで呼ばれる天才なのよ。何も、あんな何人も男を侍らせる女になびく必要なんて……』
ジュリアンの瞳から、かつての親愛の光が消えたのを私は見た。
『低俗だな。僕たちにやましいところなどない。疑うなら、気が済むまで僕を調べればいい。もし誰かに操られているのだとしても、この心がこれほど幸福に満ちているなら、僕は喜んでその魔法に溺れよう。さあ、どうぞ調べてくれ』
突き放された私は、執念で彼を調査した。高名な魔法使いたちも、村娘が複数の高貴な身分の者に手を出しているのではないかと、その疑惑が明るみに出るにつれて異常な状況に不審を抱き、私の調査に協力してくれた。
そして、その火種は国家規模の問題へと発展した。皇子も、キースも、他の逆ハーレムの面々までもが『僕も調べろ』と名乗り出てきたのだ。
自分たちの愛が、不純な魔法によるものではないと証明するために。私は結果として、帝国の有力な貴族子弟全員に喧嘩を売る形で、精神鑑定を強行した。
――結果は、全て『白』だった。
誰の精神にも、操作や汚染の形跡は発見されなかった。彼らは皆、自らの意志で、あの女に恋焦がれていた。そしてこのことで私の立場が致命的に弱くなったのは、言うまでもなかった。
あの女に、どうしてそれほどの魅力があったのか。そんなこと、私は知らない……知りたくもなかった。
ただ私はあの女を心の底から憎み続け、抗い続け、その結果として、断頭台にかけられた『罪深い嫉妬の女』として、首と体を離されて汚名の中で死んだ。
「……ふぅ、嫌なことを思い出すものね」
自室の寝台で目を覚ました私は、小さく溜息を吐いた。少し前、リハビリ中で会話以外にできることが少なかった頃、私は自分の前世の記憶を整理するために書き留めては隠す、という作業を繰り返していた。
その習慣のせいか、最近は嫌な記憶ほど鮮明に思い出される。ましてや今日は、あのジュリアンと最初に出会う『誕生祭』の日だ。思い出すのも無理はなかった。
かつての私を絶望させたジュリアン。
完全に私が帝国と敵対し、魔国にわたり、潜伏生活を送っていた頃、彼の『楽聖』としての才能にはずいぶんと悩まされたものだ。音楽は、真の天才が奏でれば、それ自体が世界を書き換える魔法となる。
ジュリアンほどの男が本気で音楽を奏でれば、それはもはや芸術ではなく、自然現象すら引き起こす天災……否、厄災となって私の行く手を阻んだ。
「本当、できれば会いたくないほどね……」
かつての敵、かつての幼馴染み、そして裏切り者。そんな複雑な感情が入り混じる思考を断ち切るように、部屋の扉が静かに開いた。
「お嬢様、朝ですよ。起きてください」
朝日とともに現れたのは、本来の世話役であるアンナではなく、イメルダ先生だった。いつの間にか、朝の身支度の主導権は先生が強引に奪い取ってしまったようだ。
本来なら公爵令嬢として、出自の不確かな者をこれほど近くに置くのは問題だが、この先生はいろんな意味でお母様に気に入られていた。
まあその中の一番は、お兄様の中に『無い』と心配されていた魔法の才能を見つけ出したことによるものだろう。これによってイメルダ先生のこの家での立場はさらに高まっていた。
「おはようございます、先生。それにしても……メイドのようなお仕事などされなくていいのですよ?」
目覚めとともに、私の髪を梳き、手際よく着替えの準備を整えるイメルダ先生を見上げ、私は苦笑混じりに告げた。
「これは私の趣味ですから、ご心配なく。お嬢様を美しく飾り立てるのは、極上の楽器を磨き上げるのに似た悦楽がございます。……それよりも、ずいぶん汗をかかれているようですね。悪夢でもご覧になりましたか? すぐにお着替えしましょう」
先生が『趣味だ』と言うと、どうしてこうも妖しく、含みを持った響きに聞こえるのだろうか。私という人間にこれほど時間をかけ、慈しむように世話を焼く。つくづく、変わった人間、いや、精霊である。
「もちろん着替えるけれど、先生は一度下がっていてください。……アンナ。扉の前でちょろちょろしていないで、早く入ってきなさい」
扉の向こうに漂う、遠慮がちな人の気配。私と先生の時間を邪魔しては悪いと、メイドたちが廊下で待機しているのだ。私の呼びかけに応じ、おずおずとアンナが顔を出した。
「お嬢様、申し訳ありません。私はいつもお止めするのですが、イメルダ様が『これは私の聖域ですわ』と仰って聞き入れてくださらないもので……」
「いいわよ、分かっているから。……イメルダ先生、これで二度目ですよ。もう一度言うべきですか? 一度外でお待ちください。五歳児の着替えなど、眺めていてもしょうがないでしょう?」
「残念ですね。私は、お嬢様の全てを、爪の先までお世話して差し上げたいのに」
《お前、いい加減にしろ。リカ、迷惑してる。気づけ》
フィクトルが【念話】で、呆れたような声を脳内に響かせてくる。姿は見せないが、フィクトルは常に私の中にいる。そして必要ならばこうして声をかけてきてくれる。
教えてもらう立場の私はイメルダ先生には言いにくいところがあるので、先生の気持ち悪いところをフィクトルが注意してくれるのは、とても助かっていた。まあ先生にそれがどれほど効果を発揮しているかは謎だが。
