第24話 春を待つ小鳥
「おやすみなさい、フレデリカ。明日はあなたの誕生祭ですよ。さすがに今日ぐらいは、大人しくこのまま寝るのですよ」
寝台の傍らで毛布を整え、ランプの火を細めながら、お母様が静かに告げた。その眼差しには、かつての厳格なしつけの面影はなく、どこか今の私を腫れ物に触れるかのように扱う、戸惑いに似た優しさが混じっている。
「分かっておりますわ、お母様。大事な時の前にはゆっくり休む。健康管理ができてこその淑女ですものね」
私は努めて穏やかに、もうすぐ五歳の子供に相応しい笑みを浮かべて返した。
「……あなたに対しては、もう正論で言い聞かせる気も起きないのですけれどね。でも、そうですよ。ゆっくり眠らないとお父様を驚かせられませんよ」
お母様は少しだけ寂しげに、あるいは諦めたように微笑んで部屋を後にした。
私があまりにもお母様の想定以上に……というより、常軌を逸した熱量で『努力』をしすぎるせいか、今のお母様は前世の記憶とは打って変わって、私にかなり甘い。
かつては食事の作法一つで何時間も説教を垂れた人とは思えない変貌ぶりだ。一方で、お兄様の方はお兄様で、私が魔楽器『グラディウス』を手に取り、精霊フィクトルとマンツーマンで籠もっている間、完全に手持ち無沙汰な様子だった。
前世では私に巻き込まれて随分と苦労をかけたので、自由を満喫していただきたいところだけど、放っておけば食って寝るだけになってしまう。だから、私は言ってやったのだ。
『先生、あなたもどう見ても暇そうですよ。のんきにお茶をしているなら、お兄様の魔法の修行でもつけてあげてください』
私の提案に、その場にいた二つの“人外”が即座に反応した。
《お前、邪魔。いなくていい》
傍らでチェロの音色に耳を尖らせていたフィクトルが、本当に邪魔そうに【念話】を飛ばす。
『ええ……。では、レオナルド様をこの部屋にお呼びして、ここで練習していいでしょうか?』
とても良いことを思いついたと言いたげにイメルダ先生は提案する。
『そんなのダメですわ。さすがに、これほど音が鳴り響いている環境で、繊細な魔法の練習などできません。別の部屋で、お兄様を見てきてあげてください。保証します。お兄様は放置すると太るだけです』
《さっさと行け。お前、邪魔》
『…………ちっ』
イメルダ先生ですら舌打ちを零し、明らかに嫌そうに部屋を出ていった。同時に、少し言いすぎてしまったけど、我が兄の凡庸さにも、溜息が出る。
もう少しやる気を起こしてもらわねば困るのだけど、お兄様は正直言って、やる気が長続きしないのだ。というか集中するとすぐ寝てしまう。おかげでなかなか修行にならない。
七歳の子供に私ほど頑張れという気はないけれど、先生は優秀なのだ。本人がやる気さえ起こせば平凡以上にはなれる。今の怠惰が、後々の大過へ繋がるのだと知っているだけに、なんとかしなければという思いも強かった。
どうしたものかと考えるが、さすがに今日は眠りが勝ってきた。フィクトルとの特訓で使い果たした体力は、私を深い眠りへと誘っていった。
『初めまして。僕はジュリアン・ド・リュリ・サヴォイです。よろしく』
夢の中で、あの『輝き』が語りかけてくる。明るく笑う子だった。音楽の才能に恵まれ、人々からは神の贈り物の持ち主、サヴォイ大公家の麒麟児ともてはやされる少年。
その顔には、五歳の時点ですでに揺るぎない自信と、全肯定されて育った者特有の無垢な輝きが溢れていた。
当時の私は、覚えたての挨拶を粗相がないようにと、誕生日の高揚感よりも緊張で震えながら返したのを覚えている。膝はガクガクと笑い、声は上ずっていた。それでも、公爵令嬢として強くあらねばと言い聞かせていた。
『あら、私はフレデリカ・ド・ベルゼ・バランシエールですわ。よろしくお願いしますわ』
