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6/10

第6話 32歳

友梨亜は、自分が面倒くさい女になっている自覚があった。


自覚があるだけ、まだマシだと思っている。


けれど、自分で分かっているからといって、簡単にやめられるわけでもない。


土曜日、午後五時四十六分。


友梨亜は鏡の前に立っていた。


服を変えるのは、これで三回目だった。


「……違うな」


一度脱いで、また別の服を着る。


今日は一二三と六花、それに丞を交えた四人で食事をするだけだ。


デートではない。


一二三とはもう付き合っているし、六花は会社の後輩。丞は一二三の幼馴染だ。


何も気にする必要はない。


それなのに、なぜか少しだけ気合いが入っている。


クローゼットの前で、また迷う。


若すぎる服は嫌だ。


頑張っているように見えるのも嫌。


仕事帰りのような格好も違うし、無難すぎるのも嫌だった。


「何してんだろ」


思わず声に出したところで、スマホが鳴った。


六花からだった。


『着きました!』


「早」


待ち合わせは六時半だ。


まだ四十分以上ある。


『早すぎ』


送ると、すぐに返ってきた。


『二階堂さんもういるかもしれないじゃないですか』


友梨亜は画面を見た。


『いないでしょ』


『運命ならいます』


『運命使いすぎ』


『一回しか使ってません笑』


少し笑った。


六花は本当に分かりやすい。


助けてもらったと思っている。


顔が好み。


しかも一二三の幼馴染。


今は、それだけで十分楽しいらしい。


「いいな」


ぽつりと口から出た。


何がいいのだろう。


まだ好きかどうかも分からない相手に勝手に期待して、勝手に浮かれて、それ自体を楽しめること。


たぶん、それが羨ましい。


自分にもそういう時期はあった。


連絡が来るだけで嬉しかった。


次に会う日を考え、その日の服を選び、店を探し、脈がありそうか友達に聞いた。


付き合う前は、答えが決まっていないことが楽しかった。


今は逆だ。


答えが決まっていないことが怖い。


友梨亜は鏡に映る自分を見た。


三十二歳。


見た目が急に悪くなったわけではないと思う。


仕事にも困っていない。


生活だってできている。


彼氏もいる。


大きく崩れているものは何もないはずなのに、なぜか最近、自分の足元だけがぐらぐらしているような感覚があった。


六時二十一分。


店に着くと、案の定、六花はもういた。


一人で。


「遅いです!」


「まだ時間前」


「私四十分待ちました」


「勝手に来たんでしょ」


「そうですけど」


「二階堂さんは?」


「まだです」


「ほら」


「友梨亜さん」


「何」


「今日ちょっと綺麗ですね」


友梨亜は眉を寄せた。


「今日ちょっと?」


「あ」


六花が笑う。


「今日も」


「遅い」


「今日も綺麗です!」


「雑」


友梨亜は席についた。


六花はそれから何度も入口を見る。


「落ち着きなさいよ」


「落ち着いてますよ」


「三十秒に一回入口見てる」


「数えてたんですか」


「暇だから」


数分後。


入口に一二三が現れた。


その隣には丞がいる。


六花の姿勢が目に見えて変わった。


「来た!」


「声」


友梨亜が小声で注意する。


一二三が片手を上げた。


「お待たせ」


「遅いです!」


六花が言う。


「まだ六時半前ですよ」


「私は一時間前からいます」


「それ俺ら関係ないですよね」


「正論やめてください」


一二三の隣で、丞が軽く会釈した。


「こんばんは」


「こんばんは!」


六花だけがやたら明るい。


友梨亜はその様子を見て、少し笑った。


丞が友梨亜を見る。


「初めまして」


「初めまして。広畑です」


「二階堂です」


「一二三から聞いてます」


