第9話 辞表
一二三は、朝から退職届の書き方を調べていた。
検索欄に入れたのは、
『退職届 書き方』
という、そのままの言葉だった。
画面には縦書きの見本が出ている。
退職理由は一身上の都合。
日付。
所属。
氏名。
社長名。
必要なものだけ見れば、意外と単純だった。
「簡単じゃん」
思わず声に出た。
午前七時十八分。
町田の自宅。
テーブルにはコーヒーとノートパソコンが置かれている。
会社へ行くまで、まだ少し時間がある。
昨夜はほとんど眠れなかった。
頭の中にいろいろなものが残っていた。
会社。
プロジェクト。
友梨亜。
結婚。
今井。
丞。
六花。
どれも考えればきりがない。
それでも一番引っかかっていたのは、以前金田から言われた言葉だった。
『辞めるなら早めに言ってください』
もちろん、辞めろと言われたわけではない。
むしろ、
『残ってくれれば助かります』
とも言われた。
それなのに一二三には、逆に逃げ道を塞がれたような気がしていた。
辞めたいと言っている。
考えていると言っている。
何かを探していると言っている。
でも、ずっとそれだけだ。
いつまで言うのか。
いつまで考えるのか。
いつまで保留にするのか。
そう思ったら、少し恥ずかしくなった。
一二三はコピー用紙を一枚出し、ボールペンを持った。
「縦書きか」
少し面倒だと思いながら書き始める。
退職届。
私儀。
このたび、一身上の都合により――。
そこまでは順調だった。
令和何年。
一二三はスマホを見た。
「今何年だっけ」
自分で笑う。
日付を確認して書き進めたところで、手が止まった。
退職日。
いつにする。
一ヶ月後か。
二ヶ月後か。
今のプロジェクトはどうする。
引き継ぎは。
今井は。
納期は。
金田は。
ただ辞めるだけの話なのに、一つ日付を決めようとしただけで、その先にいろいろなものがつながってくる。
結局、ペンが動かなくなった。
一二三は紙を裏返し、もう一枚用意した。
今度は横書きで、
『会社を辞めた後』
と書いた。
その下は空白だった。
一分。
二分。
五分。
何も出てこない。
転職。
違う気がする。
起業。
何をする。
旅。
いつまで。
資格。
何の資格。
動画。
何を撮る。
ブログ。
何を書く。
英語。
何のため。
プログラミング。
何を作る。
考えるほど、自分が何も持っていないことだけがよく分かる。
以前もスマホのメモに、
『やりたいこと』
というタイトルを作った。
中身は空白のままだった。
今は紙の上に、
『会社を辞めた後』
と書いてある。
そして、その下も同じように空白だった。
「……何も変わってねえじゃん」
時計を見ると七時三十六分。
一二三は書きかけの退職届を折り、カバンに入れた。
そのまま会社へ向かった。
電車に乗り、新橋へ向かう。
いつもの景色。
いつもの混雑。
いつもの広告。
何も変わっていない。
ただ、今日はカバンの中に退職届が入っている。
それだけで、いつもの通勤が少し違って見えた。
出そうと思えば出せる。
辞めようと思えば辞められる。
誰かが自分を会社につないでいるわけではない。
そう思うと少し楽になった。
同時に、少し怖くもなった。
八時四十一分。
受付の前を通る。
「おはようございます!」
花恋が元気よく声をかけてきた。
「おはよう」
「今日早いですね」
「普通だよ」
「昨日より一本早い」
「まだ数えてるの?」
「暇なんで」
隣から深音が口を挟む。
「暇じゃない」
「今は暇」
「朝礼資料」
花恋の動きが止まった。
深音は無言でファイルを差し出した。
花恋が受け取る。
「ありがとうございます」
「昨日送った」
「見ました」
「なら何で今初めて見た顔したの」
「表情の問題」
一二三は思わず笑った。
いつもの朝だった。
「山田山さん」
