第15話 無能の烙印
いくら私でも、ここまで行き過ぎた手段でお兄様に教育などと思ってなかった。だけど、結果としてお兄様には、本来なら見ることすら叶わない魔物との戦いを見せることができた。
お兄様が怯えてやる気をなくしていればだめだけど、そんなわけでもないようだし、かえってこれでよかったのかもしれない。
そんなことを考えていると、着替えを終えて戻ってきたお兄様は、どこか魂が抜けたような、それでいてどこか恥ずかしそうに佇んでいる。
「ふ、フレデリカは、本当にすごいね。僕より年下で、こんなにちっちゃいのに……。まるで、何でもできる大人みたいに見えるよ」
その純粋な賞賛の言葉に、私は胸の内で冷ややかな笑みを浮かべる。三歳児の器に収まったこの身で、どれほどの偽装を重ねているか、兄には知る由もない。
私にとってこんなことできて当たり前なのだ。だからそう口にする。
「そう見えるだけですわ、お兄様。私など、ただの未熟者に過ぎません。これから先の過酷な鍛錬で、果たして本物の一流と呼べる高みに到達できるかどうか……それすらも確信は持てませんわ」
私の脳裏に過るのは、遠い記憶の彼方にある『破滅の光景』だ。成長しきった村娘、そう、あの女が築き上げた、帝国の才能を一点に集約させる逆ハーレム。
あの村娘が手にした理不尽なまでの強さを思い出すたび、今もなお、不安が私の心臓をいつでもつかんでくる気がするのだ。あの強さは、紛れもなく悪夢そのものだった。
今の私では、間違いなくあの一団の踏み台にされ、無残に踏み潰されて終わる。もっとも、さすがにあの村娘とか言う歴史を塗り替えるほどの化け物も、この時はまだ無力な子供に過ぎない。
今のうちに所在を突き止め、一思いに殺してやれば、これほど効率的な解決策はないのだけど……。
そんな三歳児が考えるべきではない淀んだ考えを脳内でシミュレーションしていた時、突然、周囲の大気が震え、魔力密度が変わったことを感じる。
「……あら」
魔力を流し込み聴力を全力で開く。風に乗ってイメルダ先生の詠唱が微かに響いてくる。
【外なる者よ、境界を超すこと能わず。我が支配する領域、これより閉ざされん!】
その瞬間、大気が質量を持ってのしかかってくるような感覚が肌を焼く。同時に透明な光の膜が山全体を覆い尽くすのを感じた。
これほどの規模の結界を、この短時間で作り出し、かつ精度を維持するとは。本来であれば、これだけの領域を封じ込めるには、相応の準備と多大な時間が必要になるはずだ。
やはり、イメルダという女はただのダンス教師ではないわね。教師としての優秀さは、疑いようのない事実として認めざるを得ないようだ。
「どうかしたの、リカ?」
不意に呼びかけられたその声に、私は反射的に目を瞬かせた。
「……リカ?」
思考を切り替え、私は三歳という幼い肉体にふさわしい、きっと可愛らしく見えるであろう仕草で小首をかしげて見せる。
「うん、僕、何か変なこと言った?」
「いえ、全く。何のお気遣いもございませんわ」
リカ……その響きが私の耳に残る。
あまりにも呼ばれなくなったせいで忘れていた私の昔の愛称。本当に親しい間柄の者からしか呼ばれない名であり、お兄様も私たちがまだ幼く、無邪気に笑い合えていた一時期しか口にしなかった。
リカ、か。……悪くない響きだわ。もう一度その声で呼んでいただきたいという誘惑に駆られるけれど、これは過酷な現場を乗り越えた私への密かなご褒美ね。
淑女として、甘えるようなおねだりはしないわ。
「それならいいけど、あのさ。何かあったの?」
「ああ、いえ、先ほど先生が言っておられた結界魔法が発動したようですわ。これで安心です。ここから先、あのような本来なら存在し得ない魔物が現れたりはしないでしょう」
「そうなんだ……よかったー」
「お兄様、先生がお帰りになりますわ。姿勢を正して」
私がそう告げると、お兄様は心底から安堵した様子で、息を吐き出した。私の魔法の腕前をどれほど目にしても、先ほどのミノタウロスという化け物を見た後では、気が休まらなかったのだろう。
ミノタウロスの死体は、お兄様が怯えるので、土の中に返してやった。本来なら先生に見せるべきだが、もう見てたし、後でちゃんと確認だけはしておこうと覚えておいた。