丞がすぐに一二三を見た。


「何を」


「別に変なこと言ってないよ」


「何を言った」


「クールでモテるって」


丞の顔が露骨に嫌そうになる。


「違う」


六花がすぐに乗ってきた。


「分かります! モテそうです!」


「違います」


「いや、絶対モテますよ」


「モテません」


「彼女いないんですよね?」


丞が止まった。


一二三が水を飲みながら笑っている。


「ヒフミ」


「俺何も言ってない」


「顔が笑ってる」


「だって早いんだもん」


友梨亜は六花を見る。


「六花」


「はい」


「いきなり彼女いるか聞く?」


「だってもう知ってます」


「何で」


六花が一二三を指した。


「一二三さん」


友梨亜は一二三を見る。


一二三の動きが止まる。


「いや」


「言ったんだ」


「話の流れで」


「何の流れで?」


「いや」


「私の後輩に幼馴染の女性経験まで話す流れって何?」


丞が一二三を見る。


「女性経験?」


「そこまで言ってない!」


一二三が慌てた。


六花が口を挟む。


「え、ないんですか?」


丞、完全停止。


友梨亜は額を押さえた。


「六花!」


「すみません!」


一二三は笑いを堪えている。


丞は本気で帰りそうだった。


「タスク」


「帰る」


「まだ始まってない」


「帰る」


「ごめんって」


「ヒフミが悪い」


「俺そんな情報出してないって」


「じゃあ何で知ってる」


「知らないよ!」


六花が手を挙げた。


「あの」


全員が六花を見る。


「私が勝手に聞きました」


「何を?」


友梨亜が聞く。


「一二三さんに」


「いつ?」


「この前」


「何で?」


「いや、二階堂さんのこと知りたくて」


丞は目を閉じた。


一二三は肩を震わせている。


「笑うな」


「ごめん」


「絶対面白がってる」


「面白い」


「認めるな」


友梨亜も思わず笑った。


それでようやく、四人の間にあった妙な緊張が少しほどけた。


食事が始まると、六花はほとんど丞に話しかけ続けた。


丞は短く返す。


一二三はそれを見て笑う。


友梨亜は時々、行きすぎた六花を止める。


そんなことを繰り返しているだけなのに、意外と楽しかった。


「二階堂さんって休みの日何してるんですか?」


「特に」


「それ禁止です」


「何が」


「特にない、禁止」


丞が困る。


一二三が横から言った。


「ゲームとかするよ」


「何のゲームですか?」


丞は一二三を見る。


「俺に聞くな」


一二三も呆れる。


「いや、お前が答えろよ」


「何でも」


六花が即座に言った。


「何でもも禁止です」


「難しい」


「会話ですよ!」


「難しいです」


「認めた!」


六花は笑った。


丞は困っている。


それでも、本気で嫌そうには見えなかった。


少なくとも丞は、本当に嫌な時にはもっと黙るのだろう。


一二三も、それが分かっているようだった。


友梨亜は二人を眺めた。


少し、いいかもしれない。


六花は丞くらい止まって考える人間と一緒にいた方が、一度立ち止まれるのかもしれない。


逆に丞は、六花くらい勢いのある人間に外へ引っ張られた方がいいのかもしれない。


勝手な話ではある。


でも、そんな気がした。


「友梨亜?」


一二三の声で我に返った。


「え?」


「聞いてた?」


「何を?」


「来週」


「来週?」


「俺、プロジェクトでちょっと忙しくなるかも」


「ああ」


友梨亜は水を飲んだ。


「そうなんだ」


「うん」


「土日は?」


「まだ分かんない」


その言葉が、少しだけ引っかかった。


最近、一二三からよく聞く言葉だ。


何時まで?


まだ分からない。


結婚は?


まだ分からない。


会社は?


まだ分からない。


来週は?


