第21話 魔楽器
たとえ癒しの魔法が使える者がいたとしても、肉体が負ったあまりに深い損傷を癒やすには、相応の時間が必要となる。あの大惨事から半年。四歳の誕生日をベッドの上で迎え、家族だけに祝われた。
私がベッドの上ではできることは少なかった。一度だけお見舞いに来たお父様が死ぬほど鬱陶しかった。この私にも表面的には心の底から心配しているように見えた。あの男に関する私の感想はそれだけだ。
心の中ではきっと歓喜して、むしろミノタウロスが私を殺し損ねたことに残念がっているのだろうに……。
さらに半年が流れた。
私の全身に渡る裂傷と魔力暴走の痕跡は、イメルダ先生の執念深い治療魔法によってようやく完全に癒えた。まあ不思議とイメルダ先生が私に回復魔法を施しているところは一度も見たことがなかったけど。
「今日で先生が来て一年を超えてしまいましたね」
「そういえばそうですね。私にしては珍しく一人の人間に、随分長く魅入られていますよ」
「治った瞬間にいなくなるなどと言わないでくださいね」
ようやく鏡台の前に立てるようになった私の肌は、以前と変わらぬ陶器のような滑らかさを取り戻している。そこからさらに1ヶ月、寝たきりで衰えた体力を、牛の歩みのようなもどかしさで回復させるのに費やした。
「これほど思い通りにいかないものかと嫌になります」
「私の魔法とお嬢様の強い意思のおかげで、まだかなり早い方ですよ。普通は怪我の回復に一年、ここから身体機能を回復させるのにさらに半年から一年。短くてもそれくらいは見込んでもらわねば困りますから」
そんな先生の言葉を聞くと、脳裏をあの『村娘』の姿がよぎる。彼女の持つS級の光属性魔法があれば、これほどの重傷も、一瞬の輝きと共に完治していた。
あれを思い出すと、胸の奥が冷たく疼く。彼女がどれほどアトラス帝国に、そして皇子に盲目的に大事にされるのか。その理由が、皮肉にも自分自身の回復の遅さによって実感された。
戦場において、あるいは政争において、瀕死の人間を瞬時に戦列に復帰させる力。それは単なる治癒ではない。帝国にとっての『終わらない軍事力』そのものなのだ。
対して、通常の魔導体系における回復は、術者の魔力だけでなく受術者の自然治癒力にも依存する。今回の私のような重傷ケースともなれば、イメルダ先生がいても回復に一年も必要と考えれば……。
それをあの女は一瞬で終わらせる。これに、彼女を囲む逆ハーレムの圧倒的な攻撃力が加わればどうなるか。
もはや『悪夢』だ。
「……どれほどの絶望的な差があったのやら」
ベッドの縁に腰掛け、私は独りごちた。体力が戻るにつれ、日常生活の歯車も回り始める。しかし、イメルダ先生は魔法の訓練に関しては『しばらく様子を見ましょう』と一向に何もしようとしない。
私は三体もの上級精霊を強引に召喚したはずなのに、その実感がまるでないまま、ただ漫然と過ぎていく日々を過ごしていた。当然、呑気に何もしなかったわけじゃない。
復讐のために戦闘魔法が必要なのは言うまでもない。けれど、野蛮な『戦うだけの女』に成り下がっては、淑女を目指す者としてはあまりにもお粗末だ。
だからこそ、マナーや踊り、そして音楽。さらには皇族と対等に渡り合うための広範な教養。教養については、幸いにして前世の知識と知能の全てを、ロック様の手によってこの幼い脳に持ち越すことができた。
歴史、経済、帝国の法体系……。
ある程度必要なものは、この頭の中にしっかりと入っている。しかし、たった一つだけ、前世の貯金が全く通用しない項目が立ちはだかった。
それがこの帝国において魔法の次に大事な『音楽』だった。
「……チェロ、ですか?」
「はい。お嬢様はピアノが得意だというお話ですが、土属性の魔導特性を持つ者にとって、チェロはこれ以上なく相性が良いのですよ」
