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第5話 辞めたい人ほど辞めない

一二三は、朝から少し機嫌が悪かった。


原因は分かっている。


丞と六花だ。


昨日、六花と連絡先を交換した丞から、夜十一時を過ぎた頃にメッセージが届いた。


『何て返せばいい』


知らねえよ。


一二三はそのまま返した。


すると今度は、六花とのやり取りのスクリーンショットが送られてきた。


『今日はありがとうございました! 今度ちゃんとお礼させてください! 何が好きですか?』


それに対する丞の返信は、


『特にないです』


だった。


六花は諦めずに、


『食べ物ですよ笑』


と返している。


『何でも食べます』


『じゃあ好きな料理とか!』


『特にないです』


そこまで読んだところで、一二三は頭を抱えた。


『お前、会話終わらせようとしてるだろ』


『してない』


『してる』


『何て返せばいい』


『焼肉とか寿司とかでいいだろ』


『どっちがいい』


『自分で決めろ』


『分からない』


『じゃあ焼肉』


『何で』


『知らねえよ』


五分後。


『焼肉って送った』


『報告いらねえ』


さらに五分後。


『店聞かれた』


『検索しろ』


『どこ』


『俺に聞くな』


『町田?』


『何で町田なんだよ』


『ヒフミいるから』


『俺参加すんの?』


『して』


『嫌だよ』


『無理』


何が無理なんだ。


そこで昨夜は返信をやめた。


そして今朝。


新橋へ向かう電車の中で、一二三は結局その続きが気になって、自分から丞へメッセージを送っていた。


『結局どうなった』


数分後に返ってきた。


『友梨亜さんも誘うって』


一二三は電車の中で目を閉じた。


「なんでだよ」


思わず声に出すと、隣に立っていた会社員がわずかに距離を取った。


その直後、スマホがまた震えた。


今度は友梨亜だった。


『六花から聞いた?』


『聞いた』


『今度4人でご飯行こうって』


『らしいね』


『嫌?』


一二三は少し考えた。


別に嫌ではない。


丞が地獄みたいな顔をするところは見たいし、六花がどうなるのかも少し面白い。友梨亜とは、いずれちゃんと話をすることにもなっている。


ただ、自分が何も決めていないうちに、周囲の人間関係や予定だけが勝手につながっていく感じが、何となく嫌だった。


『別にいいよ』


そう返すと、


『じゃあ六花に言っとく』


とすぐに返信が来た。


一二三はスマホをしまった。


まただ。


自分は何も決めていないのに、予定だけは決まっていく。


会社に着き、受付の前を通る。


「おはようございます」


明るい声に呼び止められた。


西山にしやま 花恋かれん、24歳。会社の受付をしている。


見た目がかなり整っているため、社内では冗談半分に「顔採用じゃないか」と言われていた。


本人はたぶん知らない。


知らない方がいい。


「おはよう」


一二三が返すと、花恋が少し身を乗り出した。


「今日遅かったですね」


「そう?」


「いつもあと一本前じゃないですか」


「よく見てるね」


「電車一緒だから」


「ああ」


花恋とは半年ほど前から、朝の電車で顔を合わせると時々話すようになった。


きっかけは痴漢だった。


ある朝、花恋が被害に遭っていることに一二三が気づき、降りた駅で駅員に声をかけた。


それだけだ。


犯人と格闘したわけでもなければ、自分で捕まえたわけでもない。駅員に事情を話し、対応を任せただけだった。


その後、花恋から何度も礼を言われ、同じ会社に勤めていることも分かった。それ以来、顔を合わせれば話す程度の関係になっている。


「今日は二本遅いです」


「そんな細かく見てるの?」


「だって暇なんで」


「受付で言うな」


「今まだ人少ないですから」


その横から、小さなため息が聞こえた。


宮本みやもと 深音みおん、24歳。花恋と同期で、同じく受付を担当している。


「花恋」


「何?」


「八時四十分から来客一件」


「知ってるよ」


「資料準備した?」


花恋の動きが止まった。


「……資料?」


深音は何も言わず、机の下からファイルを取り出して花恋の前に置いた。


「これ」


「あ!」


「昨日言ったよ」


「言ってた!」


「忘れてたでしょ」


「忘れてない」


「じゃあ何で驚いたの」


「確認しただけ」


深音はそれ以上何も言わなかった。


