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10/10

第10話 とりあえず、明日

一二三は、写真教室の前で十分ほど立ち尽くしていた。


土曜日、午後一時五十分。


開始は二時。


場所は渋谷の雑居ビル三階。


初心者向けの体験教室で、時間は二時間。参加費は三千円。


予約も済んでいる。


キャンセル期限は昨日だった。


つまり、今ここで帰ったとしても金は戻らない。


「……帰ろうかな」


誰に言うでもなく呟いた。


入口には小さな看板が出ている。


『初心者写真教室』


怪しいわけではない。


むしろ普通だ。


だから余計に入りづらい。


一二三はスマホを見る。


十三時五十一分。


あと九分。


予約完了メールもある。


地図も合っている。


場所を間違えているわけでもない。


「何やってんだ俺」


会社を辞めたい。


その前に何か一つ始めてみる。


そう決めた結果が、写真教室だった。


なぜ写真なのか。


一二三自身にも、まだよく分かっていない。


昔、旅行先で風景を撮るのは嫌いではなかった。


スマホで何となく撮る。


それだけだ。


それが会社を辞めるかどうかと何の関係があるのかと聞かれたら、全く答えられない。


後ろから人が来た。


「すみません」


一二三は慌てて道を空ける。


二十代くらいの女性が、そのまま写真教室へ入っていった。


一人入った。


十三時五十三分。


次に五十代くらいの男性が入る。


十三時五十五分。


若い男も入った。


十三時五十七分。


一二三だけが、まだ外にいた。


「……バカみたいだな」


自分で予約した。


自分でここまで来た。


それなのに、入口で帰ろうとしている。


誰にも止められていない。


誰にも強制されていない。


会社のように上司もいない。


仕事の締切もない。


友梨亜もいない。


丞もいない。


全部、自分で決めればいい。


だから逆に難しかった。


十三時五十八分。


一二三はようやくドアを開けた。


「こんにちは」


中は思っていたより普通だった。


机と椅子。


壁には何枚か写真が飾られている。


カメラが並び、参加者が七人ほど座っていた。


四十代くらいの男性がこちらを見る。


講師らしい。


「こんにちは」


一二三も小さく頭を下げた。


「体験の山田山さんですか?」


「はい」


やっぱり名字で少し引っかかる。


「珍しい名字ですね」


「よく言われます」


案内された席へ座った。


隣には、先ほど入っていった五十代くらいの男性がいる。


男性から声をかけてきた。


「初めてですか?」


「はい」


「私もです」


「そうなんですか」


「定年後に何かやろうと思って」


一二三は少し驚いた。


「まだ定年前ですよね?」


男性は笑った。


「来年です」


「ああ」


「今から探してます」


一二三は少しだけ黙った。


来年定年になるから、その後に何かやるものを探している。


自分とは全然違う。


でも、少し似ている気もした。


教室が始まった。


講師がカメラの基本を説明していく。


光。


構図。


露出。


絞り。


シャッタースピード。


一二三は途中から思った。


難しい。


写真なんて、ボタンを押せば撮れるものだと思っていた。


数字も多い。


聞き慣れない言葉も多い。


少し眠くなりかけた頃、講師が言った。


「では、実際に外へ出て撮ってみましょう」


貸し出し用のカメラを受け取る。


思っていたより重い。


「好きなもの撮ってください」


一二三は少し笑いそうになった。


またそれだ。


好きなもの。


やりたいこと。


好きなもの。


最近、自分はそればかり聞かれている気がする。


外へ出る。


渋谷は相変わらず人が多かった。


参加者はそれぞれ好きな方向へ歩き出す。


花を撮る人。


建物を撮る人。


人。


看板。


空。


車。


一二三はカメラを構えた。


何を撮ればいいのか分からない。


とりあえずビルを撮る。


画面で確認する。


普通。


交差点を撮る。


普通。


空を撮る。


白い。


「うーん」


隣を見ると、さっきの男性が植え込みにカメラを向けていた。


楽しそうだ。


一二三は聞いた。


「何撮ってるんですか」


「葉っぱ」


「葉っぱ?」


「光が綺麗だったから」


一二三も見る。


ただの葉っぱにしか見えなかった。


でも、少し近づいてみる。


光が葉を透かしている。


言われてみれば、確かに少し綺麗だ。


「へえ」


一二三も同じ場所から撮ってみた。


出来上がった写真を見る。


男性の写真とは全然違う。


男性が画面を覗いた。


「いいじゃないですか」


「普通ですよ」


「最初は普通でしょ」


一二三は少し笑った。


「ですよね」


そこから、少しずつ何でも撮るようになった。


自転車。


犬。


店。


ビルの影。


信号。


窓。


ガラス。