花恋が言った。
「何」
「今日なんか違います?」
一二三は少し止まった。
「何が」
「分かんない」
「適当かよ」
花恋はしばらく一二三を見る。
「なんか、辞めそう」
一二三の動きが完全に止まった。
深音もこちらを見る。
「え」
「何でそう思った」
「いや」
「何」
「なんとなく?」
「怖」
「当たった?」
「違う」
わずかな間が空いた。
花恋が目を細める。
「今の間怪しい」
深音が言った。
「花恋」
「何」
「仕事」
「はい」
一二三は逃げるようにエレベーターへ乗った。
扉が閉まる。
カバンを見る。
「怖」
小さく呟いた。
九時十分。
今井が走ってきた。
「山田山さん!」
「何」
「大変です!」
一二三はため息をついた。
「何やった」
「まだ何もやってません!」
「その言い方怖い」
「外部先からメール来てて!」
「見せて」
今井の画面を見る。
仕様変更の依頼だった。
内容を読む。
影響はかなり大きい。
「これ、昨日来てた?」
「はい!」
一二三は止まった。
「何で今言うの」
「昨日僕が帰ったあとに来てました!」
「何時」
「十九時三分」
「俺いたよ」
今井が黙る。
「チャット入れればよかったよね」
「……」
「今井」
「はい」
「何で黙るの」
「怒られると思って」
「今怒ってる」
「すみません!」
一二三はメールを読み直した。
その瞬間、頭が仕事へ切り替わった。
朝から考えていた退職届のことが、一度消えた。
「金田課長呼んで」
「はい!」
「あと担当全員」
「はい!」
「十時から会議」
「はい!」
「資料まとめる」
「僕が?」
「お前も」
「分かりました!」
一二三はすぐに動いた。
メールを読み、影響範囲を確認する。
工程。
担当。
外部。
予算。
納期。
十時。
会議が始まった。
一二三が説明する。
「この変更だと、現行日程は無理です」
金田が聞く。
「根拠は」
一二三は資料を示した。
「ここで二日。こっちで三日。さらに外部確認で最低二日」
「一週間」
「最低です」
「短縮案は」
「一個あります」
一二三はホワイトボードの前へ立った。
「ここを並行させます」
「リスクは」
「高いです」
「他は」
「予算を増やして外注」
「いくら」
一二三は概算を出した。
金田が頷く。
「では先方と交渉してください」
「俺?」
「リーダーです」
「ですよね」
一二三は苦笑した。
「今井」
「はい!」
「議事録」
「はい!」
金田も付け加える。
「今日は送る前に山田山君へ確認してください」
「分かりました!」
今井は一二三を見る。
「絶対確認してください」
「お前が言うな」
会議が終わったのは十一時過ぎだった。
そのまま先方へ電話する。
仕様変更が現状のスケジュールにどれだけ影響するのか説明し、代案を出す。
相手は難色を示した。
一二三も譲れない部分を説明する。
しばらく押し引きが続いた。
最終的に、作業の一部を並行させ、追加費用を一部先方にも負担してもらう形で折り合った。
電話を切る。
一二三は椅子にもたれた。
「疲れた」
隣で今井が言う。
「でもまとまりましたね!」
「お前何もしてないけどな」
「議事録しました!」
「見せて」
今井が画面を出した。
一二三は読む。
「お」
今井の顔が明るくなる。
「いいですか!」
「だいぶいい」
「ですよね!」
「ただ」
「はい」
「先方の会社名違う」
「え」
「誰だよこれ」
今井が画面を見る。
「……前の案件」
「直せ」
「はい!」
一二三は笑った。
そして気づいた。
少し楽しかった。
またそれだ。
自分でも嫌になる。
昼休み。
社員食堂で一人、席についた。
足元にはカバンがある。
その中に退職届が入っている。
朝はあれほど存在感があったのに、仕事が始まってから完全に忘れていた。
もし今日、自分が会社へ来なかったら。