一二三は思わず笑った。


「相変わらずだね」


「何がですか?」


花恋が聞く。


「いや、何でも」


「山田山さん」


「うん」


「今、私のことポンコツだと思いました?」


一二三は少し考えた。


「まあ」


「否定してくださいよ!」


深音が横から言う。


「山田山さんの反応が正しい」


「深音!」


「じゃ、仕事してね」


一二三は笑いながらエレベーターへ向かった。


背後から、まだ二人の声が聞こえてくる。


「深音さあ! 昨日何時に言った?」


「17時42分」


「細か!」


「チャット残ってる」


「怖!」


朝から元気だなと思う。


一二三は会社を辞めたい。


それでも、こういう会社の日常まで嫌いなわけではない。


そこが少し困る。


九時十分。


一二三は新規プロジェクトの資料を開いていた。


改めて「プロジェクトリーダー」という文字を見る。


面倒くさい。


非常に面倒くさい。


自分一人なら、与えられた仕事を終わらせればいい。だがリーダーになるとそうはいかない。


メンバーを決め、日程を組み、進捗を確認し、部署間の調整をして、上へ報告する。何か問題が起これば、最終的には自分のところへ話が来る。


考えただけで面倒だった。


「山田山さん!」


聞き慣れた元気な声が飛んできた。


嫌な声。


いや。


元気な声だ。


「何」


「プロジェクトの件なんですけど!」


「声でかい」


「すみません!」


声量はまったく変わらない。


「僕も入ることになりました!」


一二三の手が止まった。


「誰が決めたの」


「課長です!」


一二三はゆっくり金田の席を見た。


こちらを見ていた金田と目が合う。


金田は軽く頷いた。


一二三も反射的に頷き返した。


そして心の中で思った。


何してくれてんだ。


「山田山さん!」


「何」


「頑張りましょう!」


「お前が一番頑張って」


「もちろんです!」


「俺の仕事増やさないように」


「大丈夫です!」


一番信用できない言葉だった。


今井には悪気がない。


むしろ本当にいい奴だ。


人の悪口をほとんど言わないし、失敗して注意されても必要以上に引きずらない。


「次気をつけます!」


そう言って、翌日にはちゃんと前を向いている。


そして次は、前回とは違う失敗をする。


常に前向きなのだ。


問題は、前しか見ていないため、後ろで誰かが転んでいても気づかないことだった。


「今井」


「はい!」


「ちょっと座って」


「はい!」


一二三は資料を開いた。


「まず今回のプロジェクト」


「はい!」


「目的分かってる?」


「もちろんです!」


「言って」


今井が止まった。


三秒。


五秒。


「……会社を良くする?」


「広いな」


「ですよね!」


「何で自信満々だったの」


「雰囲気で」


「雰囲気で仕事すんな」


一二三は資料を使って、今回の目的と担当範囲を一から説明した。


今井は真剣に聞いている。


メモも取っている。


途中で何度か「なるほど!」と声を上げた。


本当に分かっているのかは分からない。


「じゃあ今の説明まとめて」


「はい!」


今井は自分のノートを見た。


「まず」


「うん」


「今回のプロジェクトは」


「うん」


「かなり重要です」


一二三は目を閉じた。


「そこから?」


「はい」


「中身は?」


「……」


「今井」


「はい」


「お前、メモ何書いたの」


今井がノートを差し出した。


そこには、


『重要』


『納期』


『連携』


『山田山さん確認』


『顧客』


『絶対ミスしない』


『頑張る』


と書かれていた。


一二三は頭を抱えた。


「最後の二つ何?」


「目標です」


「そこだけ具体的だな」


「大事ですよね!」


「大事だけど」


「じゃあ合ってますね!」


「違う」


「え」


そこへ金田が来た。


「順調ですか」


今井が即答する。


「順調です!」


一二三も即答した。


「順調ではないです」


今井が一二三を見る。


「え?」


「何でお前驚くんだよ」


金田は今井のノートを覗き込んだ。


数秒読む。


「今井君」


「はい!」


「このメモで、明日山田山君が休んでもあなたは仕事できますか」


今井は少し考えた。


「……できないです」


「ではメモとして機能していません」


「はい!」


