第22話 共鳴
「こういう一流の楽器というものは、恐ろしいほどに『人』を見ているのです。もし奏者を認めれば、その主が世を去る時、楽器自らが共に土に埋められることを望む……」
「それがわかるのですか?」
「もちろん楽器に言葉を話す能力はありません。でも明らかに共に眠ることを望んでいると理解できるのだそうです。それほどまでに、この域の品は持ち主を選び抜くのですよ。私がね、バルカヌスからこの楽器を託された時――」
イメルダ先生は、遠い過去の情景を慈しむように目を細めた。伝説の音響師バルカヌス。彼が最期に遺した言葉をなぞるその声は、どこか予言めいた響きを帯びていた。
『お前はあちこちを旅して、才能のある子供を導くのが趣味だろう? ならばこの楽器をやる。おそらく俺が生きてる間にこれの持ち主は見つけられん。だからお前がもし、これが似合う……この【グラディウス】を握るに相応しい狂気を持った子供を見つけたら、迷わずこれを譲ってやれ』
そんな言葉を遺したのだという。
「もう死んでるのですね」
「ええ、残念ながら彼はもう死んでます。ドワーフの寿命は長いようで短い。これまで、私は何人かの『神童』と呼ばれる子供たちにこれを手に持たせたことがありました。ですが、この楽器は一度として、彼らの魔力を受け入れようとはしなかった。……けれど、お嬢様。あなたは違った。触れた瞬間に、この気難しいグラディウスに認められた。やはり、私には最高級の素材を見抜く目があるようだ」
「……そうですか。お前、私のことが気に入ったの?」
私が独りごちて木肌を撫でると、チェロから、微かな、しかし確かな共鳴が返ってきた気がした。四歳児の私にはあまりに巨大なこの楽器を扱うため、先生は部屋の隅から踏み台を持ってきた。
本来、チェロは椅子に座り、両脚で挟んで奏でるもの。けれど、今の私の短い手足では、台の上に立たなければ弦に上手く手が届かない。
私は意を決して台に登り、その重厚なネックを握りしめた。床に据えられたエンドピンを、大地の底へ突き立てるように固定する。
そして、運命の第一音を奏でた。
ギ……ギギ…ッ。
しかし、響いたのは音楽などと呼べる代物ではなかった。それは、鼓膜を逆なでするような、ただの不協和音。惨めで、濁りきった音。ピアノであれば、鍵盤を叩けば誰でも一定の音が出る。
けれど、チェロという楽器は、奏者がその構造と対話し、理解していなければ、まともな音色すら出てくれない。そして先生の『教えられない』という言葉は、どうやら文字通りの意味だったらしい。
「何かコツは?」
私の当然の問いに先生は笑ってごまかす。
どうやら本当に何も知らないらしい。
まさか本当に完全に自分で体得しろと言う気か?
さすがにチェロの先生をお母様にお願いするべきではないか。そんなことを思いながらも、私は人嫌いであり、それも気が進まず、ともかくチェロを独学で奏で始めた。
そしてその日から私とグラディウスの苦闘の日々が始まった。
「――おや。なんだか少しずつ、音楽らしい体裁になってきましたね」
公爵家にある音楽室の傍らで、イメルダ先生は優雅に紅茶を啜りながら、のんきな声をかけてくる。
私が連日撒き散らす耳を刺すような不協和音に、お母様やメイドたちは『聞くに堪えない』とばかりに、今やこの部屋に近づこうともしない。
そんな地獄のような騒音の中でも、先生だけは平然とした顔でお茶を楽しみ、私の試行錯誤を観察し続けニヤニヤしていた。
この先生は何が楽しいのかしら。
自分が『教師など探す必要もない』と言ったんじゃないか。せめてその責任は取れ。私は憤りながら、修練を始めて三ヶ月以上がすでに経過してしまっている。
誕生会まではまだ時間はあるけれど、お父様の鼻を明かしてやりたいという思いの実現には、あまりにも遠すぎた。
そんな私が焦っていた、ある日のこと。
朝、目を覚ました瞬間に『今日は弾ける』という、根拠のない確信が降りてきた。簡単に口にすべきではない感覚だと分かっている。けれど、私の拙い、泥を啜るような演奏に根気強く付き合ってくれた。
先生はどうでもいいが、この『グラディウス』が、そろそろ私に答えを返してくれる予感がしたのだ。
「グラディウス。今日こそ、あの先生を見返してやるわよ」
四歳の小さな指で、硬い弦を強引に押さえつければ、柔らかい皮が破れ、ぷつりと血が滲む。何よりも、小さな体でこの巨体を扱うのは、数時間の練習だけで全身が引きつるほど過酷だ。
魔力で肉体を強化して補うこともできるが、過剰な出力は繊細な音の機微を殺してしまう。だからこそ、魔力は最小限に。それゆえにそれは踊りの訓練より遥かにハードだった。
