第17話 イメルダ先生の秘密
「ふむ、そうでしたか。てっきりお嬢様はこれほど聡明でおられるのですから、もう私の素性についても承知のことかと思っておりました。誰からも聞いたことがありませんか?」
「残念ですが、全くございませんわ」
前世の記憶を辿っても、この“イメルダ”という存在はいない。村娘を超えるために教育者は大事だが、当時の私は、公爵家の権威と血統が絶対であり、教育とは自動的に与えられるものだと疑わなかった。
だから、雇われた教師の履歴や実力など、興味の対象外だったのだ。今から振り返れば、それは未熟な私を育てる指導者を安易に決めてしまう、あまりに愚かな行為であったと認めざるを得ない。
優秀な指導者というものが、どれほど得難い存在か。あの悲惨な経験をしてようやく今となって認識できている。そして私は今目の前の人間を重要だと考えていた。
「なるほど。公爵夫人がお嬢様に伝えているのかと思っていましたが……よくよく考えれば、お嬢様はまだ三歳。親が納得して分かっていれば、それで十分だと判断したのかもしれませんね」
「おそらくはその可能性が高いかと。……母は、私の成長について『根本的な部分』で関心を持っておりませんから」
「お嬢様の身内であれど、冷静な評価を下すところ。嫌いではありませんよ」
「それはどうも」
人生の失敗の原因を親のせいにするほど愚かな人間にはなりたくない。全ては自分の責任である。親の不条理も含めてこその人生なのだから、親をどうにもできなかった時点で自助努力が足りなかったのだと自覚している。
とはいえ、それを織り込んでも私のお母様に対する評価は低いと言わざるを得ない。
「いいでしょう。私の素性を知りたいというお嬢様の情熱は、指導を授ける者としてとても嬉しく思いますよ。自分の置かれた危うい立場、その瀬戸際で生きていることを全てご理解なさっているのであれば、なおのこと、信頼できる安全な人間を身近に置きたいとも思うものでしょうね」
「……本音を申し上げれば、まさにその通りです。先生だからこそ言いますが、私は実の父親の愛を信じておりません。そのお父様と、あなたは何か繋がりはあるのですか?」
私にとってこの点が、最も警戒すべき事柄であった。あの男は確実に公爵家の内部に何らかのスパイを潜り込ませている。前世の私はその可能性を考えながらも、最後の最期までそれが誰だかわからなかった。
「ご安心ください。私はどこかの派閥や組織に所属している人間ではありません」
私の刺すような視線を正面から受け止めながらも、先生はただ、足元まで隠れる地味な長いスカートを微動だにさせず、端正で厳格な面立ちのまま佇み、ゆっくりと眼鏡のブリッジを押し上げた。
「ではあなたはどういう方なのですか? お母様はあなたを随分と信用しているように見えます」
「お嬢様、公爵夫人が私を信用しているのは、少し理由が違います。公爵夫人には私の本当の素性は話していませんから。ああ、誤解のないように言っておきますが、私の本当の素性を知っている人間はめったにいません。そして私は大抵の場合、教育に赴いた場で、自分の本当の素性は語りません」
「ほお、それはどういう理由かしら?」
先生への信用度が下がる。しかしどうにも私はこの先生に対しての興味が強くなった。
「お嬢様にはちゃんと話しておきましょう。私が本当の素性を語らないのは、知られるととても面倒なことに巻き込まれることが多いからです。私は束縛されるのがこう見えて大嫌いなのです」
「……囲い込みなどを警戒されているということですか?」
「うんうん、やはりお嬢様は聡明ですね。すぐにそういうことも理解される。ではお嬢様には伝えましょう。人は私のことを畏怖を込めてこう呼びます」
その言葉を口にする瞬間。少しだけ周りの温度が下がった気がした。
「『天魔』と。……この名、お嬢様はご存知ないでしょうか?」
「……っ! え……ええ、知っていますわ」
全身の産毛が逆立つのを、私は幼い両手でスカートを強く握りしめることで誤魔化した。前の世界において、実力者たちの間で都市伝説のように囁かれていた噂を、私の耳もしっかりと捉えていた。
魔法の理を極限まで探求し、その教えの深さは、この世界において比類なき領域に達している。そんな、特定の国家にも組織にも、いかなる宗教にも属さない孤高の放浪魔法使い。
己の眼鏡に適った『魔法において突出した才』を持つ者にだけ、気まぐれに教育を授ける。善悪の二元論など彼女にとっては等価に過ぎず、ただ魔導の極致へと至る真実のみを追求する、求道者。