時を置かずして、先生の気配が急速にこちらへと近づいてくるのを感じ取る。
「お待たせしました」
それから再びイメルダ先生が姿を見せるまで、お兄様と他愛のない話をして過ごした。イメルダ先生は何食わぬ顔で現れると、度のきつい眼鏡をぐいっと直した。
それにしても、あろうことかおそらくこの先生が、ミノタウロスを召喚したのだと思うが、そのことに対する言及は一切なく、微笑む姿は神経が図太いというか何というか。
まあ不思議と腹は立っていないのだけど。
「いえ、大丈夫ですわ。先生、首尾はどうでしたの?」
「ええ、とても良いものを見せていただけたおかげで、好奇心が刺激されてやる気が出ました。おかげさまで、上々の成果を得ることができましたよ」
ミノタウロスに襲われていた三歳児と五歳児を案じて即座に顔を出すこともしなかったイメルダ先生は、図々しくもそんな回答を平然と言ってのける。
その隠すことのない無神経さは、今後味方として扱う上で信用できるのか。
あまり見たことないタイプの人ね……。
「先生。くれぐれも裏切ったりなさらないでね。あなたの相手をすることになれば、骨が折れそうですわ」
「ふふ、あなたが私の期待に応え続けている限り、そんな事態が起こるわけがありません」
「……そう。それは良かった」
ふたりで顔を見合わせて笑う。本当に心の底が読めない人だった。
「ともかく本来の目的に戻りましょう。お二人ともいいですね?」
「はい。もちろん」
「うぅっ、お腹の調子が」
「お腹の調子が悪いのならばまず、レオナルド様から参りましょうか」
「ええ……っ!?」
今までならお兄様は体調が悪いというと、周りがあれやこれと心配して大騒ぎしてくれた。しかし、イメルダ先生は気にも留めなかった。
「お腹の調子悪いのに?」
「構いませんよ。お腹の調子が悪いならそのまま出してください。幸い山の中ですし、粗相があっても誰も気づきません。仮に服が汚れても、お嬢様がまた新しい服をすぐに作ってくれますから」
「それはそうだけどっ!」
先ほど目の当たりにしたミノタウロスの惨状、そして私の無慈悲な処刑。五歳児の精神負荷は計り知れないはずだが、それでも逃げ出さずに留まっていることには、わずかな希望を見出せる。
以前の記憶にある、大人になってからの情けない姿を知る私からすれば、こんな状態でもまだマシだと思えるのだ。それほどに以前のお兄様はひどかった。
「ではまず、レオナルド様には戦闘魔法の基礎から教えますね」
「……いいえ、先生。お兄様には戦闘魔法ではなく、まずはそもそもの根本、魔法の基礎から教えてくださいまし。どうもお兄様は本当に魔法について欠片も教えてもらっていないようなのです」
兄の教育方針に私が横から口出しするのは、本来であれば差し出がましい振る舞いであることは理解している。しかし、先生はまだ公爵家の裏側と、兄が置かれている現状について詳しくない。
お母様はただただお兄様に甘いだけで、危機感のない毒のような愛を注ぐだけの人。そしてお父様は、兄を無力化するための甘い言葉を囁く悪魔だ。
だからこそ、お兄様の現状を最も正確に把握し、その深刻さを理解しているのは、この私に他ならない。
「魔法の基礎、ですか……。しかし、公爵家の御嫡男に対して、そのような初歩を教える必要があるのですか? アトラス帝国初等学園のご入学までそれほど間もないことですし、戦闘魔法こそ、今のレオナルド様に必要なものかと存じますが?」
先生は不思議そうな眼差しを向け、私に聞いてくる。
「ダメですよ。私に聞かないでください。お兄様の現状については、お兄様ご自身が一番よくご存知のはずです」
全てを私が説明してしまえば、話は早い。だが、それをしては意味がないのだ。
自分の身に起きている不当な扱い、自身の未熟さを、自分自身の言葉で客観的に説明できるようにならなければ、お兄様は便利に使われるだけの無能な駒のままだ。
「なるほど、それもそうですね。では、レオナルド様。あなたはご自身の魔法適性や、これまでの教育についてどこまで把握していますか? これからの教育方針を決定していく上で極めて重要な話です。包み隠さず、正直に全て教えていただけますか?」
「えっと……」