必死に絞り出した言葉に、ジュリアンは目を丸くし、それから耐えきれないというように吹き出した。
『ぷっ、変な喋り方。そんな大人の貴族みたいな喋り方する子供、他にはいないよ。おかしいの!』
『そ、そうですか……?』
無邪気に笑われ、私はすぐに自信をなくした。お母様からは、これが正しい社交の喋り方だと教え込まれてきたけれど、やっぱりこれは変なんだ、と子供心に恥ずかしさが込み上げた。
何よりも、立場でいえばバランシエール公爵家よりサヴォイ大公家の方が上なのだ。
サヴォイ家は五代前に王家と分かたれた、独自の領地を持つ大貴族。一方、我が家には王家との直接的な血縁はなく、領地も帝国から完全に独立しているわけではない。
形式上の序列でも、帝国政治への影響力でも、大公家は一段高い場所にいた。貴族の子供は、貴族の序列を生まれた頃から徹底的に教え込まれる。
だからこそサヴォイ大公家に気も使うし、引け目も感じる。それだけでも苦痛なのに、そこに『麒麟児』のジュリアンと『平凡』な私という、埋めようのない実力差が覆いかぶさるのだ。
私が指先に痛みを覚えるほど練習して、必死に身につけたピアノを、彼は呼吸をするように、次元の違う美しさで奏でるという。その噂を耳にするたび、鬱屈した思いを抱えていた。
おまけに、父が溺愛する妾の子キースまでもが魔法の天才として頭角を現しており、私は五歳にして、どこにも居場所がないような孤独を感じていた。そして何より、当時の私はお兄様が大嫌いだった。
私のように『平凡』ならまだしも、お兄様はそれを下回る『底辺』の出来損ないだったからだ。
バランシエール公爵家の嫡男と長女でありながら、妾の子の方が優秀だからと、私たち二人を産んだ母親の教育が悪いのだと、噂の早い社交界ではすでに揶揄の対象になっていた。
その屈辱を覆すためにもお母様は私の教育に必死だった。今ならばわかる。お母様もまた鬱屈していたのだ。何しろ誕生祭の会場を彩る立食のテーブルを囲みながら、大人たちは耳を疑うような言葉を平気で口にしていた。
『見てくださいな、ジュリアン様のあの利発な姿を。サファイアのような瞳に、あふれんばかりの知性……。五歳とは到底思えませんわ』
『プロの演奏家ですら、ジュリアン様となら共演したいと頭を下げているそうですよ』
『あなた、ご存知ないのですか? それどころか、あの大天才音楽家ルートヴィヒが、自ら教師役を申し出たというではありませんか!』
『まあ! 偏屈で、誰の弟子入りも許さなかったあのルートヴィヒが?』
称賛の嵐。それはジュリアンのためのものであり、私への視線は真逆だった。
『ふふ、フレデリカ様も、幼いなりによく頑張っておられるようですが……所詮は、あのお兄様の妹ですものね』
『今日、兄のレオナルド様はおられないのかしら?』
『出て来られるわけがありませんわ。昨年のご自分の誕生日に、あんなひどいバイオリンを披露して、公爵閣下を激怒させたのですから』
心ない囁きは、刃となって私の胸を切り裂いた。公爵家の屋敷内で娘の悪口を言うなど、本来なら許されない暴挙だが、この頃の父はすでにキースに夢中であり、私たち嫡流の子供を公然と『失敗作』として扱っていた。
その空気は、招かれた客たちにも伝染していたのだ。
俯く私に、ジュリアンがひょいと顔を覗かせた。
『あんなの、気にする必要ないよ。フレデリカ』
『……な、何も気にしてませんわ』
私は意地を張ったが、声は震えていた。
『それならいいけどさ。大人って勝手だよね。こっちは自由にやりたいのに、あれやこれやとうるさく口出ししてきてさ。本当にめんどくさい。おまけに意地悪だ』
『そんな、不敬なことは……』
『ルートヴィヒ先生なんて最悪だよ。「そんなことで音楽が極められると思っているのか!」とか、何かと言えば叫んできてさ。面倒ったらないよ。ねえ、フレデリカもそう思うだろ?』