まだ分からない。


一二三は、何も決めない。


「忙しいんですね」


六花が言った。


「急にプロジェクトリーダーになったから」


一二三が答える。


「すごいじゃないですか」


「別に」


「出世?」


「そんな大したもんじゃない」


「でも頼られてるんですよね?」


「どうだろ」


「一二三さんって仕事できるんですね」


「意外そうに言うな」


友梨亜は一二三を見る。


一二三が仕事のできる人間なのは知っている。


本人はあまり会社の話をしないが、それでも評価されていることくらいは何となく分かっていた。


だから余計に理解できない。


なぜ、辞めたいのだろう。


一二三が会社を辞めたいらしいことを友梨亜が知ったのは、数日前だった。


ちゃんと相談されたわけではない。


一二三が何気なく、


『そういえば俺、会社辞めるかも』


と言っただけだった。


その時は友梨亜も、


『また言ってる』


と笑って流した。


一二三も笑っていた。


けれど、どうやら少し本気らしい。


それが怖かった。


会社を辞める。


でも、その次に何をするのかは分からない。


結婚についても分からない。


自分との未来も分からない。


一二三だけがどこかへ行こうとしているように見えるのに、その行き先は本人にも分かっていない。


そのくせ、自分には待っていてほしい。


友梨亜には、そんなふうに見えてしまう。


「友梨亜さん」


六花に呼ばれた。


「何?」


「ぼーっとしてますよ」


「してない」


「してました」


一二三も友梨亜を見る。


「大丈夫?」


その言葉は優しかった。


だからこそ、少し腹が立った。


「大丈夫」


友梨亜はそう答えた。


それから二時間ほど、四人で食事をした。


店を出ると、六花は当然のように丞の横にいた。


「二階堂さん、もう一軒行きません?」


「え」


「お茶でも」


「いや」


「用事あります?」


「ないです」


「じゃあ行きましょう」


「でも」


一二三が丞の肩を叩いた。


「行ってこい」


「ヒフミ」


「俺ら帰るから」


友梨亜も少し笑った。


「行ってくれば?」


丞は友梨亜を見る。


明らかに助けを求めていた。


「六花、ほどほどにね」


「分かってます!」


一番信用できない返事だった。


六花はそのまま丞を連れていった。


「じゃあまた!」


「おやすみー」


二人が人混みの中へ消える。


残ったのは一二三と友梨亜だった。


一二三が笑う。


「タスク終わったな」


「何が」


「完全に捕まってる」


「嫌なら断るでしょ」


「断れないんだよ、あいつ」


「あなたと似てるね」


一二三の顔が少し止まった。


「俺?」


「うん」


「どこが」


「嫌でもはっきり言わない」


「俺は言うよ」


「そう?」


友梨亜は歩き出した。


一二三が隣に並ぶ。


「今日どうする?」


「何が」


「この後」


「帰る」


「俺ん家来る?」


一瞬、嬉しかった。


その直後、急に気持ちが冷めた。


「いい」


「なんで」


「明日用事あるし」


「そっか」


また。


そっか。


友梨亜は少しだけ歩く速度を上げた。


一二三も合わせる。


「友梨亜」


「何」


「この前の話」


心臓が少し速くなる。


「何?」


分かっているのに聞いた。


「結婚の」


友梨亜は前を向いたまま言った。


「今する?」


「いや」


一二三が少し言葉に詰まる。


「嫌なら別に」


また、それ。


友梨亜の中で、何かが小さく切れた。


「何でそうなるの?」


一二三が驚いた。


「え」


「話そうって言ったのそっちでしょ」


「うん」


「なのに、嫌なら別にって何?」


「いや、今したくないのかなって」


「誰が言ったの」


「だって」


「私、何も言ってないよね」


一二三は黙った。


自分の声が少し強くなっているのが分かる。


ここでやめたい。


止めた方がいい。


それなのに、止まらなかった。


「一二三ってさ」


「うん」


「何でも私に決めさせるよね」


「そんなことないだろ」


「あるよ」


「何が」


「会う?」


「うん」


「どこ行く?」


「うん」


「何食べる?」


「うん」


「いつ結婚する?」


「いや、それは」


「全部、私が言ったら考えるの?」


「そういう意味じゃ」


「じゃあ一二三は何したいの?」


一二三が黙った。


その沈黙を、友梨亜は聞きたくなかった。


「会社辞めたいんでしょ」


「……うん」


「辞めて何するの?」


「それはまだ」


「またそれ」


「今探してる」


「いつ見つかるの?」


「分かんないよ」


「じゃあその間、私は?」


一二三の顔が変わった。


「何でそうなるんだよ」


友梨亜自身、論理が飛んでいるのは分かっていた。


会社を辞める話と、自分たちの話は本来別だ。


でも自分の中では、全部つながっている。


「一二三が何したいか分からないなら」


「うん」


「私とのことも分からないんでしょ」


「だから、そういう話をしようって」


「何を話すの?」


一二三が少し苛立った顔をした。


「それを今から話すんだろ」


「じゃあ言って」


「何を」


「私と結婚したい?」


直球だった。


一二三は黙った。


駅前を人が通り過ぎていく。


笑い声が聞こえる。


車が走り、信号が変わる。


その中で、一二三だけが何も言わなかった。


三秒。


五秒。


十秒。


友梨亜には長すぎた。


「……分かんない」


一二三が言った。


友梨亜は少し笑った。


「やっぱり」


「いや」


「いいよ」


「待って」


「何が?」


「今すぐ結婚したいかって言われたら分かんないってだけで」


「私、今すぐって言ってない」


「じゃあ」


「いつか」


「それも……」


一二三が言葉を探している。


友梨亜は待った。


待ちたくなかった。


でも、待った。


「考えてないわけじゃない」


一二三が言った。


最低の答えだと思った。


悪気がないのは分かっている。


「それ、考えてないのと同じだよ」


「なんで」


「じゃあ何考えたの?」


一二三はまた黙った。


友梨亜は目を逸らした。


泣きたくない。


絶対に、ここでは泣きたくない。


「友梨亜」


「何」


「俺、別に別れたいわけじゃないよ」


その言葉は、今一番聞きたくないものだった。


「それ」


「何」


「ずるいよ」


「何が」


「別れたいわけじゃないって」


「事実だろ」


「じゃあ一緒にいたいの?」


「いたいよ」


「何で?」


「何でって」


「好きだから?」


「好きだよ」


友梨亜は一二三を見る。


「じゃあ何でそんなに迷うの?」


一二三も少し声が強くなった。


「好きだから結婚って簡単じゃないだろ」


「分かってるよ!」


「じゃあなんで今答え求めるんだよ」


「今じゃない!」


「じゃあいつだよ」


「それを聞いてるの!」


二人とも黙った。


最悪。


六花たちと楽しく食事をして、そのまま普通に帰ればよかった。


それなのに、結局こうなる。


「ごめん」


一二三が言った。


その言葉にも腹が立った。


「何に謝ってるの」


「いや」


「分かんないなら謝らないで」


「じゃあどうすればいいんだよ」


「知らないよ!」


言った直後、自分で気づいた。


一二三と同じだ。


自分だって知らない。


どうしてほしいのか分からない。


今すぐ結婚してほしいのか。


違う。


将来の約束をしてほしいのか。


では、いつまでに?