「返事だけはいいですね」


「ありがとうございます!」


一二三は吹き出した。


金田がこちらを見る。


「褒めていません」


「分かってます」


「今井君」


「はい」


「午前中に山田山君の説明をもう一度聞いて、午後一時までに自分の言葉でまとめてください」


「分かりました!」


「山田山君」


「はい」


「確認お願いします」


「俺の仕事増えてません?」


「教育もリーダーの仕事です」


「まだプロジェクト始まってないですよね」


「準備期間も含みます」


「便利な言葉ですね」


「事実です」


金田は去っていった。


今井はその背中を見送りながら言った。


「課長って怖いですね」


「本人に聞こえるぞ」


「でも理論的ですよね」


「まあ」


「僕、ああいう上司になりたいです」


一二三は今井を見た。


「まず一人で仕事できるようになろう」


「はい!」


昼休み、一二三は社員食堂の端に一人で座っていた。


今日は誰とも話さずに飯を食べたい。


そんな気分だった。


スマホを開き、特に見たいものもないままニュースやSNSを眺める。


何となく画面を流していると、会社を辞めたという投稿が目に入った。


『30歳、安定を捨てて挑戦します』


一二三の指が止まった。


投稿には、退職証明書らしき紙を持って笑う本人の写真が添えられていた。


文章は長かった。


今までの会社への感謝。


これからやりたいこと。


夢。


挑戦。


そして最後に、


『これからは自分の人生を生きます』


と書かれている。


一二三は最後まで読んだ。


「こういうのだよ」


小さく呟いた。


「何がですか?」


「うわっ」


顔を上げると、いつの間にか今井が向かいに座っていた。


「いつ来たの」


「今です!」


「一人で食わせろよ」


「いいじゃないですか」


今井のトレーには大盛りのカレーが載っている。


「山田山さん、何見てたんですか」


「別に」


「会社辞める人の投稿?」


「見るなよ」


「すみません」


一二三はスマホを伏せた。


今井はしばらくカレーを食べていたが、不意に顔を上げた。


「山田山さん、辞めるんですか?」


一二三の手が止まる。


「何で」


「いや、そういうの見てたから」


「見てただけ」


「辞めないでくださいよ」


あまりにも自然に言われたので、一二三は今井を見た。


「何で」


「困るから」


「お前が?」


「はい」


「それだけ?」


「はい」


「即答だな」


「だって山田山さんいなくなったら誰に聞けばいいんですか」


「自分で調べろ」


「それもします!」


「してから聞け」


今井はカレーを口に運んでから、また聞いた。


「でも山田山さん、辞めたいんですか?」


一二三は少し考えた。


今井相手に話すようなことでもない。


それでも、


「まあ」


とだけ答えた。


「へえ」


意外なことに、今井はそこから何も聞かなかった。


黙ってカレーを食べ続けている。


一二三の方が少し拍子抜けした。


「何も聞かないの?」


「何をですか」


「辞めたい理由とか」


「聞いていいんですか?」


「いや」


「じゃあ聞かないです」


こういうところだけは、今井は妙に素直だ。


しばらくしてから、今井が言った。


「僕はまだ辞めたくないですけどね」


「入ったばっかだろ」


「楽しいんで」


「仕事が?」


「はい」


「何が楽しいの」


「毎日知らないことあるじゃないですか」


一二三は少しだけ意外に思った。


今井は何の気なしに続ける。


「昨日できなかったことが、今日ちょっと分かったり」


「うん」


「山田山さんに聞いたらすぐ解決したり」


「そこは自分で解決しろ」


「はい!」


一二三は少し考えた。


「でも、ずっとそれならいいけどな」


「何がですか」


「そのうち仕事覚えて、毎日同じになる」


「そうなんですかね」


「なるよ」


「じゃあまた新しいことやればいいじゃないですか」


一二三は今井を見た。


本当に何も考えずに言った顔だった。


だからこそ、少し刺さる。


「会社で?」


「どこでもいいですけど」


「簡単に言うな」


「難しく言っても同じじゃないですか?」


一二三は笑った。


「お前、たまにムカつくな」


「すみません!」


「褒めてない」


「知ってます!」


今井も笑った。


午後、一二三はプロジェクトメンバーとの初回ミーティングに入った。