『……先生にそんなこと言ったら、怒られますわ。ジュリアン様』
彼は笑っていた。自分の才能が、自分の存在が、どれほど他者を踏みにじっているのかも知らずに。何よりも当時の私は、家庭教師という存在が怖かった。母の影響を強く受けた当時の教師たちは、私に対して異常なほど厳しかった。
今でこそ、イメルダ先生には『もっと厳しく、死ぬ気でしごいてください』と自分から願い出るほどだが、あの頃の私は、大人たちの期待という重圧に耐えきれず、毎晩自室の隅で声を殺して泣いていたものだ。
けれど、その地獄のようなしごきのおかげで、平凡なはずの私は、対外的には『平凡以上』の令嬢として振る舞うことができていた。それが、父や周囲に認められる唯一の手段だと信じ込んでいたのだ。
そんな中、私の五歳の誕生祭で、父は信じられない行動に出た。
『これはこれは、ジュリアン君。我が娘と親しく話していただき、感謝の念に堪えんよ。……時にジュリアン君。我が娘は本日、習いたてのピアノを披露する予定なのだ。もしよければ、君も共に奏でてはいただけないかな?』
『え?』
ジュリアンが、きょとんとした顔で父を見上げた。
『僕が、ですか?』
私は純粋に驚き、その提案に込められた父の計算を理解していなかった。
『もちろんだとも。大公家の麒麟児と謳われるジュリアン殿と共に音楽を奏でたとなれば、未熟な娘にとっても、一生の誉れとなるに違いない。どうか、この場に花を添えてはいただけないか?』
父が子供相手にこれほどまでに卑屈で、かつ丁寧な言葉遣いをするのを初めて聞いた。それほどまでに、ジュリアンという存在はこの年齢にして、公爵家の当主が気を使うに値する怪物だったのだ。
そして、当時の私には、その提案がただ魅力的に思えた。
『でも……主役はフレデリカだし』
『ジュリアン様、私からもお願いしますわ。是非、共に音楽を奏でてくださいまし』
私が縋るように瞳を輝かせると、彼は少し困ったように眉を下げた。
『え、うん……。フレデリカがそうしたいならいいけど。……でも、フレデリカはピアノだよね?』
『はい。そうですわ』
『僕もピアノを弾いちゃうと、同じ楽器だからフレデリカが目立たなくなっちゃう。それは誕生日の主役として可哀想だ。……よし、僕はバイオリンにするよ』
『ジュリアン様、バイオリンも弾けますの?』
『うーん、習ったことはないけど、なんとかなると思うよ。僕、楽器全般はなんとなく触ったら奏で方がわかるんだ。構造さえ理解すれば、音を出すのは難しくないからね』
彼はさらりと、恐ろしいことを口にした。その時の合奏。
『春を待つ小鳥のロンド』
あの衝撃は今も忘れられない。ジュリアンは大口を叩いただけあり、初めて手にしたはずのバイオリンで、数年も練習を積んだ私のピアノを、初音の一音目から凌駕してみせたのだ。
今ならわかる。あの時、ジュリアンは意図的に自分の音の『質』を下げ、未熟な私に寄り添うように調和させてくれたのだ。その高度な加減のおかげで、私の演奏は『大成功』という形で幕を閉じた。
大公家の神童との合奏に、大人たちは割れんばかりの拍手を送り、会場は幸せに包まれた。
『フレデリカ、よく頑張ったな。とても良い音楽だったぞ。本当に小鳥が羽ばたいているように見えた』
演奏後、父が私の頭を優しく撫でながらそう言ってくれた。その温もりに、私は天にも昇るような心地だった。父に認められた。愛された。そう錯覚した私は、この幸せが永遠に続くと信じて疑わなかった。
それから、同じ年齢の私たちは初等学園に通い出し、すぐに親友と呼べる仲になった。もっとも、ジュリアンは誰とでも仲良くできる天性の人たらしであり、彼の周りには常に人が溢れていた。