水たまり。


何でもいい。


誰にも評価されない。


仕事でもない。


金にもならない。


何かの役に立つわけでもない。


意味なんてない。


それなのに、少し面白かった。


駅前で人の流れを眺めている時だった。


大勢が同じ方向へ歩いている。


その中で、一人だけ反対方向へ歩いている男がいた。


一二三は何となくシャッターを押した。


画面を見る。


「お」


少しだけ好きだった。


上手いかどうかは分からない。


でも、それまでに撮った写真よりいい気がする。


もう一枚撮った。


二時間は意外と早く終わった。


教室へ戻り、一人一枚ずつ写真を選ぶ。


講師が簡単にコメントをしてくれるらしい。


一二三は、人の流れの中を一人だけ逆方向へ歩いている男の写真を出した。


講師が少し画面を見る。


「面白いですね」


一二三は少し照れた。


「たまたまです」


「写真はたまたま多いですよ」


「そうなんですか」


「そのたまたまを見つけるのが面白いんです」


一二三はもう一度写真を見る。


たまたま目に入った。


何となく撮った。


でも最後に、その一枚を自分で選んだ。


授業が終わる。


アンケートと次回講座の案内を渡された。


一二三はその場では申し込まなかった。


まだそこまでではない。


外へ出る。


午後四時十五分。


一二三は渋谷の街を歩きながらスマホを開いた。


写真教室は終わった。


別に何も変わっていない。


月曜日には会社へ行く。


プロジェクトもある。


今井は多分また何かやる。


金田は理屈を言う。


友梨亜とのことも、どうなるか分からない。


退職届は家の引き出しに入ったままだ。


それでも、少しだけ気分がよかった。


スマホが震えた。


丞からだった。


『終わった?』


一二三は少し驚く。


『何で知ってる』


『前に聞いた』


『覚えてたのか』


『うん』


『終わった』


少しして、


『どうだった』


と来た。


一二三は考えた。


『まあまあ』


すぐに返信が来る。


『じゃあよかったじゃん』


一二三は笑った。


『何が』


『行ったんだろ』


一二三は画面を見た。


確かに行った。


それだけだ。


でも、それだけは事実だった。


『うん』


送った。


次に友梨亜とのトークを開く。


少し迷ってから、自分から送った。


『写真教室終わった』


少しして既読がつく。


『どうだった?』


『まあまあ』


すると、


『丞君にもそれ言ったでしょ』


と返ってきた。


一二三は止まった。


『何で分かる』


『一二三だから』


『怖』


『最近それ禁止』


一二三は笑った。


『今度写真見せて』


さっきの一枚を送った。


少し待つ。


『思ったよりちゃんとしてる』


『失礼だな』


『もっと斜めとか指入ってると思った』


『俺何歳だよ』


『30』


『知ってる』


続けて、


『32』


と来た。


一二三は止まった。


『私は』


少し笑う。


『知ってる』


『ならいい』


一二三はスマホを閉じた。


渋谷駅へ向かって歩く。


電車へ乗る直前、また友梨亜からメッセージが来た。


『私明日鎌倉』


『そうだった』


『忘れてた?』


『ちょっと』


『最悪』


『ごめん』


少し考えてから、一二三は送った。


『写真撮ってきてよ』


『スマホでね』


『それでいい』


『何撮ればいい?』


一二三の指が止まった。


数時間前、自分も同じことで困ったばかりだ。


『好きなもの』


送る。


『それが分かんない』


一二三は笑った。


『俺も今日言われた』


『で?』


『適当に撮った』


『じゃあ私もそうする』


『うん』


電車に乗り、町田へ帰った。


翌朝。


友梨亜は一人で電車に乗っていた。


鎌倉への日帰り旅行。


本人は一人旅と言い張っている。


普段から一人で電車に乗ること自体は珍しくない。


仕事でも使う。


買い物にも行く。


でも、一人で遊びに行くというだけで妙に落ち着かなかった。


何度かスマホを見る。


一二三とのトークを開く。


何も来ていない。


以前なら、


今どこ?


何してる?


と自分から聞いていた。


今日は逆に、聞かれていない側だった。


少し寂しい。


でも、少し楽でもある。


鎌倉に着く。


「全然一人じゃないじゃん」


思わず呟いた。


観光客。


家族。


カップル。


友達同士。


そして、一人で歩いている人も意外といる。


友梨亜は歩き出した。


鶴岡八幡宮。


小町通り。


食べる。


見る。


買う。


途中で何度も、


一二三がいたら。


と思う。


これ好きそう。


これ食べそう。


この店は嫌がりそう。


一人になったからといって、一二三を考えなくなるわけではなかった。


当たり前だ。


ただ今日は、そのたびに自分にも聞いてみた。


私はどうしたい。


これ、食べたい?


見たい?


行きたい?