お兄様が、縋るように私の顔を覗き込んでくるが、私は冷たく首を振って拒絶する。私には助ける気がないと悟り、お兄様は震える声で、つっかえながらも話し始めた。
「ま、魔法について……教えてもらったことは、ないです」
「ないとは、どういう意味でしょうか?」
「だから……そういう高度なのは、僕にはまだ早いって……お父様が……」
「ああ、なるほど。理解いたしました……。フレデリカ様」
イメルダ先生は、ここから先をお兄様に聞き続けても、要領を得ない答えしか返ってこないと判断したようだ。無理もない。
大人のずる賢い狙いや、幼子を無力化するための悪意を、五歳のお兄様が理解できるはずもないのだから。
「その言葉の通りですわ。お兄様の言われたまま。それ以上でもそれ以下でもございません」
それでも私は説明は必要最小限に留めた。
「なるほど……。噂には聞いておりましたが、公爵家はずいぶんと面倒なことになっていますね。まともに教育を施せば、私まで命を狙われそうで恐ろしいほどです」
「嫌なら、今すぐやめますか?」
これで契約を破棄するなら、それはそれで構わない。悲しいけれど、お兄様には私が全て教えるだけだ。ただ、頼れる大人が減ることで、自分の身を守るためのハードルが少し上がるという懸念は残るが。
「いえ、やめません。こんなに面白そうな泥沼、途中でやめられるわけもないでしょう。正直に申し上げれば、当初はレオナルド様の方にはあまり興味が湧かなかったのですが……少し、教育者としてのやる気が出てきました」
それを聞いて、私は胸の内でホッと息を吐く。正直なところ、この三歳の未熟な肉体で、お父様から本気で命を狙われたら、ひとたまりもない。
ロック様が遣わしたこの先生なら、あるいは私の盾として機能するかもしれない。何しろこの人、おそらく昔の私よりも遥かに強力な使い手だ。
「ではレオナルド様、魔法の基礎中の基礎から教えますね」
「はい! よろしくお願いします!」
「良いお返事です。では最初に、少し帝国の常識を叩き込んでおきましょう。まず公爵家ほどの家格となれば、魔法の基礎は三歳の頃から習い始めるのが通例です。そして戦闘魔法の修行には七歳頃から携わる。優秀と見込まれた子供なら四歳で教育が始まることすら珍しくない。以上のことを鑑みれば、レオナルド様の教育は、かなりの期間、意図的に放置されていたと断定できます。ここまでは理解できていますね?」
「えっと……、はい、わかります。僕はちょっとお勉強ができないから、お父様が『自分のペースで頑張ればいい』って、ずっと教えてくれていて……」
「それは真っ赤な嘘です。……いえ、これ以上は控えますが、要するにあなたは跡取りとして見なされていません。公爵様はあなたではなく、別の誰かを跡取りに据えるつもりなのでしょう。ふむ、それにしても公爵夫人は一体何をしていたのでしょうね。少し不可解です。レオナルド様がこのまま無能の烙印を押されれば、一番窮地に立たされるのは公爵夫人でしょうに」
先生は分厚いレンズの奥の瞳を冷ややかに細め、厳格で端正な面立ちに、どこか哀れむような、あるいは侮蔑するような歪んだ影を落とした。
私はあえて口を挟まなかった。そんなこと、少し考えれば、この教師なら必ず気づくことだ。要はお母様は、お父様の甘い言葉に完全に丸め込まれ、毒をそれと気づかずに我が子へ与え続けていたのだ。
そして一度目の人生において、味方でありながらお母様は私の足を引っ張り続けた。あまりにも無知で、無力で。けれど、ただ絶望の底でそばにいて泣いてくれるからと、私はそれを許し続けてしまった。
この帝国において、私の味方は驚くほど少ない。時間が経過すればするほど、世界はあの『村娘』の手によって私の敵だらけに作り変えられていく。
あちらがただ愛され、私たちがすべてを奪われていく世界が、着実に完成へと向かっていくのだ。
そう考えるならば、このお兄様には、どうあっても今世は変わってもらわねばならない。自らの力で周りの無能という評価を変え、自らの価値を世界に証明してもらわねば困るのだ。
私は静かに、まだ五歳の幼い兄を見つめながら、これから始まるお兄様との長く険しい、戦いの予感に、小さな拳をギュッと強く握りしめた。