もし彼女の教えを一度でも授かることができれば、たとえ悪魔に魂を売った禁忌の術者であっても、魔法使いとして後世にその名を刻む『伝説』となる。そんな逸話が、確かに語られていた。
ただ、私が驚いた理由はそこではなかった。
「あなた……いいえ、先生が、アエテリウスだと?」
私は、その名を別の『苦々しい記憶』とセットで覚えていた。お父様の妾の息子であり、お兄様から公爵家の跡継ぎの座を奪い取った、あのキースの家庭教師の名前が、まさにそれだった。
当時、私はキースの教師の姿も、素性も知らなかった。表に出てくることも一切なかったからだ。しかし、お父様があらゆる人脈と権力を総動員して、キースに『アエテリウス』という怪物をあてがった。
その事実だけは、キース本人の自慢気な口から直接聞いたことがあった。
あの時、彼は何と言っていたか……。
『お前なんて誰からも愛されていないんだ! 俺はお父様にあの高名な『アエテリウス先生』までつけて教えてもらったんだ!』
『キース君、それは言っちゃダメ!』
『あっ、うん……お前、このことは外で言うなよ!』
あの時、なぜか村娘が、血相を変えてキースの言葉を強引に制止したのだ。なぜ、あの女はアエテリウスの名前が出ることを恐れたのか。その本当の理由を、当時の私は知る由もなかった。
けれど、今。目の前にいるこの本人からなら、その謎を解き明かせるかもしれない。
「そうですよ。私が、アエテリウスです。まあ同姓同名の別人が存在しないとは保証できませんが」
「男ではなかったのね。でも……実によく理解できましたわ。改めて、この私の教師になってくださったことに感謝を捧げます」
「いえいえ、お礼には及びません。あなたを教えることにしたのは、あくまで私の個人的な趣味に過ぎませんから。教えたいと情熱を感じれば教え、教える価値がないと判断すれば、その瞬間に即座に姿を消す。私はその辺りがとてもはっきりしておりますので……ふふ、お嬢様も、あまり気にしないでくださいね」
「そうですか……ふふ、見切りをつけられないように、せいぜいあなたを楽しませる努力をいたしますわ」
「ご安心ください。今、私はあなたという歪んだ素材に、どうしようもないほど夢中ですから。一分一秒でも観察するのをやめたくないぐらい、その瞳の奥にある『歪み』に惹かれているのです。……ああ、ちなみに公爵夫人にはこのことは絶対に内緒にしておいてくださいね。彼女には『あらゆる教育に精通した人物』としか話しておりませんので」
「まあそうするでしょうね」
お母様の顔を思い浮かべて納得する。私のお母様は、自分が手に入れた極上の自慢話を、誰にも言わずに黙って墓まで持っていけるような忍耐強い人ではない。
もしイメルダ先生の正体が高名な人物であると知れば、すぐにでも周囲に触れ回り、その情報は一瞬でお父様の耳に達するだろう。
「つまり、あなたは教える相手に対して、何らかの秘匿の義務を強制するのですか?」
「ええ、もちろん。私の指導を受ける者には、できるだけ私のことを外部で話さないよう、厳格にお願いしています。特に『アエテリウス』という名前は、何があっても他言無用であると。まあその時々で私が名乗る偽名ならば言っていただいて構いませんが、アエテリウスの名を外で漏らした者は、その瞬間、私の生徒ではなくなります。私は、即座にその者の前から消え去るようにしていますから」
「それは、当然の判断ですわね」
口を滑らせて『言うな』と言われた秘密を露呈させてしまう時点で、その人間は本質的に信用に値しない。もし私が先生の立場であったとしても、間違いなくその人物を見限っただろう。
「ですが先生、このままお母様に黙って、本格的な魔法の教えを乞い続けるには、少々不自然さが残りますわ。ですから、私の方からお母様に向けて『この先生の指導と感性が、私の魂にこれ以上なく合致した。この方でなければ魔法の指導は受けたくない』と、強く進言しておきます。お母様は先生のことを気に入っているようですから、私が褒めれば無理に変えようとはしないでしょう」
「おや。そんなことをする必要があるでしょうか?」
「あると思うからこそ、提案しているのですが?」
「ふふ、ですが、これまで私が一つの場所に一年以上留まったことは、ただの一度もございません。それ以上の歳月が経つと、どうしても私の目に対象の資質や魔力の成長限界が見えてしまい、相手に飽きてしまうのです。……本当に、我ながら飽き性で嫌な悪癖だと自覚はしております。ですので、そのような言葉は必要ありません」