アンナの手で手早く汗を拭い、簡素な朝着から、誕生祭の本番に向けた華美なドレスへと着替えを進める。朝食を終えれば、いよいよ『公爵令嬢フレデリカ』としての仮面を被る時間だ。
屋敷のあちこちから、馬車の轍の音と、招かれた客たちの喧騒が伝わってくる。大貴族ほど後に現れ、格下を待たせるのがこの世界の不文律だ。
そして、我が父――バランシエール公爵は、そのルールを忠実に守るように、実の娘の誕生祭だというのに未だに姿を現さない。
前世の私なら、父の遅れにイライラする母の顔色を窺い、『お父様はいつ来てくださるのかしら』と、無邪気な期待を胸に抱いて待ち焦がれていた。今ならばはっきりと断言できる。
あの男は、あえて遅れてくることで、『フレデリカは私にとって大事な娘ではない』と周囲に、そしてお母様に暗に示しているのだ。
「フレデリカ、準備はどうですか?」
部屋の扉が開き、お母様が心配そうに覗き込んできた。その後ろには、所在なげにしたお兄様もついている。お兄様を観察すると、魔力の流れが以前より少しだけ安定してきているのが分かった。
毎日イメルダ先生にしごかれている成果だろう。徐々に、だが確実に成長していく兄の姿を見るのは、今の私にとって数少ない純粋な喜びだ。
どうかお兄様。怠けたり寝たり、食べてばかりいないで、自分を守れるほどに強くなってくださいましね。私を守ってくれるほどにはならなさそうだと諦めつつも、私は鏡に映る自分を点検した。
誕生祭への緊張など、欠片もない。どうせ今日集まる客たちの誰一人として、私に期待などしていないのだ。
「万端ですよ、お母様。何も問題ありません。それよりもお母様、そんなに苛立たないでくださいませ。お父様は少しばかり、『いつものように遅れている』だけです。こちらが待つのに飽きた頃にいらっしゃいますわ」
「……あなたは本当に、大人のように何でも見透かしてしまう子ですね。お父様を待ち焦がれる様子が微塵もなくて、羨ましいくらいだわ。母はダメですね、未だにあの人が……。いえ、子供に何を言おうとしているのでしょう」
お母様は自嘲気味に笑い、私の肩に手を置いた。
「ともかく、あなたのことだから緊張はしていないのでしょうけれど、誕生祭は貴族にとっての一大イベントです。失敗するんじゃありませんよ」
「お任せください、お母様。私のことなど、誰も見てはおりませんから、失敗する余地もございませんわ」
「……うちの子は、しっかりしすぎていて怖いくらいね。それと、お父様から何を言われても、あまり気にしないように。あなたはお父様の言葉の裏側まで理解してしまいそうだから、母はそれが心配なのです」
「ふふ、おかしなお母様。なぜそれを心配されるのです? 私のお父様への期待値など、とうの昔にゼロなのですから。傷つく心など、とっくに枯れ果てておりますわ。むしろ、お父様の方が泣き出さないか、そちらを心配して差し上げてくださいな」
期待値がゼロどころか、マイナスに振り切れて、隙あらば殺してやりたいと思っているくらいですわ。
「フレデリカ……。あまり、やりすぎてはダメですよ?」
「お任せください。何の心配もいりませんわ」
「……それが、一番心配なのですよ」
なぜかお母様は、私が安心させようと言葉を重ねるほど、その表情を曇らせていく。これ以上語っても平行線だろう。私は微笑むだけで、それ以上語るのをやめた。
その時、廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。
「お、奥様、お嬢様! 公爵閣下、ご到着です!」
「ありがとう。……お父様、やっといらしたのね。自分の娘の祝いに、大層な御出勤だわ」
私は楽しげな、鈴を転がすような声で応じた。
もうすぐ、あの男がこの扉を開けて、私の前に現れる。普段なら玄関まで出迎えに出るのが礼儀だが、主役である今日ばかりは別だ。お母様は先に出迎えのため部屋を出ていったが、私はここに留まり、待っていればいい。
イメルダ先生も、今日ばかりは私の側近として付きっきりというわけにはいかない。
彼女は今日、会場を彩る華やかな貴婦人の一人として、パーティー会場で適当にしていることだろう。いなくてもいいと言っていたので本当に姿を見せないかもしれない。それは少し寂しい気もした。
「フレデリカ」
お父様のことなどみじんも考えていないのに、扉が開かれ、お父様が現れた。相変わらず、手入れの行き届いた髭が立派な、威厳だけは一人前の男だ。前世の私は、この姿を見ただけで、尻尾を振る子犬のように喜んでいた。
けれど、今の私の心の奥底は、この男への嫌悪でお腹がいっぱいだ。胸の内に渦巻く黒い怒りと殺意を、愛らしい子供の微笑みの下に隠し通すこと。その『お芝居』の煩わしさに、私はそっと、心の裏側で舌打ちをした。
《ちっ》
《リカ。こわー》
《何を言うのですフィクトル。お嬢様のこれがいいのではないですか》
部屋にいないはずの先生の声が聞こえた気がして、私は少し安心した。