さっきのトラブルを誰が処理したのだろう。
もちろん、誰かがやったはずだ。
会社は回る。
自分にしかできない仕事ではない。
自分がいなくても、別の誰かがやる。
それでも今日は自分がやった。
そして、少し満足している。
「最悪」
また声に出た。
「何がですか?」
顔を上げる。
今井がいた。
「またお前か」
「席空いてたんで」
「他も空いてる」
「ここがいいです」
「何で」
「相談」
嫌な予感がした。
「何」
今井は向かいに座った。
「僕、向いてないですかね」
一二三は少し驚いた。
今井にしては珍しく元気がない。
「何が」
「仕事」
「急だな」
「昨日、メール見て」
「うん」
「今朝まで言わなくて」
「うん」
「今日も会社名間違えて」
「うん」
「ミス多いし」
「うん」
今井は少し下を向いた。
「山田山さんに迷惑ばっかかけてるなって」
一二三は何も言わずに聞いた。
「僕、会社引っ張る存在になるって書いたじゃないですか」
一二三は吹き出した。
「笑わないでください!」
「ごめん」
「本気なんですよ」
「分かってる」
今井はカレーを見ながら言った。
今日は珍しく普通盛りだった。
「今の僕、足引っ張ってるじゃないですか」
一二三は少し考える。
「まあ」
「そこ否定してくださいよ!」
「いや、今は引っ張ってる」
「酷い」
「でも一年目だろ」
「はい」
「普通じゃない?」
今井が顔を上げた。
「山田山さん、一年目どうでした?」
一二三は思い出す。
「最悪」
「ホントですか」
「コピー機壊した」
「え」
「壊してないけど、壊したと思われた」
「何ですかそれ」
「紙詰まり」
「それだけ?」
「あと、取引先の名前間違えてメール送った」
今井の顔が明るくなった。
「僕と同じじゃないですか!」
「似てんな」
「じゃあ僕も大丈夫?」
「知らない」
「そこ!」
一二三は笑った。
「でも今よりはマシになった」
「山田山さんが?」
「うん」
「じゃあ僕も」
「多分」
今井の顔に少し元気が戻った。
「じゃあ頑張ります」
「単純」
「前向きなんで」
「知ってる」
今井はカレーを食べ始めた。
少ししてから、また顔を上げる。
「山田山さん」
「何」
「辞めないでくださいね」
一二三の手が止まった。
「何でまた」
「僕が一人でできるようになるまで」
「長いな」
「一年くらい?」
「もっとかかりそう」
「じゃあ三年」
「伸びた」
今井は笑う。
「三年お願いします」
一二三は少し困った。
「約束できない」
「じゃあ一年」
「そういう話じゃない」
今井は少し真面目な顔になった。
「辞めたいんですか」
一二三は考えた。
「うん」
今井が真正面から聞いてくる。
「何で?」
一二三は答えた。
「分かんない」
今井が止まる。
「分かんないのに?」
「うん」
「辞めるんですか」
「分かんない」
今井は少し笑った。
「山田山さん」
「何」
「僕より分かんない多いですね」
一二三は言葉に詰まった。
「うるさい」
午後も普通に忙しかった。
三時頃、金田が一二三の席へ来た。
「山田山君」
「はい」
「先方の件」
「まとまりました」
「聞きました」
「早いですね」
「CCに入っています」
「あ」
「確認しました」
「どうです?」
「妥当です」
一二三は少し嬉しかった。
「ありがとうございます」
金田が言う。
「珍しいですね」
「何が」
「素直」
「褒められたんで」
「ではもう一つ」
「何」
「今回の判断も良かったです」
一二三は止まった。
「怖」
「なぜ」
「二個褒められた」
「事実です」
「仕事増えます?」
「増えます」
「ほら」
金田が少し笑った。
その時、一二三は思った。
今なら言える。
退職届はカバンの中だ。
金田も目の前にいる。
出すなら今だ。
「課長」
「はい」
口を開いた。