分からない。


ただ安心したい。


それだけだ。


でも、何を言われたら安心できるのかさえ分からなかった。


「ごめん」


今度は友梨亜が言った。


一二三は何も言わなかった。


「今日は帰る」


「送るよ」


「大丈夫」


「でも」


「一人で帰れる」


「そういう意味じゃ」


「今日は一人で帰りたい」


一二三は止まった。


そして、


「分かった」


と言った。


それにも少し腹が立った。


でも、もう何も言わなかった。


友梨亜は駅へ向かう。


一二三は追ってこなかった。


電車では座ることができた。


スマホを見る。


メッセージは来ていない。


当然だ。


自分から「一人で帰りたい」と言ったのだから。


それでも少し寂しい。


「最悪」


小さく呟いた。


一二三とのトーク画面を開く。


これまでのやり取りが大量に残っている。


何食べる。


今帰る。


着いた。


おやすみ。


今日寒い。


これ買って。


この店行こう。


どうでもいいメッセージばかりだ。


ずっと遡っていくと、一年前、付き合い始めた頃のやり取りが出てきた。


『今日は楽しかった』


『俺も』


『また行こう』


『来週空いてる』


『土曜なら』


『じゃあ土曜』


簡単だった。


今は、一つの言葉の裏にいくつもの意味を探している。


そうしているのは自分だ。


友梨亜は一二三のプロフィールを開いた。


SNSはほとんど更新されていない。


友達も多くない。


女性の影もない。


浮気を疑っているわけではない。


何もないことは分かっている。


それでもフォロー欄を見て、過去の写真を見た。


何を探しているのか、自分でも分からない。


「何探してんの」


自分に聞いてみても、答えはない。


一度スマホを閉じる。


数分後、また開いた。


一二三がいつアプリを使ったのか確認しようとする。


表示されない。


今度はメッセージアプリを開いた。


『さっきはごめん』


と打つ。


消す。


『ちゃんと話したかっただけ』


それも消した。


『もう寝るね』


まだ早い。


これも消した。


結局、何も送らないまま家に着いた。


靴を脱ぎ、バッグを置く。


部屋は静かだった。


今日は、その静かさが嫌だった。


テレビをつける。


何の番組でもいい。


音さえあればよかった。


服を着替え、化粧を落とす。


鏡を見ると、少し目が赤かった。


泣いてはいない。


ぎりぎり。


その時、スマホに通知が来た。


一二三だった。


友梨亜はすぐには開かなかった。


一分。


二分。


ようやく開く。


『今日はごめん』


それだけだった。


友梨亜は画面を見た。


謝ってほしかったわけではない。


でも何も来ないよりはよかった。


『私もごめん』


送ると、すぐに既読がついた。


それから数分。


何も来ない。


友梨亜は待った。


自分でも笑えてくる。


謝った。


向こうも謝った。


それで終わりでいい。


なのに、次の言葉を待っている。


十分。


何もない。


二十分。


何もない。


友梨亜はスマホを伏せた。


「寝よう」


まだ十時半だった。


早い。


それでも寝たかった。


今日はもう全部止めたかった。


ベッドに入る。


けれど眠れない。


考えるのをやめたいのに、頭だけは動き続けた。


一二三は会社を辞めたい。


辞めたあと何をするかは分からない。


自分は三十二歳。


結婚したいのか分からない。


子どもが欲しいか。


分からない。


今の仕事を続けたいか。


たぶん続けたい。


一人でいるのは嫌か。


時々嫌だ。


一二三のことは好きか。


好きだ。


では、一二三と結婚したいのか。


分からない。


友梨亜は暗い部屋で目を開けた。


「私もじゃん」


声に出した。


今日、一二三に怒ったことは、ほとんど全部自分にも当てはまる。


一二三は、自分の人生を決められない。