それだけだった。


昼。


一人で店へ入る。


少し緊張した。


でも座ってしまえば普通だった。


誰も自分を見ていない。


「そりゃそうか」


料理が来る。


スマホを出して写真を撮る。


いつもの癖で、すぐ一二三へ送ろうとした。


少し止まる。


先に一口食べた。


「美味しい」


そのあとで送る。


『昼』


写真を添える。


一二三から返ってきた。


『うまそう』


『美味しい』


『俺も行きたい』


友梨亜は少し笑った。


『今度行けば』


すぐ返ってくる。


『一緒に?』


友梨亜の指が止まった。


以前なら、この一言からいろいろな意味を探していたかもしれない。


今度。


一緒。


未来。


約束。


結婚。


全部つなげようとしたかもしれない。


今日はただ、


『いいよ』


と送った。


『じゃあ今度』


『うん』


それだけだった。


午後は海へ行った。


風が強く、髪が邪魔だった。


それでもスマホを出す。


海。


空。


人。


犬。


靴。


砂。


一二三に言われた。


好きなもの。


何が好きなのだろう。


友梨亜は少し考えた。


海は嫌いではない。


甘いものは好き。


仕事も嫌いではない。


一人でいることも、思っていたより嫌いではなかった。


一二三のことも好きだ。


多分、今も。


でも、その一つだけで人生全部を決めなくてもいい。


友梨亜は海をもう一枚撮った。


月曜日。


午前八時四十三分。


新橋。


一二三はいつものように会社へ来た。


受付で花恋が声をかける。


「おはようございます!」


「おはよう」


花恋は一二三をじっと見る。


「辞めてない」


一二三は止まった。


「何が」


「会社」


「朝から縁起悪いな」


横から深音が言った。


「花恋」


「何」


「お客様いる」


「はい」


一二三はエレベーターへ向かった。


上へ着くと、今井が走ってくる。


「山田山さん!」


「嫌な予感」


「今日僕すごいですよ!」


「何が」


「昨日、資料全部確認しました!」


「昨日?」


「家で!」


「休日に?」


「はい!」


一二三は少し呆れる。


「やるなとは言わないけど、無理すんなよ」


「大丈夫です!」


「で」


「はい!」


「何かミスした?」


今井が止まる。


「……まだ」


「まだって言うな」


「一個だけ」


「あるんじゃん」


「数字」


「どこ」


二人で席へ向かった。


パソコンを開く。


仕事が始まる。


九時の朝礼で、金田がプロジェクトの進捗について話した。


一二三は普通に聞いている。


退職届は出していない。


金田も何も言わなかった。


朝礼が終わると、金田が一二三の席へ来た。


「山田山君」


「はい」


「先週の件」


一二三は少し止まる。


「退職届?」


「はい」


近くにいた今井の耳が、明らかにこちらへ向いた。


一二三は今井を見る。


「仕事しろ」


「してます!」


金田が聞く。


「結論は」


一二三は少し考えた。


「まだ」


「そうですか」


「怒らないんですか」


「何を」


「結局まだって」


「退職は、期限を決めて考えなければならないものではありません」


「意外」


「ただし」


「はい」


「プロジェクト途中で突然は困ります」


「そこですよね」


「当然です」


一二三は少し笑った。


「課長」


「はい」


「写真教室行ってきました」


金田が一瞬止まった。


「……なぜ私に」


一二三も笑う。


「いや」


「退職と関係が?」


「多分ないです」


「ではなぜ」


「俺にも分かんないです」


金田は少し呆れた顔をした。


「楽しかったのですか」


「まあまあ」


「なら良かったのでは」


一二三は笑った。


「それ、みんな言うな」