「私はチェロは触ったこともありませんよ?」
私の困惑をよそに、イメルダ先生は続けた。
「チェロの底から床に突き刺す支柱を『エンドピン』と言います。この一点を通じて、音楽の振動が直接大地へと伝わり、潜んでいる大地の精霊たちが共鳴する。それに……」
先生は私の顔をじっと覗き込み、意味深な笑みを浮かべる。
「お嬢様には、ピアノの煌びやかな華やかさよりも、チェロの持つ地を這うような重厚な響きの方が、ずっと似合っていると思うのです」
魔法の具体的な訓練は、あの日以来一度も行われていない。一方で、お兄様は順調だった。魔力の知覚から、実際の現象として出力するための運用のコツまで、先生から手取り足取り教わっている。
なのに私には『まだ少し待ちましょう』と生殺しのような言葉を投げかけたままで、私は焦っていた。あるいはピアノのままであれば何の問題もない話だった。
しかしチェロなどと先生が言い出すから私が困るのだ。問題は私がチェロを触ったことがないというだけではなかった。帝国貴族は五歳の誕生日に、自分の音楽を披露するという慣習があるのだ。
その私の五歳の誕生日まであと半年ほどだ。私の誕生日には誕生会が開かれ、その催しは、去年できなかっただけに今年こそ盛大かつ華やかに行われるに違いない。
普段は皇都で愛人とその息子キースを囲い、この屋敷を顧みないお父様も、この時ばかりは貴族としての外聞を守るために帰宅する。もっとも、終われば翌朝すらまたず逃げるように皇都へ戻るのだろう。
先頃行われたお兄様の誕生会の時もそうだった。それが、あの男の『私たち家族』に対する愛情の限界なのだ。
私は今更、そんな薄情な振る舞いに傷つくほど柔な心は持ち合わせていない。だが、隣で肩を落とすお兄様の寂しげな横顔を見るのは、あまり気分の良いものではなかった。
だからこそ私はピアノを弾きたかった。
そして完璧な演奏をしてお父様の悔しがる顔を見たかった。
「それに……チェロもいいですが先生。まだ、ダメなのですか?」
屋敷にある音楽室でのことだ。ピアノに布をかけてしまったイメルダ先生に、私は詰め寄った。もういい加減、魔法の訓練を再開したくてたまらない。
あの大惨事のせいで、まさか私に魔法を教えるのを怖がっているのではないか……。そんな疑念さえ頭をもたげる。
「お嬢様、慌ててはいけません。今はまだ待ちましょう」
「それ何度目ですか!」
「百回以上は言ってますね。正確に回数を数えてないので分かりかねますが……」
「ちっ!」
淑女を目指すものとしてあるまじき舌打ちが鳴った。
「大丈夫、精霊はちゃんと召喚に成功しています。契約も成功しています。焦ってはいけません」
「それならせめて、チェロなどで余計な時間を取らせないでください。ピアノならば大人顔負けに弾いて見せます。それで十分でしょう」
「お嬢様。……私の、言うことが聞けませんか?」
分厚い眼鏡の奥から、射抜くような鋭い瞳が向けられた。
「……」
この視線に怯えるなどという私ではない。しかしやはり何か考えがあって言ってるようだ。私がこの先生を教師としては信頼すると決めていた。私は頭を振った。
「……たまにどうしようもなく焦るのです。ですが、分かりましたわ。魔法はひとまず置いておきましょう。しかし、本当にチェロなのですか? 私、チェロを奏でる淑女が殿方に好かれる姿なんて、全く想像できませんけれど。それに、あまり……失礼ながら、人気の楽器ではありませんでしょう?」
「ええ、全く人気はありませんね。女性の間ではピアノ、バイオリン、フルートが三種の神器で、チェロはその次、いえ……そのまた次といったところでしょうか」
「ずいぶんマイナーなところを勧めてくるのですね、先生は」