友梨亜は、自分が結婚したいのか決められない。


違うのは、自分は相手に先に決めてもらおうとしていることだった。


一二三が先に答えを出してくれれば、その答えに乗ることができる。


もし、


「結婚しよう」


と言われれば、きっと安心する。


自分が本当に結婚したいかどうかがまだ分からなくても、「選ばれた」という事実だけで安心できる。


逆に、


「結婚する気はない」


と言われれば傷つく。


でも、その時は別れる理由ができる。


どちらに転んでも、自分で決めなくて済む。


友梨亜は目を閉じた。


「最悪」


今日二回目だ。


いや、もっと言ったかもしれない。


スマホがまた震えた。


一二三からだった。


『来週どっかで飯食わない?』


友梨亜は少し笑った。


この人は、こういう人だ。


人生を左右するような大きな答えはくれない。


でも、


来週、飯を食おう。


とは言う。


それが逃げなのか。


それとも一二三なりの「一緒にいる」なのか。


まだ分からない。


友梨亜は返信した。


『うん』


少し考えてから、もう一つ送る。


『でも次はちゃんと話したい』


すぐに既読がついた。


少し間があり、


『分かった』


と返ってきた。


友梨亜は画面を見た。


今度は、それでよかった。


日曜日の昼。


友梨亜は結の家にいた。


「で?」


結が缶コーヒーをテーブルに置いた。


「喧嘩しました」


「知ってる」


「何で」


「顔」


「そんなに?」


「まあまあ」


結の家は、意外なくらい普通だった。


高校生の息子と中学生の娘がいるが、今日は二人とも出かけている。


朝、友梨亜が、


『暇ですか』


と送ったところ、


『暇』


とだけ返ってきた。


だから来た。


「何で喧嘩したの」


「結婚」


「また?」


「またです」


「結婚したいの?」


友梨亜は黙った。


結が笑う。


「そこから?」


「分かんないんですよ」


「じゃあ彼氏も困るわ」


「そうなんですけど」


「何て言ってほしかったの」


友梨亜は少し考えた。


「多分、結婚するつもりはあるって」


「それ聞いてどうするの」


「安心する」


「何に」


また答えられなかった。


結は急かさない。


「私」


友梨亜は言った。


「最近すごく嫌なんです」


「何が」


「自分が」


結は表情を変えなかった。


「一二三のSNS見たり」


「うん」


「連絡来ないと気になったり」


「うん」


「予定聞きたくなったり」


「うん」


「誰といるのか気になったり」


「浮気してるの?」


「してないです」


「じゃあいいじゃん」


「良くないんですよ」


友梨亜は少し笑った。


「何もないのに気になる自分が嫌なんです」


結はコーヒーを飲んだ。


「暇なんじゃない?」


友梨亜は顔を上げた。


「酷くないですか?」


「だって、彼氏のこと考える時間、多すぎるんじゃない?」


友梨亜は止まった。


「仕事してる時も考える」


「はい」


「帰っても考える」


「はい」


「休みも考える」


「……はい」


「その男、友梨亜の人生の何割占めてんの」


言われて初めて考えた。


「分かんないです」


「多すぎるんじゃない」


結は淡々と言う。


「好きなのはいいよ」


「はい」


「大事なのもいい」


「はい」


「でもさ」


結はテーブルの上の缶コーヒーを指で回した。


「一人の人間に、自分の不安全部解決させようとしたら無理だよ」


友梨亜は黙った。


「彼氏が結婚するって言えば安心」


「……はい」


「連絡来れば安心」


「はい」


「予定分かれば安心」


「はい」


「でも、それ全部、次の日にはまた不安になるでしょ」


反論できなかった。


たぶん、その通りだ。


仮に一二三が、


「結婚するつもりはある」


と言ってくれたとしても、次の日にはきっと、


いつ?