「事実なので」


金田はそのまま去っていった。


今井がすぐに寄ってくる。


「写真教室行ったんですか!」


「聞いてたの?」


「聞こえました!」


「盗み聞きだろ」


「写真見せてください!」


一二三はスマホを出して、例の写真を見せた。


今井が目を見開く。


「おお!」


「どう」


「エモいです!」


「エモい?」


「分かんないですけど!」


「分かんないのに言うな」


今井は楽しそうに言った。


「僕も何か始めようかな」


「お前はまず仕事覚えろ」


「それも始めてます!」


「入社した時からな」


昼休み。


一二三は一人でスマホを見ていた。


友梨亜から送られてきた鎌倉の写真。


海。


食事。


寺。


猫。


最後に、砂浜に落ちる一人分の影。


一二三はしばらくその写真を見る。


そこに自分はいない。


当たり前だ。


でも、何となくそれが少し良かった。


友梨亜には友梨亜の一日がある。


自分には自分の一日がある。


その上で会う。


以前より、少しだけ分かった気がした。


スマホが震える。


丞からだった。


『立花さんからまた誘われた』


一二三は笑う。


『行けば』


『今度水族館』


『デートじゃん』


少しして、


『違う』


と返ってきた。


『何で』


『付き合ってない』


一二三は返す。


『付き合ってなくてもデートはする』


既読。


しばらく返ってこない。


ようやく、


『そうなの?』


と来た。


一二三は机に突っ伏しそうになった。


『31年間何してたんだよ』


『普通に生活』


『行くの?』


『多分』


『嫌?』


少し間がある。


『嫌ではない』


一二三は笑った。


『じゃあ行け』


『うん』


それだけだった。


昼休み。


六花は友梨亜の隣でスマホを見ていた。


「来た!」


友梨亜が聞く。


「何が」


「水族館!」


「決まった?」


「はい!」


六花は画面を見せる。


『土曜日なら空いてます』


友梨亜は頷いた。


「良かったじゃん」


六花は嬉しそうだった。


「これデートですよね?」


「知らない」


「え」


「本人に聞けば」


「無理ですよ!」


「何で」


「デートですかって聞いて、違いますって言われたら死ぬ」


友梨亜は笑った。


「六花でもそういうの気にするんだ」


「しますよ!」


「意外」


「私何だと思ってるんですか」


「勢い」


「人間です!」


二人で笑った。


六花が聞く。


「鎌倉どうでした?」


「楽しかった」


「一人で?」


「うん」


「寂しくなかった?」


友梨亜は少し考えた。


「ちょっと」


「やっぱり」


「でも、一人も悪くなかった」


六花が感心したように言う。


「大人」


「何が」


「私まだ無理かも」


「六花は今、一人になる練習しなくていいでしょ」


「友梨亜さんは?」


「練習じゃない」


「じゃあ何」


友梨亜は少し笑った。


「知らない」


六花が言う。


「最近それ多くないですか」


「楽なんだよね」


「知らないが?」


「うん」


友梨亜は少し考える。


「前はさ」


「はい」


「分かんないことが怖かったんだけど」


「はい」


「今は、分かんないなら分かんないでいいかなって」


六花が聞いた。


「結婚も?」


友梨亜は少し止まった。


「そこは、そのうち決める」


「いつ」


「知らない」


六花が笑った。


「最強じゃん」


午後。


結は社長室で資料を整理していた。


「椿さん」


「はい」


「この前の男」


結が顔を上げる。


「何で覚えてるんですか」


「どうだった」


「ダメでした」


「ああ」


「反応薄」


「予想通り」


「失礼」


社長は資料をめくりながら聞いた。


「次は?」


「今のところないです」