特に魔法の次に音楽を尊ぶこの国において、ジュリアンの奏でる調べはもはや宗教的な熱狂すら伴っていた。
『ジュリー、あなたって本当にいつも誰かに囲まれて。私が話しかける隙間がほとんどありませんわ』
ある日、学園の中庭で私は少し膨れて見せた。
『そっちだって、いつも取り巻きの令嬢たちを連れてるじゃないか』
『ちゃ、ちゃんと今日は、あなたとお話しするために置いてきましたのよ』
彼は苦笑して、不意に真剣な顔で私を見つめた。
『ねえ、フレデリカ』
『何ですの?』
『貴族って、疲れると思わないか?』
『思いませんわ。ジュリー、あなたそんな不謹慎なことを考えてらしたの? だめですわよ。貴族たるもの、常に庶民の模範であらねばならないのです。絶え間なく努力し、最高の淑女を目指し、そしていつか、皇子様と結ばれて……』
『はいはい。本当、君はいつもそればっかりだね』
私の皇子への心酔ぶりに、ジュリアンはいつも呆れていた。けれど、学園中の女子がジュリアンに恋心を抱く中で、私だけは彼に対して『恋』を感じていなかった。
帝国において女が複数の男に想いを寄せるのは不作法とされていたし、何より、私は美しき皇子の許嫁であるという事実に『依存』していた。
『当然ですわ。あのような高貴で美しいお方の許嫁になれたこの誉れ。毎日が幸せでたまりません』
『そうなんだ。……僕も昔は、君のこと結構好きだったんだけどな。でもフレデリカは、全然僕のこと相手にしてくれないもんね』
『ま、まあ、破廉恥な! いけませんわよジュリー、あなたにだって許嫁がいらっしゃるでしょう!』
『なんで大人たちは、僕たちに結婚相手を選ばせてくれないんだろうね。生まれた瞬間に人生の伴侶を決められるなんて、かなりの罰ゲームだよ』
『贅沢な悩みですわ。私は、この約束がなければ皇子に相手にしてもらえるはずがありませんもの。むしろ感謝していますわ。そもそも、あなたの許嫁も私と同じ家格のロンバルディア公爵家のご令嬢でしょう? あの子、お顔だって悪くないはずですわ』
『まあ、確かにね。でも――フレデリカほど綺麗じゃないし』
『…………っ!』
その言葉に、私が顔を真っ赤にして絶句するのを、ジュリアンは楽しげに眺めていた。けれど、そんな平和で歪な私の『黄金の時代』も、ジュリアンが逆ハーレムに入るまでのことだった。
あの『村娘』が、私の人生に泥靴で踏み込んできたのだ。
私は必死だった。どうしてもあの村娘が許せなかった。私が彼女に対して行った排除の数々が、間違いだったのかどうか。私は全力で、異分子である村娘を学園から、そして皇子の側から消し去ろうとした。
だが、村娘は、回復魔法において『神の奇跡』と呼ぶべき凄まじい適性を示した。その力は絶大で、欠損した部位はおろか、死に瀕した人間さえも蘇らせると噂された。
その名声は国境を超えて鳴り響き、初等学園を卒業する頃には、彼女を批判すること自体が『人道に対する罪』であるかのような空気すら形成されていた。
この世界は魔法第一主義であり、その中でも回復魔法をあんなレベルで使える者はいない。
それができるだけで彼女は『神』の代理人とすら言われ、アトラス帝国国教フィレーナ神教はあの女を聖女に正式認定し、莫大な寄付と信仰を集めることに成功していく。
フィレーナ神教の後ろ盾を得た村娘の権力は絶頂を極め、皇子の許嫁である私を追い落とし、公然と『逆ハーレム』を築くことさえ許されるほどの、絶対的な正義へと成り上がった。
『信じていたのに残念だよ。フレデリカがチェルシーの悪口を言うなんて幻滅した。僕はね、彼女を心の底から——』
ジュリアンも私ではなくあの女を選んだ。私が一番苦しくて辛い時、ジュリアンは私の手を振り払い踏みにじるように、私が一番嫌いな女へと愛を囁いた。