メンバーは全部で六人。


一二三と今井に加え、別部署から三人、外部調整の担当者が一人。


最初は誰もあまり話さなかった。


一二三が資料を説明して、


「何かあります?」


と聞く。


沈黙。


こういう時間が一二三は嫌いだった。


「じゃあ俺から」


資料を一枚めくる。


「これ、納期このままだと多分間に合わないです」


一人が顔を上げた。


「やっぱりそう思います?」


「思います」


「私もなんですけど」


「じゃあ言ってよ」


「いや、初回だったので」


「初回だから言いましょう」


一二三はホワイトボードの前に立った。


「まず、現実的な日程作りましょう」


そこから少しずつ意見が出始めた。


この工程は今の期間では無理。


ここは別部署の作業待ちになる。


担当が曖昧な箇所がある。


予算の確認が必要。


外部との調整にも時間がかかる。


一二三は出てきた意見を聞きながらホワイトボードへ整理していった。


何が問題なのか。


誰が持つのか。


いつまでに確認するのか。


「じゃあ、これはこっち」


「はい」


「ここは俺から金田課長に確認します」


「お願いします」


「今井」


「はい!」


「議事録」


「任せてください!」


一瞬、不安になる。


「一回見せて」


「まだ書いてないですよ」


「終わったら」


「はい!」


一時間ほどで初回ミーティングは終わった。


メンバーが会議室から出ていく。


最後に残った別部署の男性が、一二三に言った。


「山田山さんがリーダーでよかったです」


一二三は反応に困った。


「なんで?」


「話早いんで」


「まだ何も始まってないですよ」


「それでも」


男性は笑った。


「前のプロジェクト、初回会議だけで三回やったんで」


「それは嫌だな」


「ですよね」


男性が出ていくと、会議室に一二三だけが残った。


ホワイトボードには、一時間前にはなかった文字が並んでいる。


日程。


担当。


問題点。


誰が何を確認するのか。


さっきまで曖昧だったものが、一時間話しただけで少し形になった。


一二三はそのホワイトボードを眺めた。


少しだけ楽しかった。


そう思ってしまった。


「……最悪」


声に出た。


会社を辞めたいのに、仕事が少し楽しかった。


これでは話が違う。


「何が最悪なんですか?」


「うわっ」


振り向くと今井がいた。


「お前は急に出てくんな」


「ずっといました」


「嘘つけ」


「議事録まとめてました」


「見せて」


今井がパソコンを差し出す。


一二三は読んだ。


思っていたよりまともだった。


「お」


「どうですか!」


「いいじゃん」


「ですよね!」


「ここ」


「はい」


「誰が言ったか逆」


「え」


「あと納期の日付違う」


「え」


「ここも意味変わってる」


「え」


「やっぱダメだな」


「でも最初いいって言いましたよね!」


「最初の三行は良かった」


「短い!」


一二三は笑いながら修正箇所を指示した。


夕方、来客対応を終えて受付前まで戻ると、花恋が困った顔で立っていた。


「山田山さん!」


「何」


「ちょっと聞いていいですか」


「うん」


「この人、どこに案内するか分かんなくなりました」


一二三は来客から受け取った名刺の会社名を確認した。


「ああ、三階の会議室」


「三階?」


「今日の外部ミーティング」


「私、二階って聞いたんですけど」


横から深音が言った。


「変更になった」


花恋が振り返る。


「いつ?」


「昼」


「聞いてない!」


「チャット送った」


「え」


深音は花恋のスマホを取り、画面を開いた。


「これ」


「あ」


花恋は一二三を見る。


「通知切ってました」


「受付が通知切るなよ」


「いっぱい来るんですよ」


「何が」


「色々」


深音が淡々と言う。


「通販のセール」


「深音!」


「昨日言ってた」


「言わなくていい!」


一二三は笑った。


「じゃ、案内して」


「はい!」


花恋が来客を連れていく。


その背中を見送りながら、深音がため息をついた。


「いつも大変だね」


一二三が言うと、深音は少し笑った。


「慣れました」


「花恋、気づいてる?」


「何をですか」


「深音に助けられてるの」


深音は受付の奥へ消えていく花恋を見た。