「珍しい」


「少し休みます」


「男を?」


「男を」


「何日」


結は笑った。


「そこまで短くないです」


「一ヶ月?」


「知らない」


社長が顔を上げる。


「椿さんが知らないって言った」


「言いますよ」


「最近多くない?」


結は少し笑った。


「流行ってるんです」


「社内?」


「私の中で」


「じゃあ仕事はちゃんと知ってて」


「そこは知ってます」


「ならいい」


結は資料を渡した。


普通に仕事は続いていく。


金曜日の夜。


一二三と友梨亜は町田のいつもの居酒屋で向かい合っていた。


付き合ってもうすぐ一年。


今日は会社のこと。


結婚のこと。


これからのこと。


少し大きな話をするつもりだった。


なのに最初に話したのは、丞と六花のことだった。


「水族館行くらしいよ」


一二三が言う。


「聞いた」


「タスク、デートか分かってなかった」


「六花は完全にデートのつもり」


「終わったな」


「何が」


「あいつ」


友梨亜が少し笑う。


「始まったんじゃない?」


一二三も少し笑った。


「そうかも」


料理が来る。


二人で食べる。


しばらくはどうでもいい話をした。


今井がまた間違えた。


花恋が受付で何か忘れ、深音が助けた。


金田が子どもにゲームで負けた。


友梨亜の仕事。


六花。


結。


普通の話。


少しして、友梨亜が聞いた。


「会社」


一二三の箸が止まる。


「うん」


「どうするの」


一二三は少し考えた。


「今は辞めない」


友梨亜の顔が少し変わった。


「今は?」


「うん」


「決めたの?」


「まあ」


「写真教室で?」


一二三は笑った。


「そんな単純じゃないよ」


「じゃあ何」


一二三は少し言葉を探した。


「辞めても、何か始まるわけじゃないって、やっと分かった」


友梨亜は黙って聞いている。


「会社嫌いじゃないし」


「うん」


「仕事も、たまに楽しいし」


「うん」


「今井面倒だけど」


「うん」


「課長も面倒だけど」


「うん」


「それで」


一二三は少し迷った。


「別に」


友梨亜がすぐ言う。


「その別に嫌い」


一二三は笑った。


「じゃあ、会社にいながら他のことやってみようかなって」


「写真?」


「それも」


「他は」


「まだない」


友梨亜が頷く。


「そっか」


一二三が聞く。


「そのそっかは?」


友梨亜は少し笑った。


「普通のそっか」


「ならいい」


一二三は飲み物を一口飲んだ。


「退職届、捨ててない」


友梨亜が少し止まる。


「何で」


「また辞めたくなるかもしれない」


「保険?」


「多分」


「それでいいんじゃない」


一二三が聞く。


「いいの?」


友梨亜はすぐ返した。


「私に聞かないで」


一二三は笑った。


「そうだった」


少し静かになる。


今度は一二三から言った。


「結婚」


友梨亜の箸が止まる。


二人で少し見つめ合った。


「俺、まだ今すぐしたいとか、何歳までにとか、全然分かんない」


「うん」


「でも、友梨亜とこの先もいたいとは思ってる」


友梨亜は黙った。


一二三が聞く。


「それじゃダメ?」


友梨亜は少し目を逸らして笑った。


「前ならダメって言ったかも」


「今は?」


「今は、私もそれくらい」


一二三は少し驚く。


「結婚したくない?」


「違う」


「じゃあ」


「したいかもしれない」


「かもしれない?」


「うん」


一二三が笑う。


「お前も曖昧じゃん」


「一二三に言われたくない」


二人で笑った。


友梨亜が続ける。


「一二三が結婚するって言えば、全部安心すると思ってた」


「うん」


「でも多分、しない」


「何が」


「安心」


一二三は少し考える。