「あなたが私への興味を失うのは勝手だわ。その時は自由にしてください。私は、その時が来たら、先生とは『その程度の絆でしかなかった』と、自分を納得させることにしますわ。過去の執着ごときで足が止まるほど、私は軟弱な女ではございませんの」
私が微塵の躊躇もなくそう言い放った、その瞬間だった。イメルダ先生の端正な表情が、一瞬にしてゾッとするような狂気に染まった。歪んだ陶酔を湛えた瞳が、熱っぽく、じっと私を見つめてくる。
「……ふふ、どうして。どうして、わずか三歳という頼りなく幼い肉体の中に、そんなにも深く、澱んだ暗い炎が宿っているのでしょうね。見ていて本当に飽きることがない。飽きるどころか、その昏い瞳の奥を、今すぐ抉り出して覗き込んでいたいとさえ思いますわ。……最後にもう一つだけ、私からも質問をしてもよろしいでしょうか?」
「ええ、何なりと。お答えできる範囲でなら」
「――お嬢様。あなたは、一体『何』ですか?」
その声音には、世間話の皮を被った日常会話などではない、全身の血を凝固させるほどの圧倒的な『圧』が籠もっていた。それは単なる好奇心を通り越している。
嘘の笑顔や子供らしいはぐらかしなど、通用しないという鋭い殺気にも似た気配が、裏山の木々の間に張り詰めた。
私は、先生の眼差しを静かに見つめ返した。
誰にも言えない『前世の凄惨な死』の秘密を一人で抱え続けるこの身にとって、いっそ誰かにすべてをぶちまけてしまいたいという誘惑は、常に毒のように私を蝕んでいる。
もしすべてを話してしまえば、どれほど心が軽くなるだろうか。だが、それは絶対に許されない。この目の前の女は、私に対する興味が少しでも薄れれば、即座に私を見捨てて去っていくと、宣言している。
そんな人間に、私のすべてをさらけ出すことは、ただの自滅を意味する。彼女がもたらす『飽き』という名の別れは、すべてを告白してしまった私にとって、死刑宣告に他ならない。
だから、私は絶対に信じないし、何も渡さない。
「先生は私を何だと思いますか?」
私は質問で返した。
「そうですね……。三歳の幼い肉体に取り憑いた、老獪で業の深い悪魔、と言ったところでしょうか」
「それは面白い冗談ですわね。先生は、私が本当に『悪魔』だと疑っているのに、それでも教えを授けるのですか?」
「ええ、もちろん。私は興味が湧けば、それが悪魔であろうと天使であろうと、喜んで教えを授けます。ところで悪魔なのですか?」
「……ふふ、悪魔ではありません。そんな超常的な存在であれば、どれほど気楽だったことか。私はただの、平凡な、凡人の負け犬に過ぎません」
「……負け犬。その言葉の響きには、嘘偽りのない真実を感じますね。なるほど、道理でこれほどまでに鋭く、そして狂っているわけです」
「先生にそう言われると、どこか安堵いたしますね」
狂っていると言われても、私は不快感を覚えなかった。むしろ、私の中にある狂気が、この世界において正しい尺度で評価されたと感じた。
あの公開処刑を迎え、公爵令嬢としてのきらびやかな虚飾がすべて剥ぎ取られた今、狂わずにこの現実を生き直すことなど、そもそも不可能なのだ。
そして、復讐を誓った今、正常で、無垢な子供である必要など、私の人生にはどこにもないのだ。
「先生。自分から対話を求めておきながら恐縮ですが、お話ばかりしていても、何も始まりませんわ。どうか、その『アエテリウス・ダエモン』などと呼ばれた名が本当であるなら、この私に、魔法をご教授ください」
「そうですね。詮索はこの辺りにしておきましょう。お嬢様、まずあなたの真の実力を計るためにも、確認したいことがあるのですが、当然、魔法使いの基礎である『精霊契約』については、ご存知ですね?」
「はい……もちろん、身に染みて知っています」
精霊契約。それは自然界の魔力を魔法使いの肉体へ引き込み、魔法を行使するための儀式だ。
魔力操作に限界がある人間にとって、膨大な自然魔力を扱うための最も確実な近道であり、同時に、契約する精霊の『階級』こそが魔法使いとしての強さを決定づける。
前世の私は、血の滲むような努力と公爵家の英才教育を注ぎ込み、ようやくの思いで『中級精霊』との契約を勝ち取った。
しかし、あの村娘たちは、生まれ持った異常な才能で、天地を揺るがす『上級精霊』を平然と従えてみせた。当時の私がどれほど足掻こうとも、その圧倒的なギフテッドの背中に指先すら届かなかった。
「で、何を教えてくださるの?」
私は前世の苦い記憶を胸に沈め、目の前の女へまっすぐに視線を返した。