本当に?


気が変わらない?


と考える。


安心できるのは一日か、せいぜい二日。


そのあとには、また別の不安を見つける。


「じゃあどうすればいいんですか」


友梨亜が聞くと、結は肩をすくめた。


「知らない」


「そこまで言って?」


「私はカウンセラーじゃない」


「会社で相談所やってるじゃないですか」


「あれ無許可だから」


「知ってます」


結は少し笑った。


「でも、彼氏以外のこと増やせば?」


友梨亜は眉を寄せた。


「趣味とか?」


「何でも」


「今さら」


「三十二で今さらって何」


「いや」


「私四十二だよ」


「結さんは特殊です」


「失礼だな」


二人で少し笑った。


「友梨亜」


「はい」


「三十二ってさ」


「はい」


「何歳だと思ってる?」


友梨亜は答えに困った。


「三十二です」


「そう」


結は笑った。


「それ以上でも以下でもない」


「……」


「若くないって言う人もいる」


「はい」


「まだ若いって言う人もいる」


「はい」


「どっちでもいいじゃん」


「でも」


「結婚するにはとか、子ども産むにはとか、現実的な話はあるよ」


「はい」


「それは考えればいい」


結は少しだけ声を落とした。


「でも三十二って数字だけで、自分の価値まで下げる必要ないでしょ」


友梨亜は黙った。


結もそれ以上は言わなかった。


窓の外を見る。


天気のいい昼だった。


「結さん」


「何」


「私、何か始めようかな」


「何を」


「分かんないです」


結が笑った。


「彼氏と同じじゃん」


友梨亜も笑った。


「ホントだ」


「お似合いなんじゃない?」


「やめてください」


「二人で何か探せば?」


「それは嫌」


「何で」


「また一二三中心になるから」


結が少し嬉しそうに笑った。


「じゃあ一人で探しな」


「はい」


帰り道、友梨亜は一人で駅まで歩いた。


スマホを見る。


一二三からは何も来ていない。


気になる。


でも開かない。


十歩。


二十歩。


結局、開いた。


通知はない。


「無理じゃん」


自分で笑った。


すぐに変われるわけがない。


当たり前だ。


それでも昨日までとは、少しだけ違う。


自分が何をしているのかが見えるようになった。


不安になる。


一二三を見る。


もっと不安になる。


また一二三を見る。


その繰り返しだ。


全部やめるのは無理でも、一つくらい別のものを見ることならできるかもしれない。


駅前に小さな本屋があった。


友梨亜は足を止めた。


普段はほとんど入らない店だ。


一二三と付き合い始めてから、休みの日は一二三と会うか、家にいるか、買い物をするか。


大体それくらいだった。


友梨亜は本屋に入った。


何を買うかは決めていない。


料理。


旅行。


小説。


資格。


語学。


写真。


いろいろな棚を眺めながら歩く。


どれにも、特別強い興味があるわけではない。


それでも、すぐには店を出なかった。


旅行コーナーで一冊の本が目に留まった。


国内の一人旅について書かれた本だった。


手に取り、ページをめくる。


「一人旅か」


したことはない。


別に、したいと思ったこともなかった。


でも少しだけ面白そうだった。


友梨亜はその本を買った。


家に帰り、机の上に置く。


まだ読まない。


スマホを見ると、一二三からメッセージが来ていた。


『今井のせいで休日出勤になりそう』


友梨亜は笑った。


『また?』


『また』


『頑張って』


送る。


そのあと、いつもの癖で聞きそうになった。


いつ帰る?


誰といる?


来週いつ会う?


今日は聞かなかった。


友梨亜はスマホを置き、買ってきた本を見た。


一人旅。


少しだけページを開く。


別に人生が変わったわけではない。


不安も消えていない。


一二三のことは相変わらず気になるし、結婚についても何一つ決まっていない。


それでも、その日曜日の午後。


友梨亜は久しぶりに、一二三とは関係のないものを、自分で一つ選んだ。

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私はいつでもMinority

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