「まあ、俺が言っても信用なさそう」


「あるよ」


「あるんだ」


「少し」


「少し?」


「今は」


「仕返し?」


「違う」


一二三は少し笑った。


「じゃあ、別れない?」


友梨亜はすぐに答えた。


「別れない」


一二三の顔に少し安心が出た。


友梨亜が気づく。


「何その顔」


「いや」


「安心した?」


「ちょっと」


「私も」


二人は少し黙った。


結婚は決まっていない。


別れるとも決めていない。


会社は今のところ辞めない。


でも、永遠に残るとも決めていない。


何もはっきりしていない。


それでも、以前よりは少し話せた。


「来週」


一二三が言う。


「何」


「また写真教室あるんだよね」


「行くの?」


「迷ってる」


「行けば」


「軽いな」


「嫌なら行かなきゃいい」


「タスクみたい」


「嫌」


「みんな嫌がるな」


友梨亜は笑った。


「でも、行きたいんでしょ」


一二三は少し考えた。


「ちょっと」


「じゃあ行けば」


「予約するか」


「今?」


一二三はスマホを出した。


「今」


友梨亜が少し笑う。


次回の初心者向け街歩き講座。


空きがある。


一二三は予約ボタンを押した。


「早」


「気変わるから」


「自分で分かってるんだ」


「最近」


予約完了。


スマホを置く。


「できた」


友梨亜が言う。


「おめでとう」


「大げさ」


「いいじゃん」


一二三は少し笑った。


「うん」


土曜日。


丞は水族館の入口に十五分前から立っていた。


六花はまだ来ない。


スマホを見る。


『今向かってます!』


五分前。


まだ来ない。


少し落ち着かない。


一瞬、帰るという選択肢も頭に浮かんだ。


でも待った。


約束の時間を一分過ぎたところで、六花が走ってきた。


「すみません!」


「遅いです」


「一分!」


「遅刻は遅刻」


「厳しい!」


六花は息を切らしていた。


丞が少し笑う。


六花が気づいた。


「今笑いました?」


「笑ってません」


「笑った!」


「行きますよ」


「誤魔化した」


二人で中へ入る。


六花は少しだけ丞の横へ近づいた。


丞は気づいた。


でも、離れなかった。


日曜日の夕方。


結は家のソファに座っていた。


息子はゲーム。


娘はスマホ。


珍しく予定のない日だった。


「母さん」


娘が言う。


「何」


「今日暇?」


「暇」


息子が言った。


「珍しい」


「失礼」


娘が続ける。


「三人でご飯行かない?」


結は少し驚いた。


「何食べる」


息子。


「焼肉」


娘。


「寿司」


「バラバラ」


息子が言う。


「母さん決めて」


結は少し考えた。


「……餃子」


二人が同時に言う。


「なんで」


結は笑った。


「食べたいから」


娘がすぐ答える。


「じゃあ餃子」


息子も言う。


「いいよ」


結は立ち上がってバッグを持った。


「行こ」


普通の日曜日。


それでいい。


月曜日の朝。


一二三は町田駅のホームに立っていた。


電車は三分遅れている。


スマホを見る。


ニュース。


メール。


会社。


友梨亜とのトークは、昨夜の、


『おやすみ』


で終わっていた。


一二三は何となく、


『おはよう』


と送った。


すぐ既読がつく。


『おはよう』


それだけ。


スマホを閉じる。


電車が来る。


乗る。


新橋へ向かう。


今日も会社だ。


プロジェクトの打ち合わせがある。


今井は多分何か忘れる。


金田は多分詰めてくる。


花恋は多分また何か忘れる。


深音は多分それを助ける。


いつもと同じだ。


でも、今週末には写真教室がある。


来月どうしているかは分からない。


半年後なら、もっと分からない。