でも、言葉が続かなかった。
金田は待っている。
「……」
「何でしょう」
一二三は一度息を吐いた。
「今日、少し時間もらえます?」
金田が一瞬だけこちらを見る。
「退勤後?」
「はい」
「分かりました」
「ありがとうございます」
金田が去ったあと、一二三は自分の心臓が少し速くなっていることに気づいた。
今日、言う。
会社を辞めたいと。
退職届を出す。
そう決めた。
四時。
五時。
六時。
仕事をしながら、ずっとカバンの中の退職届を意識していた。
六時十二分。
友梨亜からメッセージが来た。
『今日何時くらい?』
画面を見る。
以前なら、少し重いと思ったかもしれない。
今日は違った。
『ちょっと遅くなる』
『仕事?』
『うん』
少し迷ったあと、
『課長と話す』
と送った。
既読がつく。
『何の話?』
まだ金田にも言っていない。
『ちょっと』
とだけ返した。
少しして、
『そっか』
と来た。
それだけだった。
何時まで。
誰と。
何で。
いつもなら続く質問が来ない。
一二三は画面を見た。
何かが少し足りない。
そして、自分が少し寂しいと感じていることに気づいた。
「勝手だな」
自分で笑った。
七時。
人のほとんどいなくなった社内で、金田と会議室に入った。
向かいに座る。
机を挟む。
金田が言った。
「話とは」
一二三はカバンを開けた。
折ったままの退職届を出す。
封筒にも入れていない。
日付も空白のままだ。
机の上へ置いた。
「会社、辞めようと思ってます」
金田は一二三を見た。
「決定ですか」
一二三は答えられなかった。
金田が続ける。
「思っている」
「はい」
「決めた」
「……」
また答えられない。
金田は紙を見る。
「日付が未記入ですね」
「はい」
「退職希望日は」
「まだ」
「次は」
「まだ」
「決まっていない」
「はい」
金田は少し黙った。
「では、これは退職届ではなく」
「はい」
「退職届を書きかけている状態ですね」
一二三は苦笑した。
「そうですね」
「なぜ持ってきたのですか」
「自分でも分からないです」
金田は小さくため息をついた。
怒っているというより、呆れているのだと思う。
「山田山君」
「はい」
「辞めたい理由は」
「前も言いました」
「何かしたい」
「はい」
「何を」
「まだ」
「では、会社にいることで、それができないのですか」
一二三は止まった。
金田が一つずつ聞く。
「時間?」
「まあ」
「金銭?」
「いや」
「規則?」
「違います」
「勤務地?」
「違う」
「人間関係?」
「違う」
「仕事内容?」
一二三は少し考えてから答えた。
「嫌いじゃないです」
金田の眉がわずかに動いた。
「では、何が理由でしょう」
一二三は少し笑った。
「自分でも分かんないです」
「理解しました」
「理解できました?」
「いいえ」
一二三は笑った。
金田は淡々と続ける。
「ただ、あなたは」
「はい」
「会社を辞めたいのではなく」
一二三を見る。
「今の自分を辞めたいように見えます」
一二三の動きが止まった。
丞にも似たことを言われた。
何かをしたいのではなく、何かをしている自分になりたいだけではないか。
金田の言葉は少し違う。
でも、同じところを刺している。
「課長」
「はい」
「それ結構きついですね」
「事実かどうかは分かりません」
「保険かけた」
「私の推測です」
一二三は退職届を見る。
「俺、このままが嫌なんですよ」
「はい」
「毎日同じで」
「はい」
「会社行って」
「はい」
「帰って」
「はい」
「また次の日」
金田は黙って聞いている。
一二三は少し迷ってから言った。
「でも、今日の仕事」
「はい」
「ちょっと楽しかったんですよ」
「それは良かった」
「良くないんですよ」
「なぜ」
「辞めづらくなる」
金田はすぐに言った。