「多分、一個も気づいてないです」


「だろうね」


「でも、気づかれたら気づかれたで、毎回頼られそうなので」


一二三は笑った。


「それはある」


「だから今くらいでいいです」


深音は何でもないことのように言った。


それを聞いて、一二三は丞を思い出した。


知らないところで誰かを助けても、本人はそれを大したことだと思っていない。


反対に、助けられた側も案外気づかない。


もしかすると自分だって同じなのかもしれない。


気づいていないだけで、誰かにずっと助けられている。


十九時十二分。


社内の人はかなり減っていたが、一二三はまだ自席で仕事をしていた。


プロジェクト資料を整理し、明日の打ち合わせを確認し、今井が出してきた議事録の修正版にも目を通す。


帰りたい。


ただ、あと少しというところで切り上げるのも気持ちが悪い。


「山田山君」


顔を上げると金田がいた。


「はい」


「まだいましたか」


「見れば分かるでしょ」


「帰らないのですか」


「帰りたいです」


「なら帰れば」


「課長に言われると腹立つな」


金田は一二三のパソコン画面を見る。


「プロジェクトですか」


「はい」


「どうでした」


「初回はまあ」


「問題は?」


「納期」


「やはり」


一二三は顔を上げた。


「分かってたんですか」


「ある程度」


「何でその日程にしたんですか」


「上からです」


「じゃあ無理って言ってくださいよ」


「根拠が必要です」


「俺に作らせるため?」


「そうです」


一二三は椅子にもたれた。


「課長」


「何でしょう」


「俺がリーダーになった理由って何ですか」


金田は少し考えた。


「適任だからです」


「それじゃ分かんないです」


「何を知りたいのですか」


「もっと具体的に」


金田は一二三の向かいにある椅子へ座った。


珍しい。


「山田山君は、問題が起きた時、誰が悪いかより先にどう処理するか考える」


「普通じゃないですか」


「普通ではありません」


「そう?」


「多くの人間は、まず責任の所在を確認します」


「課長もしますよね」


「私は同時にします」


「怖」


「褒め言葉として受け取ります」


「違います」


金田は気にせず続けた。


「それと、人に仕事を振る時、相手の能力をある程度見ています」


「そうですか?」


「今井君への仕事は、失敗しても致命傷にならないものを選んでいる」


一二三は少し黙った。


言われてみれば、確かにそうしている。


ただ、意識してやっていたわけではない。


「あと、あなたは人の話を聞く」


「課長よりは」


「その比較に意味はありません」


「ありますよ」


「ありません」


一二三は笑った。


金田もほんの少しだけ口元を緩めた。


「リーダー向きです」


一二三は困った。


そんなことを言われたくなかった。


「迷惑そうですね」


「いや」


「顔に出ています」


「課長に褒められると怖いんですよ」


「なぜ」


「後で仕事増えるから」


「増えます」


「ほら」


金田は立ち上がった。


「ただ、嫌なら断って構いません」


一二三は少し驚いた。


「え」


「リーダーです」


「断っていいんですか」


「当然です」


「朝礼で断りづらくしませんでした?」


「結果的には」


「わざとでしょ」


「多少」


「最悪だ」


金田は本当に悪びれない。


「ただし、断るなら理由は聞きます」


「理詰めで?」


「当然です」


「やっぱ断りづらい」


金田は少し間を置いた。


「それと、会社を辞めるなら早めに言ってください」


一二三の動きが止まった。


「……何で」


「引き継ぎが必要です」


数秒、何も言えなかった。


「知ってたんですか」


「何を」


「俺が辞めたいと思ってるの」


「知りません」


「じゃあなんで」


「プロジェクトリーダーに任命した社員が、最近転職サイトを頻繁に見ていれば」


一二三は目を見開いた。


「会社のPCで?」


「はい」


「見られるんですか」


「閲覧履歴の監視をしているわけではありません」


「じゃあ」


「先日、後ろを通った時に画面が見えました」


一二三は机に突っ伏した。


「最悪だ」


「何がですか」


「恥ずかしい」


「なぜ」


「辞めたい奴が会社のPCで転職サイト見てたんですよ」


「今言いましたね」


一二三は顔を上げた。


「何が」


「辞めたい、と」