会社を辞めているかもしれない。


まだ残っているかもしれない。


友梨亜と結婚している。


それは多分ない。


別れているかもしれない。


まだ一緒にいるかもしれない。


何者かになっているか。


多分、なっていない。


一二三は以前、自分が何度も思っていたことを思い出した。


このまま四十歳になる。


このまま五十歳になる。


それが怖かった。


何も変わらない。


ずっと同じ。


そんな気がしていた。


でも今は、少しだけ違う気がする。


同じ会社へ、同じ電車で向かっている。


それでも、昨日とまったく同じ日ではない。


自分は写真を撮った。


友梨亜は一人で鎌倉へ行った。


丞は、多分以前なら行かなかった水族館へ行った。


六花は助けてくれた人を間違え、その間違いの先で別の何かを始めた。


結は相変わらず男を見る目がなかった。


今井は今日も多分ミスをする。


大きなことは何も変わっていない。


それでも、少しずつ昨日とは違う。


新橋に着く。


一二三は人の流れに乗って会社へ向かった。


途中で、写真教室で言われた言葉を思い出す。


好きなものを撮る。


一二三はスマホを出した。


朝の新橋。


会社員。


信号。


ビル。


空。


毎日見ている景色。


一枚撮る。


普通だった。


何の変哲もない。


それでも削除せず保存した。


会社の入口で、スマホのメモを開く。


『やりたいこと』


以前は空白だった。


そこへ一つ書く。


『写真をもう少しやってみる』


少し考えて、もう一つ。


『知らない場所に一人で行く』


さらにその下へ、


『会社を辞める』


と書こうとした。


一二三は指を止めた。


少し考え、代わりに書いた。


『会社を辞めたい理由をちゃんと考える』


三行になった。


「地味」


小さく笑う。


でも、前は何もなかった。


今は三つある。


エレベーターに乗る。


扉が閉まる。


一二三はスマホをポケットへ入れた。


人生は多分、この先も分からない。


仕事。


恋愛。


結婚。


金。


夢。


やりたいこと。


全部、また迷う。


そして多分また、


「何か違う」


と思う日が来る。


また会社を辞めたいと言うかもしれない。


友梨亜を面倒くさいと思う日もあるだろう。


友梨亜だって一二三に腹を立てる。


丞は六花に疲れる。


六花はまた何かやらかす。


結は三人目の変な男を捕まえるかもしれない。


別にいい。


その時、また考えればいい。


エレベーターの扉が開く。


目の前に今井がいた。


「山田山さん!」


「朝から嫌な予感」


「聞いてください!」


「嫌」


「大変なんです!」


「何した」


「まだ何もしてません!」


一二三は笑った。


「その台詞、前も聞いた」


「今回は本当です!」


「で?」


今井が資料を出した。


一二三は歩きながら見る。


仕事が始まる。


いつもの月曜日。


一二三は会社を辞めなかった。


夢も見つからなかった。


結婚も決めなかった。


何者にもなっていない。


ただ、来週には少しだけ楽しみな予定がある。


それくらいなら、悪くない。


一二三は今井の資料を見ながら言った。


「ここ数字違う」


「え!?」


「あとこれ」


「はい!」


「先に直して」


「分かりました!」


「今日中」


「はい!」


今井が走っていく。


一二三は席に座り、パソコンを開いた。


月曜日、午前九時十二分。


いつもの仕事。


いつもの会社。


いつもの自分。


それでも、昨日までとまったく同じではない。


一二三は少し笑った。


「まあ」


誰にも聞こえないくらいの声で呟く。


「とりあえず、明日でいいか」


そして仕事を始めた。


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