音楽、マナー、経済学、そして魔法。私に教育を施す家庭教師は、現在このイメルダ先生一人に集約されている。これは私が彼女を気に入り、お母様に『他の先生は不要です』と激しく推した結果だ。
自分でも今の自分のことを随分と変わった子供だと思う。普通の感性を持つ教師ではまず私を教えられない。そんなことは人に言われずとも自分でわかる。
だからこそ私の心の奥にくすぶるこの黒いドロドロを感じても、平気な顔をしているイメルダ先生だけでいいと思った。そして何より、私は『人間不信』だ。
前世で私を指導し、いざ私たちが落ちぶれることが決まると真っ先に手の平を返した教師たちのことなど、欠片も信用できない。
それでも前世のことなど知りはしないお母様はきっと、同じ教師たちを呼んでしまうだろうから。
「……お嫌ですか?」
「嫌、とまでは言いませんけれど……。チェロを大股で抱え込んで演奏する姿が、殿方に好まれる淑女の立ち居振る舞いとはどうしても思えないのです」
その瞬間だった。
「ぶふっ!」
イメルダ先生が、もう堪えきれないといった様子で吹き出した。
……何を笑っているのかしら、この人は。その笑いの質が、何だかものすごく失礼な偏見に基づいているような気がして、私の額のあたりがピクリと痙攣した。
「先生……今の笑いには、どういう意味が込められているのかしら?」
「失礼、お嬢様。まさかあなたが、殿方に『好かれる』ことなど意識されているとは露ほども思っておりませんでしたので。てっきり、将来は全力で殿方をお尻に敷き、蹂躙されるものだとばかり思い込んでおりました」
「あ、あらそう。……私、こう見えても意外と尽くすタイプなのですけれど?」
心外だと言わんばかりに唇を尖らせてみせるが、その言葉がひどく空虚に響くのを自分でも自覚していた。
まあ、前世で唯一婚姻関係にあった伯爵家のご子息に対して、あまりに頼りないので指図させてもらいまくりましたし、皇子とはそれ以前の問題だった。
私は再び頭を振って思考を切り替えた。実のところ、貴族社会における音楽とは、よほどその道を極める芸術家志向でもない限り、異性へのアピール。
すなわち『私はこれほどまでに優雅で、あなたの隣に立つに相応しい人間です』と誇示するための手段に過ぎない。だからこそ、演奏する姿が最も麗しく映えるピアノや、繊細な指先を強調できるバイオリンが不動の人気なのだ。
私の主張は、社交界の常識に照らせば何一つ間違っていないはず。それなのに、先程まで笑っていたイメルダ先生の顔は、急速に教師の冷たいものへと戻っていった。
「……まあ、そういう冗談はさておき。お嬢様、どうされますか?」
冗談扱いされてしまった不快感は横に置いておくとしても、これは人生における大事な分水嶺なのだと感じる。
破滅の未来を回避し、かつての屈辱を晴らしたい。その執念は、地獄の底から這い上がってきた私にとって、簡単に覆るような生易しいものではない。
それが、異性への受けを狙って、ただ流行のピアノを選ぶのか。そうではないだろう。今回は、何がどうあっても、毒を食らってでも自分の道は自分で切り開かなければならないのだ。
「……若干、不快な反応もありましたけれど。分かりましたわ。先生がそこまでおっしゃるのであれば、チェロを覚えましょう。音楽と魔法の相性ですか。正直、今まではあまり深く考えてはきませんでしたわ」
何しろ、音楽が自然や精霊に干渉し、現象を書き換えるほどの力を宿すのは、歴史に名を残す超一流の奏者たちだけなのだ。殆どの貴族は時代の流行に合わせて楽器を嗜む程度。
音楽を通じて自然や精霊との繋がりを構築しようなどと考える者は、この帝国広しといえど……。
「ジュリアン・リュリ……」
私の口から零れた名に、イメルダ先生が意外そうに目を細めた。