「辞めたいから、仕事を嫌いになる必要はありません」
一二三は黙った。
「逆も同じです」
「何が」
「仕事が楽しい日があるから、辞めてはいけないわけでもない」
それも正しい。
正しいから困る。
金田は続けた。
「選択はどちらでも構いません」
「課長は止めないんですか」
「前にも言いました」
「はい」
「残れば助かります」
「はい」
「ただ」
金田が一二三を見る。
「あなたの人生を、会社の都合で決める権利はありません」
一二三は少し驚いた。
「しかし、会社としては」
「はい」
「退職届を受け取るなら、日付を入れてください」
一二三は笑った。
「そこは厳しいな」
「書類なので」
「ですよね」
金田は紙を一二三側へ戻した。
「今日は持ち帰ってください」
「いいんですか」
「完成していないので」
「完成したら?」
「受け取ります」
「止めない?」
「話はします」
「理詰めで?」
「当然です」
「嫌だな」
金田は少しだけ笑った。
「ただ、一つだけ」
「はい」
「辞める前に、次を決めろとは言いません」
一二三は顔を上げる。
「でも」
「はい」
「辞めた後に何をするか。一日目くらいは決めておいた方がいいでしょう」
「一日目?」
「はい」
「何するか」
「はい」
「それだけ?」
「一日目すら決められないなら」
金田は少し間を置いた。
「その退職は、何かを始めるためではなく、今から逃げるための可能性が高い」
一二三は何も言えなかった。
金田が時計を見る。
「帰りましょう」
「はい」
一二三は退職届をカバンへ戻した。
結局、出さなかった。
いや。
出せなかった。
会社を出る。
今日は金田も電車だった。
「課長、今日車じゃないんですね」
「妻が使っています」
「珍しい」
「娘の習い事です」
「いいパパですね」
「普通です」
「会社だと全然見えない」
「必要ありません」
「もったいない」
金田は歩きながら言った。
「あなたも」
「何」
「会社で、思っているより色々見えていませんよ」
一二三は見る。
「何が」
「それは自分で」
「そこ答えないんだ」
「今日は業務外です」
一二三は笑った。
駅で金田と別れ、電車に乗る。
町田までの車内で座ることができた。
膝の上にはカバン。
その中に退職届がある。
スマホを開く。
『やりたいこと』
空白のままのメモ。
その下へ新しく打つ。
『会社を辞めた翌日に何をするか』
一二三は考えた。
旅行。
違う。
寝る。
それはやりそうだ。
ゲーム。
いつでもできる。
飲む。
そもそも飲まない。
友梨亜と会う。
平日なら仕事だ。
丞も仕事。
今井も会社にいる。
朝起きる。
会社へ行かない。
そのあと、何をする。
まるで想像できなかった。
自由になりたい。
そう思っていた。
でも、自由になった自分が何をするのかは全く見えない。
スマホが震えた。
友梨亜だった。
『終わった?』
『終わった』
『帰ってる?』
『うん』
『話せた?』
一二三は少し迷った。
『うん』
返ってきたのは、
『そっか』
だけだった。
一二三は画面を見る。
少し待つ。
何も来ない。
自分から打った。
『会社辞めようと思ってるって言った』
既読がつく。
一分。
二分。
『そっか』
一二三は少し苛立った。
また、そっか。
『それだけ?』
送ってから、自分でも嫌な言い方だと思った。
少しして返ってくる。
『何て言えばいいの?』
一二三は止まった。
確かに。
何と言ってほしいのだろう。
辞めないで。
頑張って。
好きにすれば。
応援する。
どれも違う。
『分かんない』
送る。
友梨亜からすぐ返ってきた。
『じゃあ私も分かんない』
一二三は少し笑った。
同時に、少し腹も立った。
『最近冷たくない?』
既読。
少しして、
『一二三がそうしてほしいのかと思って』
と返ってきた。