しまった。


金田は真顔のまま一二三を見る。


「辞めるのですか」


一二三は答えられなかった。


金田は待っている。


この人はこういう時、急かさない。


逃がさないだけだ。


「……分かんないです」


一二三は言った。


金田がわずかに眉を動かす。


「分からない?」


「はい」


「辞めたいのか」


「辞めたいと思ってます」


「理由は」


「それが」


一二三は少し笑った。


「自分でもよく分かんなくて」


金田は黙った。


一二三は続けた。


「何かやりたいんですよ」


「何を」


「それも分かんなくて」


「……」


「課長」


「はい」


「今、絶対意味分かんないと思ってるでしょ」


「思っています」


「ですよね」


「しかし」


金田は腕を組んだ。


「分からないなら、分からないでいいのでは」


一二三は少し驚いた。


「課長がそんなこと言うんですか」


「何がです」


「もっと、目的を明確にしろとか」


「仕事なら言います」


「人生は?」


「私の管轄ではありません」


一二三は吹き出した。


「課長らしいわ」


金田は少し考えてから続けた。


「ただ、辞めること自体を目的にはしない方がいいでしょう」


一二三は丞を思い出した。


似たようなことを言われたばかりだ。


「やっぱそうですか」


「当然です」


「でも、会社辞めたら何か変わる気するじゃないですか」


金田は一二三を見た。


「変わります」


「え」


「収入がなくなる」


「そこ?」


「平日の予定がなくなる」


「はい」


「社会保険等の手続きが必要になる」


「現実的だな」


「何かは変わります」


「そういう意味じゃなくて」


「では、どういう意味ですか」


一二三は口を開きかけて、やめた。


また答えられない。


金田は時計を見た。


「帰りましょう」


「はい」


「今日は家には誘いません」


「助かります」


「妻から来週ならどうかと」


「来週も嫌です」


「子どもが会いたがっています」


「なんで俺そんな懐かれてるんですか」


「長男があなたを面白い人だと言っています」


「小学生に?」


「はい」


「微妙」


「褒め言葉です」


「課長と同じこと言うな」


二人で会社を出た。


エレベーターで一階へ降りる。


すでに受付は無人で、ロビーの照明も一部落とされていた。


外へ出ると、新橋の夜はまだ明るい。


仕事帰りの人たちが駅や店へ向かって流れていく。


金田は駅とは反対方向へ歩き出した。


「課長」


「はい」


「駅そっちじゃないですよ」


「今日は車です」


「飲まないんですか」


「帰宅後、息子とゲームをする予定です」


「いいパパだな」


「当然です」


「会社でもその顔出せばいいのに」


「必要ありません」


「部下の評価上がりますよ」


「成果と関係ありません」


「そういうとこ」


金田が少しだけ笑った。


「山田山君」


「はい」


「会社を辞めるとしても、プロジェクトは今のところ任せます」


一二三は金田を見た。


「いいんですか」


「辞めると決まったわけではないのでしょう」


「まあ」


「なら現時点では社員です」


「合理的ですね」


「当然です」


一二三は何となく聞いた。


「辞めたら困ります?」


金田はすぐに答えた。


「困ります」


その即答に、一二三は少しだけ驚いた。


「即答ですね」


「あなたの代わりを探す必要があるので」


「そういう意味かよ」


「他に何がありますか」


「もうちょい寂しいとか」


「ありません」


「冷たいな」


「ただ」


金田は車のキーを取り出した。


「残ってくれれば助かります」


それだけ言って、駐車場へ向かった。


一二三は一人で駅へ歩き始めた。


スマホを見る。


今井からは、


『議事録修正版送ります! 確認お願いします!』


花恋からは、なぜか個人メッセージで、


『今日会議室ありがとうございました! あと朝の件深音には内緒でお願いします笑』


と来ている。


内緒も何も、深音本人が全部見ていた。


友梨亜からは、


『今度のご飯、土曜どう?』


丞からは、


『六花さんからまた来た』


一二三は歩道の途中で立ち止まった。


「なんで俺に全部来るんだよ」


そう言いながら、少し笑った。


会社を辞めたいと思っている。


それでも会社へ行けば仕事が来る。相談される。質問される。どうでもいい連絡まで来る。