何度も指が切れ、滴る鮮血が楽器の表面を汚す。最初の頃は、お母様が、
『そんな痛い思いまでして、しなくていいのですよ!』
と辞めさせるために説得しようとした。
『私の邪魔をしないでください!』
そうすると苛立ちに任せて叫んでしまい、お母様を酷く傷つけ、拗ねさせてしまったこともあった。領地経営において、お母様は多大なストレスを抱え、唯一の味方であるはずの私に話を聞いてほしそうだった。
お父様への当てつけから始まった経営ではあったが、狂気的に努力する娘と、眠りながら努力するお兄様の姿を目の当たりにするうち、お母様も『自分だけが奔放に遊んでいるわけにはいかない』と毒気を抜かれたらしい。
今世では、無茶苦茶な浪費だけは食い止めているようだ。とはいえ、経営に関しては素人。独りで苦戦しているのは、私の目にも明白だった。愚痴ぐらいは聞いてあげたいところだが、残念ながらその暇がない。
雑念を振り払い、再び弓を構える。
何度目になるか分からないが、エンドピンを床に立てた。立ち上がったまま、弓を動かす。これまでギギッと不快な悲鳴を上げ続けてきた楽器が、少しだけその日は違った。
たった一音。それは深く豊かに響き、音楽室の空気を震わせながら、腹の底にまで染み渡るような、見事な低音だった。それはまだ一流の演奏には程遠い、わずか一瞬だけの響きだ。
それを頼りに私は音楽を奏でようと試みる。選んだ曲は『アトラスの凱歌』。帝国の最も有名なオーケストラ曲だ。かつてこの国に捨てられ、今また復讐者として舞い戻った私が、この曲を不協和音とともに奏でている。
その事実に、口角が自然と吊り上がる。なんて皮肉が効いているのかしら。わずか一音だけちゃんと鳴ったけど、他はめちゃくちゃ。でも、独学同然でここまで形にした自分に、満足を覚える。
それにしても、一分一秒を惜しんで強くなりたいはずの私が、なぜ教師も付けずにチェロを習得するという非効率を受け入れていたのか。今思えば、自分でも不思議でならなかった。
「うん?」
ふと、背後に気配を感じる。
碌に教えもしなかったくせに、私が『いい音』を奏でた途端、先生がこちらへ寄ってきたのだ。……皮肉交じりに、思い切り不遜な顔でもしてやろうか。
心はずいぶんと成熟しているはずなのに、この体に引っ張られているのか。そんな子供染みた思いを抱いて、私は振り返りながら先生を見た。
その瞬間、私は衝撃のあまり、右手の弓から力を抜いてしまった。
まずい――。
私を選んでくれた大切な『グラディウス』の一部を落とすなんて、自分自身が許せなかった。この絆は裏切らぬと思った相手を、無造作に床へ叩きつけるなんて。
弓が空を切って落ちていく。そう確信した瞬間だった。私が弓を落とす原因となった『その存在』から、スルスルとしなやかな『蔓』が伸びてきたのだ。
それはまるで生き物のような意志を持って、グラディウスの弓を空中で優しく受け止めた。
安堵と驚愕が同時に胸に起こり、私はその『蔓』の主に目を剥いた。
《大事なもの。落としちゃいけない。大事なもの、大事にする》
脳内に直接響く無垢な声。私はその正体を凝視した。青と白の幾何学模様が溶け合い、渦巻く、不思議な大人ほどの大きな球体。契約の儀式以来、一体どこへ消えてしまったのかと案じていた、三体の上級精霊の一体。
変幻自在の創造型精霊――フィクトル・ラピドゥム。
どうしてこんな突然に? 精霊が初めてその姿を私の前に現したのだ。
「え、ええ……ありがとう。本当に、落とさなくてよかったわ」
《……》
「あ……あの、あなたを『フィクトル』って呼んでもいいかしら?」
呆然と立ち尽くしたまま、私は目の前の幻想的な球体に問いかけた。
四歳児の舌足らずな声が、静まり返った音楽室に場違いなほど響く。しかし、返ってきたのは空気の震えではなく、私の脳に直接染み込んでくるような、純粋な意識だった。
《いい。でも、声を出さなくていい。心思えば、心わかる》
《あ、ああ……貴方、【念話】を使えるのね。すごいわ、これほど鮮明に繋がるなんて》
《……すごくない。精霊、誰でも使える。お前、驚きすぎ》
淡々とした、どこか無機質な、それでいて幼児のような幼さも混じった感覚。けれど、今私が抱いているのは、それどころではない激しい興奮と、震えるような感動だった。
あの大惨事以来、イメルダ先生は私に精霊魔法どころか魔法すら教えてくれなかった。『時を待て』とだけ繰り返す彼女に反抗するように、私は私なりに、室内で精霊たちに問いかけ続けてきたのだ。
どこかに潜んでいるのではないか?