『何を』
『予定とか聞かれるの重いって言ったじゃん』
一二三の胸が少し詰まった。
確かに言った。
『だから聞かないようにしてる』
続けて、
『結婚のことも』
『急かされたくないんでしょ』
『だから待ってる』
一二三は画面を見たまま動けなかった。
何かが違う。
でも、友梨亜は間違っていない。
自分がそうしてほしいと言った。
それなのに、いざ聞かれなくなると寂しい。
待ってほしいと言っておいて、実際に待たれると怖い。
『そうだけど』
そこまで打った。
その先が出てこない。
しばらくして友梨亜から来た。
『今日会える?』
一二三は少し驚いた。
時計を見る。
九時前。
『今から?』
『うん』
『遅くなるよ』
『明日休み』
そうだった。
明日は土曜日。
『町田来れる?』
『行く』
一二三は少し安心した。
そして、やっぱり自分は勝手だと思った。
九時四十三分。
町田駅。
友梨亜が来た。
二人で歩く。
今日は店には入らなかった。
駅前から少し離れると、人通りも減ってくる。
友梨亜が聞いた。
「辞めるの?」
「分かんない」
友梨亜が少し笑う。
「また」
「うん」
「退職届出した?」
「出してない」
「書いた?」
「途中」
友梨亜が一二三を見る。
「途中?」
「日付決められなくて」
友梨亜が吹き出した。
「そこ?」
「笑うなよ」
「いや、一二三らしいなって」
少し腹が立つ。
「何だよ」
「別に」
「それ嫌い」
「私もそっか嫌い」
一二三は止まった。
友梨亜も止まる。
二人で少し笑った。
でも、すぐにまた静かになった。
「何で辞めたいの?」
友梨亜が聞く。
「また?」
「ちゃんと聞いてない」
「言ったじゃん」
「何かしたいって?」
「うん」
「何」
「それが」
友梨亜が言う。
「分かんない」
一二三も頷く。
「うん」
友梨亜は前を向いた。
「私、前はそれ聞くとすごく不安だった」
「今は?」
友梨亜は少し考えた。
「今も不安」
「だよな」
「でも、一二三が会社辞めたら」
「うん」
「私まで何か決めなきゃいけない気がしてた」
一二三は友梨亜を見る。
「結婚するのか」
「うん」
「待つのか」
「うん」
「別れるのか」
一二三は何も言わなかった。
「一二三の人生が動くなら、私の人生も動かされる気がしてた」
少し歩いてから、友梨亜が続ける。
「でも、それ違うなって」
「何が」
「一二三が会社辞めても、私は会社行くし」
「うん」
「私が一人旅しても」
一二三は止まった。
「一人旅?」
友梨亜も止まる。
「あ」
「何それ」
「今度鎌倉行く」
「誰と」
友梨亜は一二三を見る。
「一人」
一二三は驚いた。
「何で」
「行ってみたかったから」
「そんなこと言ってた?」
「言ってない」
「何で言わないの」
友梨亜が少し笑う。
「私の予定だから」
その言葉が胸に少し引っかかった。
「それ、最近のやつ?」
「何が」
「俺に聞かないようにしたり、一人で何かしたり」
「うん」
「なんか、距離取られてる感じする」
友梨亜は立ち止まった。
「一二三が欲しがってた距離じゃないの?」
何も言えなかった。
「私、一二三の予定聞きすぎた」
「……」
「誰といるか気にしすぎた」
「うん」
「結婚の答えも、一二三に出してほしすぎた」
一二三は黙って聞いた。
「だから少し、自分のことやろうと思った」
一二三は思わず聞いた。
「俺と別れたい?」
友梨亜はすぐに答えた。
「違う」
それだけで少し安心した。
でも友梨亜は続けた。
「一二三がいないと何もできない自分にはなりたくない」
その言葉が刺さった。
それは自分も同じなのかもしれない。
会社がないと何もできない。
だから辞めたいと思う。
でも、会社を辞めた後に何をするのかは空白だ。
「今日、課長に言われた」
「何を」
「会社辞めたいんじゃなくて、今の自分辞めたいんじゃないかって」
