第十七話 王審-3
悪夢を見ているのだと思った。状況を飲み込めず呆ける国民たちを、クロは、次々と殺害していった。殺戮こそを食事とするように、逃げ惑う人々を執拗に追いかけ、爪で切り裂き、尾で貫き、牙で噛み砕いて殺した。
緑と雪と水路であんなに美しかったコーネリアの街は、炎と血と、駆け回るクロの体で赤一色に染め尽くされた。ハクは震えて、その場に縮こまることしかできなかった。夢だ、これは夢だと言い聞かせて。
「――クロさん!」
窓に背を向けて屈み込んでいた白皇は、その強靭な声にハッとして、すぐさま窓に張りついた。そこには、深紅の怪物そのものとなったクロと向き合い、涙を流して絶叫するアンナの姿があった。
「あなたは世界で一番、強い人でしょう……!? 自分に負けてどうするの! お願い、優しいクロさんに戻って……ッ!!」
襲いかかりかけた無数の尾が、空中で、見えない力に掴まれたように動きを止めた。プルプルと痙攣しながら、クロの体はその場に硬直した。その目から、赤い涙が流れていた。
『ハ…………、ク……』
バケモノの声に混じって、ほんの僅かに、彼の柔らかい声が蘇った。彼は、ハクの名を呼んでいた。なにか激痛に抗うように懸命に。
『オレ、ヲ………………コロ、セ……ッ!!』
吹けば消えそうな灯のように。クロは、ハクを呼ぶ。なぜ自分を呼ぶのか、そんなことを頼むのか、意味が分からなかった。
「む、無理、だよ……」
クロが持ちこたえた数秒は、本当に長く感じた。じり、じり、とアンナに尾の先端が近づいていく。アンナは目を閉じて、動かなかった。
やがて、震えながらゆっくりと伸びた尾が、アンナの頬に触れた。アンナはまなじりから涙を流し、愛おしそうに、かつてクロの肩にそうしたように、寄り添うように頭を預けた。
彼女の首が飛んだ光景は、網膜にこびりついて、一生消えない。
ハクは絶叫して逃げた。背後で、クロの慟哭が響いていた。壊れた声で、確かに彼は泣いていた。天に向かって叫ぶクロに、茜色の光を伴って、莫大な力が集中していく。途方もないエネルギーが、膨張し、飽和し――爆発した。
それは、人の枠を越えた煉術だった。国中の煉素をエネルギーに変換して解き放つその威力は、核兵器を彷彿とさせる。美しいコーネリアは跡形もなく消滅し、隕石がつくったようなクレーターだけが残った。
生きているのは、二人だけだった。
ハクは、全身傷だらけでサラサラの砂地に横たわりながらも、辛うじて一命を取り留めていた。なぜ自分が生きているのか、ハクには理解できなかった。周囲に、無数の氷塊が散乱していた。まるで氷の壁となって、それらがハクを守ったように。
よろめきながら立ち上がったハクに、天を見上げて死んだように佇む赤いバケモノが、ゆっくりと気づいた。血の涙が彼の頬に筋を作っていた。
「クロ……やめて……」
彼はもう、ハクのことも分からないようだった。虚ろな目で腰を落とすと、クロは目を疑うスピードで一直線にハクの元へ迫った。
「う……ぅあああああああああああああッ!!!」
涼しい音がカランと鳴って、激突したハクとクロの周囲に、氷の華が咲いた。
「え……」
ハクの足元から咲き乱れた氷の柱が、クロの腕、足、そして胸を貫いて蜂の巣にしていた。信じられないものを見る顔の白皇とは対照的に、心臓を潰されたクロは、絶命する寸前に元の彼に戻った。
「……ほら、な……やっぱり、やればできるやつだった」
クロ。口から血を吹き、今にも永遠に閉ざされそうな目を薄く開けて、親友が、優しくハクを見つめていた。
「あの山から来たんだろ、ハク……」
知らないよ。そんなことより、早く体を治さなきゃ。
「なぁ、なんで……」
優しかったクロのまなざしが、今際の際、くしゃりと歪んで、抑えがたい、怨念が滲んだ。
「なんで……俺を、殺してくれなかったんだ……」
お前にしかできなかった。お前にしか頼めなかった。クロの、愛と呪いが綯交ぜになった瞳が、焼き印のように胸に刻み込まれて、涙が出るほど痛かった。
クロは死んだ。ハクを恨みながら死んでいった。残されたハクは、丸一日も死んだように眠り、目を覚ますと、自らも死のうと外の猛吹雪に飛び込んだ。
ところが、ハクは死ねなかった。風速90メートルの吹雪に身をさらしても、ハクにとっては肌寒いという程度だった。思えばハクは、物心ついてから一度も、寒いという感覚を覚えたことがなかった。
ハクは、自分が人間ではないことを悟った。物心ついた時から教会にいたが、クロのように歓迎祭の日に拾われたわけではない。自分を捨てた親がどこかにいるなら、なぜ自分の髪は赤くないのだろうと、不思議に思ってはいたが、十七歳にもなると大して気にもしなくなっていた。
クロの言うように、自分はあの霊峰から来たのだろうか。皆の言う「山の神様」なのだろうか。人に擬態したモンスターなのだろうか。分からない。一人残らず死んでしまった今となっては、自分が何者かさえ、誰からも答えは得られない。
クロは、見抜いていたのだろうか。頭は弱いが、勘の鋭い男だったから、きっとそうに違いない。人と違う自分を、彼は受け入れた。肩を組んでくれた。当たり前のように笑顔で、親友になってくれた。
流れた涙は、すぐに凍って吹雪に消えた。それでも後から後から、涙は際限なく溢れた。
クロを、裏切ってしまった。全ての力を振り絞った彼の頼みを、聞いてやれなかった。アンナを、彼の愛する人を、彼の手で殺させることになってしまった。全て僕の――一生消せない僕の罪だ。
吹雪のなかを、宛もなくゾンビのように徘徊した。ホワイトアウトする視界には、ずっとクロとの思い出が、クロの最期が、繰り返し映し出された。
北極風に押されるように南下を続けたハクは、やがて、人の住む国を発見し、そこに身を寄せた。余所者は歓迎されなかったが、奴隷同然の身分でも構いやしなかった。
ところが、トラブルや何かの拍子に氷の異能が顔を出すと、人々はハクを「バケモノ」「モンスター」と罵って恐怖し、追い出した。石を投げられ、槍で突かれ、殺されかけたこともあった。
ハクは山を越え海をわたり、各地の国を転々としながら南下を続けた。そして毎日、自分の異能を制御する訓練に励んだ。得体の知れない、意思と関係なく発動するその力を自分のものにするのは、雲を掴むより途方もないことだったが、試行錯誤を繰り返して、決して諦めなかった。