そう思って、誰もいない虚空に向かって『精霊さん。どこにいるの精霊さん?』と独り言を繰り返す日々。その姿を見たお兄様に『リカ、頭は大丈夫……?』と本気で心配されるという、屈辱以外の何物でもない経験も味わった。
それでも精霊は一度として反応せず、気配すら見せなかった。それがようやく、こうして実体を持って私の前に現れてくれた。その事実だけで、涙がこみ上げ視界が滲むほどの達成感が満たしてくる。
《どうして、急に現れてくれたの? 今まで何度呼んでも無視していたくせに》
《……音楽、下手すぎ。聞いてられない。耳、痛い。立って弾くのもダメ》
《えっ……それは、その……ごめんなさいね》
《でも。必死な音、いいなと、ちょっと思った。だから、助けに出てきた》
《……なるほど。酷い評価だけれど、どうもありがとう。でも、今まで一体どこに隠れていたの? 屋敷の庭かしら、それとも鏡の中?》
《中に、いた》
《中? どこの中? クローゼットの中? 開けて見てみたことがあるけどあなたいなかったわよ?》
《違う……お前の、中》
【意思疎通】を通じて伝えられる感覚を辿り、私はハッとした。それは、魔法使いにとっての心臓とも言える、下腹部の【魔力機関】の奥底を指し示していた。そのことでさっと血の気が引いた。
まさか先生……。
《あなた……私の魔力機関の中に直接入り込んでいたの!?》
《いた。狭い。他の二体も、そこで寝てる》
《ああ、ええ……》
パズルのピースが音を立てて嵌まるように、いくつもの疑問が氷解していった。あの日、なぜ私は儀式の最中に全身から血を吹き出して倒れたのか。普通ならそれは聞いたことのない状態だった。
通常、召喚の儀式で召喚主はそんな状態にはならないのだ。仮に召喚に『失敗』していたとすれば、その精霊の属性に応じた反動を受けると言われている。土の精霊であれば岩石に押し潰され、火の精霊であれば純粋に体が焼かれる。
しかし、私は内側から爆ぜるように出血した。土の精霊が起こす現象としては聞いたことがなかった。だからその理由が疑問だった。しかし、理由は、今のフィクトルの言葉でよくわかった。
つまるところ、あのイメルダ先生が『普通の召喚』を行わなかったからだ。
《先生は私の体をあなたたちの生贄にした?》
《それに近い。ダエモン、人間の体の中、一番魔力濃い魔力機関、我ら三体召喚した。魔力機関、未熟なほど精霊の好きに育てやすい。広げやすい。でも未熟なもの普通、上級精霊受け止められない。お前変わってる》
《それはそうでしょうね……》
先生は精霊をただ契約のために呼び出すのではなく、私の幼い肉体そのものを依代として、三体の上級精霊を強引に魔力機関へ直接押し込んだのだ。
精霊とは本来、契約者と『共にある』ものであり、物理的に『内側に入る』ものではない。魔力機関とパスはつなぐが、中に入れ込むなんて召喚儀式、前世の記憶をひっくり返しても聞いたことがない。
それを先生は、まだ魔力機関が発達もしていない四歳児の器に対して断行した。私が耐えきれずにぶっ倒れたのは当然だ。いくら何でも上級精霊の魔力が大きすぎて、私の体が拒絶反応を起こしたのだ。
「……ふふ、改めてどれほど無茶なことをされたのか理解したわ。やっぱり先生、あなたは私の期待通りの『狂人』ですわ」
私は、いつの間にか背後に立っていたイメルダ先生を見上げ、心からの賞賛を込めて口にした。
「褒めてくださるのですね。お嬢様も、やはり私の期待通りの『狂人』だ」
眼鏡の奥で、先生の瞳が愉快そうに細められる。
《……ダエモン。お前、根性悪い》
フィクトルが、批判を直接先生に叩きつけた。
「いきなり褒めないでください、フィクトル」
《褒めてない。本当に悪い。フィクトル出てこなかったら、お前、ずっとリカ一人でチェロ弾かせて、苦しませるつもりだった。あんな下手くそな曲、聞いていられないの、わかってて……やった》
「ふふ、うん。あなたなら、根負けしてお嬢様に同情して出てきてくれると信じていましたよ」
《ちっ!!》
鼓膜の奥で、聞いたこともないほど激しく、忌々しそうな舌打ちが響き渡った。もしこの球体に顔があったなら、今頃は悪魔のようなしかめ面を浮かべていたに違いない。
《ねえ、フィクトル。他の二体は、外に出てきてはくれないの?》
《……リカの魔力機関、今、ズタボロ。我々、無理やり入り込んだ。だから、今、修復必要。……今は、無理に召喚する良くない。そもそも魔法、絶対使っちゃダメ》
《ああ……なるほど、そういうことね》
先生が私に絶対魔法を唱えさせようとしなかったわけだ。ちゃんと理由を言えば理解したのに、本当に説明の足りない人だ。
「それにしても……この、あまりに幼く脆い体の中に。よくぞ、上級精霊三体も入り込む余地があったものね」
私は自らの腹部に手を当て、他人事のように感心して呟いた。そこには今、おそらくは極めれば単独で国と戦えると言われるS級。その頂きに私を届かせるほどの『上級精霊』が、まだ二体静かに息を潜めているのだ。
それが真に目覚める日を私は心から待ち遠しく感じた。