会社の外でも、友達から連絡が来る。


彼女からも来る。


人に必要とされている。


そう言えば聞こえはいい。


ただ、必要とされることと、自分がそこにいたいことは同じなのだろうか。


一二三には、まだ分からなかった。


電車に乗る。


町田までは長い。


運よく座れたところで、スマホを開いた。


昨日、丞と話したことを思い出す。


会社を辞めなくてもできることを、何か一つ始める。


そう決めた。


まだ、その「何か」は決めていない。


検索画面を開き、


『30歳 新しいこと 始める』


と打った。


副業。


資格。


英語。


筋トレ。


動画。


ブログ。


投資。


プログラミング。


旅行。


料理。


起業。


いくらでも出てくる。


一二三は順番に眺めた。


どれも、それっぽい。


始めれば人生が少し動きそうな気もする。


けれど、どれを見ても「自分がやりたい」とは思えなかった。


しばらくスクロールしたあと、画面を閉じた。


暗い車窓に自分の顔が映っている。


「何か……」


小さく呟くと、隣の人が一瞬こちらを見た。


一二三は黙った。


会社ではそれなりに仕事ができる。


後輩から頼られ、上司にも評価されている。


彼女もいる。


幼馴染もいる。


たぶん、恵まれている。


それでも何かが足りないような気がする。


では、その足りないものはどこにあるのか。


会社の外なのか。


自分の中なのか。


それとも、最初からそんなものはないのか。


考えていると、スマホが震えた。


今井からだった。


『すみません! さっき送った議事録、違うファイルでした! 開かないでください!』


一二三は目を閉じた。


数秒後、また届く。


『もう開きました?』


『開いた』


すぐ既読がついた。


『終わった』


何が入っているんだ。


一二三は恐る恐る添付ファイルを開いた。


タイトルは、


『今井駿 5年後の自分』


一ページ目。


『会社を引っ張る存在になる』


二ページ目。


『年収1000万円』


三ページ目。


『後輩から憧れられる』


四ページ目。


『タワマン』


そして五ページ目には、大きな文字で、


『人生は挑戦』


と書いてあった。


一二三は電車の中で声を出して笑った。


周りの人が見る。


それでも止まらなかった。


何だこれ。


恥ずかしい。


痛い。


薄い。


何も考えてなさそうだ。


全部、自分と大して変わらない。


一二三は今井に返信した。


『いい夢だな』


しばらくして既読がつく。


『見たんですか!?』


『全部』


『死にたい』


また笑った。


いつも前向きな今井が、初めて後ろ向きなことを言った。


『明日から会社行けません』


『来い』


『無理です』


『来い』


『山田山さん忘れてください』


『無理』


『最悪です』


一二三はスマホを閉じた。


人生は挑戦。


今井が書くと、ものすごく薄っぺらい。


でも、少しだけ羨ましかった。


タワマンでもいい。


年収一千万でもいい。


会社を引っ張るでもいい。


馬鹿みたいでも、恥ずかしくても、今井は一度、自分の未来を書いた。


一二三は何も書いていない。


もう一度スマホを開き、メモを新規作成した。


タイトルに、


『やりたいこと』


と入力する。


本文は空白のままだ。


少し考えてから、


『会社を辞める』


と書いた。


しばらく見て、消す。


違う。


もう一度、


『何か始める』


と書く。


それも違う。


結局、その文字も消した。


タイトルだけが残った。


『やりたいこと』


中身はない。


そのまま保存した。


電車は町田へ向かっている。


一二三はスマホをポケットにしまった。


今日一日働いて、昨日より会社を辞めたい気持ちが少し減っていた。


仕事が少し楽しかった。


自分が思っていた以上に、周囲から必要とされていることも分かった。


それは、本来なら悪いことではない。


なのに一二三は、その変化を素直に喜べなかった。


会社を辞めたい気持ちが少し薄れたことが、なぜか少し嫌だった。

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私はいつでもMinority

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