友梨亜は少し笑った。
「それ、結構当たってるんじゃない?」
一二三は少しムッとした。
「お前まで言う?」
「だって私もそうだから」
一二三は止まった。
友梨亜が続ける。
「結婚したいんじゃなくて、三十二で何も決まってない自分が嫌だったのかもしれない」
一二三は友梨亜を見る。
「友達は結婚して」
「うん」
「子どもいて」
「うん」
「家買って」
「うん」
「私は彼氏いるけど、この先分かんない」
「ごめん」
友梨亜がすぐ言った。
「謝らないで」
「あ」
一二三は前にも同じことを言われた。
友梨亜が少し笑う。
「これ、一二三だけのせいじゃない」
「でも、俺が答え出さないから」
「私も出してない」
「結婚したいって言ってたじゃん」
友梨亜は少し止まった。
「それも、今は分かんない」
一二三は驚く。
「え」
「何」
「この前あんな」
「言った」
「うん」
友梨亜は少し笑った。
「選ばれたかっただけかもしれない」
「何それ」
「私も分かんない」
一二三は笑った。
友梨亜も少し笑う。
二人とも答えを持っていない。
しばらく歩く。
一二三が聞いた。
「じゃあ俺らどうすんの」
友梨亜はあっさり言った。
「知らない」
「そこは考えようよ」
「一二三が言う?」
一二三は笑った。
「確かに」
少し歩いてから、友梨亜が聞く。
「別れたい?」
一二三はすぐに答えた。
「嫌」
友梨亜が少し驚く。
「早」
「それは分かる」
「結婚は?」
今度は一二三が止まった。
「まだ」
友梨亜が少し笑う。
「じゃあ今はそれでいい」
「いいの?」
「今は」
「いつまで」
「知らない」
「怖」
「私も」
二人で笑った。
近くの公園に入り、ベンチへ座った。
一二三はカバンから退職届を出した。
友梨亜が驚く。
「持ってきてたの?」
「会社からそのまま」
友梨亜は紙を見る。
「ホントに途中」
「だろ」
「退職日空いてる」
「決められなかった」
「次は?」
「空白」
一二三はもう一枚の紙を見せた。
『会社を辞めた後』
その下には何も書いていない。
友梨亜は紙を見た。
一二三は少し恥ずかしかった。
「笑う?」
「いや」
友梨亜は紙を見ながら聞く。
「一二三」
「何」
「会社辞めた翌日、私が仕事なら何する?」
一二三は答えられない。
「丞君も仕事」
「うん」
「今井君も会社」
「うん」
「昼、一人」
一二三は目を閉じた。
「分かんない」
友梨亜が言う。
「じゃあ、まずそこ決めたら」
「課長と同じこと言うな」
「そうなの?」
「今日言われた」
「じゃあ課長正しいじゃん」
「嫌だ」
友梨亜が少し笑った。
「私、鎌倉行くよ」
「うん」
「一人で」
「うん」
「多分、何も変わらない」
一二三は友梨亜を見る。
「日帰りだし」
「うん」
「帰って、次の日会社行くし」
「うん」
「でも、一人で行ったって事実は残る」
その言葉を聞いて、一二三は少し止まった。
丞にも似たことを言われた。
『始めたって事実は残る』
思わず笑う。
「何」
友梨亜が聞く。
「いや、タスクも似たこと言ってた」
「嫌だ」
「何で」
「一二三の周り、みんな同じこと言うじゃん」
一二三は少し考える。
「俺が同じところで止まってるからじゃない?」
「それはある」
「酷」
二人で笑った。
一二三は退職届を見る。
「じゃあ、辞める前に何か一個やる」
友梨亜が言った。
「前も言ってなかった?」
一二三は止まった。
「言った」
「やってないの?」
「やってない」
友梨亜が笑う。
「ダメじゃん」
「うるさい」
「何するの」
「それを」
「分かんない?」
「うん」
友梨亜は少し考えてから言った。
「大きいことじゃなくていいんじゃない」
「例えば」
「知らない」
「そこは出してよ」
「私の人生じゃないから」
一二三は少し笑った。