「おや、さすがお嬢様。大公家の麒麟児の名をご存知なのですね」
「ええ、まあ。……音楽に愛された、迷惑なぐらい輝かしい子供ですわね」
よく知っている。忘れられるはずがない。彼は、私が地獄へ送ると決めた『十三人のリスト』に名を連ねる男の一人なのだから。
「彼は真の天才です。私も見ましたが本当に美しいほど天才でしたよ。あれほど音楽に愛された子供を私も見るのは初めてでした」
「きっと紛れもなくそうでしょうね」
「ふふ、まあお嬢様があの麒麟児の領域に達するのはさすがに困難でしょうし、そちらを専門にされるつもりがないのも理解していますよ。ですが、私はチェロという楽器ならば、かの麒麟児に多少は迫れるかと思うのですが?」
「そうですか……。ジュリーに」
あの天才に、少しは追いつけるというのか。かつて、皇子に捨てられた私を理解してくれるのではないかと期待し、そして最も残酷な形で私の期待に応えなかった相手。
前世の幼少期、私はジュリーと交流があった。そういえば、私の五歳の誕生祭にも、彼は賓客として招かれていたはずだ。今世でも、あの少年はやってくるのだろうか。
だとしたら、私はこれから殺そうとする相手の子供時代の顔を、一体どのような目で見ればいいのだろう。喉の奥に、苦い鉄の味が広がった。
「……お知り合いですか? ずいぶんと親しげな呼び方ですが」
「いえ、勝手な想像で呼んでいるだけですわ。私もそれなりに、夢見がちな年頃のお子様ですもの」
「……吹き出してしまうので、そういう冗談はやめてください」
本当に、この先生は失礼極まりない。
「それで先生、もちろんあなたが直接手解きをしてくださるのでしょうね? その……チェロというマイナーな楽器を教えられるほどに、先生が習熟しているのかは疑問ですけれど」
「相変わらず鋭いお嬢様です。チェロは私も多少は知っている程度で、教えるレベルではありませんね。というか弾いたことがないので知識としてのチェロしか知りません」
「では、別の教師を探せと? あまり先生以外から教わりたくないのですが」
「嬉しいことを言ってくれますね。安心してください。私はお嬢様を、安易に他の誰かに預けたいとは思いません。ですから、代わりの教師など必要ありませんよ」
「では、どうするのですか?」
「まあ、ともかく――」
先生が空間を指でなぞるように動かすと、空中にどろりとした黒い靄が広がった。それは、あまり使える者のいない【空間収納】の魔法だった。
先生は何食わぬ顔で高度な魔法を行使すると、その黒い虚空から、異様な色を放つ一つの楽器を取り出した。
それは、間違いなくチェロの形状をしていた。そして通常であれば艶のある赤褐色が美しいはずのチェロが、はっきりと黒だった。黒いチェロなど見るのは初めてだ。
「お嬢様。これを差し上げます。……かつて『盲目の音響師』と謳われたバルカヌスが、死の直前に製作した魔楽器の一つ、名は『グラディウス』です」
「グラディウス……。楽器なのに剣のような響きですね……」
「はい。グラディウスは彼の傑作中の傑作。どうぞ、大事に使ってくださいね」
「随分と良いものをポンとくださるのね……。魔楽器ならば値段などあってないようなものですよ?」
異様な色の楽器は気軽に手渡された。自然と受け取ると、指先からドクン、と心臓の鼓動のような魔力を吸い出された気がした。この『グラディウス』は私の何かに触れた。
そして理解する。この子はきっと私のために生まれてきたと。
「……というか先生。これ、大きくありません?」
通常、子供がチェロを始める際には、その体格に合わせた『分数チェロ』と呼ばれる小さなサイズから入るのが常識だ。それなのにこのチェロは、どう見てもフルサイズだった。