最近、結みたいなことを言う。
「なんか最近強くなった?」
「少し」
「怖」
「一二三」
「何」
「私、一人で鎌倉行くから」
「うん」
「一二三も一人で何かしてみたら」
「何を」
「だから知らないって」
「雑」
友梨亜が笑った。
一二三も笑った。
駅まで戻る。
改札前で友梨亜が言った。
「じゃあね」
「送るよ」
「大丈夫」
「最近それ多いな」
「何が」
「大丈夫」
友梨亜は少し笑う。
「今日は本当に大丈夫」
一二三は頷いた。
「分かった」
友梨亜が改札へ向かいかけて止まる。
「あと」
「何」
「退職届」
「うん」
「明日破るの?」
一二三は考えた。
「分かんない」
「じゃあ取っとけば」
「いいの?」
「誰に聞いてるの」
一二三は笑った。
「だな」
友梨亜は改札を通った。
少し進んでから振り返る。
「一二三」
「何」
「会社辞めても」
「うん」
「辞めなくても」
「うん」
「私のせいにはしないでね」
一二三は少し止まった。
「しないよ」
友梨亜も言う。
「私も、一二三のせいにしないようにする」
一二三は小さく頷いた。
「うん」
友梨亜はそのまま駅の奥へ消えていった。
一二三は一人で家へ帰った。
机の上に退職届を置く。
その隣には、
『会社を辞めた後』
と書いた白い紙。
中身は空白だ。
一二三はその紙を裏返した。
新しく書く。
『会社を辞める前にやること』
ペンを持ったまま考える。
大きな夢でなくていい。
人生を変えるものでなくていい。
少し興味がある。
でも今までやらなかった。
そんなもの。
スマホを開き、以前の検索履歴を眺める。
旅行。
副業。
英語。
動画。
資格。
その中に、少し前に何となく調べたものがあった。
『写真教室 初心者 東京』
一二三は画面を見る。
そういえば昔、旅行先で写真を撮るのは嫌いではなかった。
スマホで十分だと思っていた。
でも一眼レフは少し格好いい。
写真家になりたいわけではない。
副業にならなくていい。
仕事にもつながらなくていい。
だから今まで、やる意味がないと思っていた。
初心者向け。
土曜日。
二時間。
体験。
参加費三千円。
来週、空きあり。
一二三はしばらく画面を見た。
「……これでいいのか?」
誰も答えない。
予約画面を開く。
名前。
メール。
決済。
最後に、
『予約を確定する』
のボタンが出る。
指が止まった。
三秒。
押した。
画面が切り替わる。
『ご予約ありがとうございました』
一二三はその文字を見る。
何も起きない。
部屋は同じ。
会社も辞めていない。
夢も見つかっていない。
人生も変わっていない。
ただ、来週の土曜日に二時間の写真教室へ行くことになった。
一二三は紙に書いた。
『会社を辞める前にやること』
その下へ、
『写真教室に行く』
と一行だけ足す。
「小さ」
自分で少し笑った。
でも、その文字は消さなかった。
退職届は隣に置いたままだ。
破らない。
出さない。
今はそれでいい。
友梨亜にメッセージを送る。
『一個決めた』
少しして返ってくる。
『何?』
『写真教室』
既読。
少し間がある。
『似合わない笑』
『うるさい』
『でもいいじゃん』
一二三は画面を見て、少し笑った。
『うん』
送った。
会社を辞めたい気持ちは消えていない。
明日になれば、また強くなるかもしれない。
来週、仕事で嫌なことが起これば、すぐに退職届を出したくなるかもしれない。
写真教室へ行っても、つまらないと思うかもしれない。
何も変わらないかもしれない。
それでも今日は、一つ決めた。
会社を辞めることではない。
会社を辞める前に、一つ始めることを。
一二三は退職届を引き出しに入れた。
捨てない。
出さない。
引き出しを閉める。
机の上には、
『写真教室に行く』
と書いた紙だけが残った。




