第4話 助けてくれた人
立花六花は、基本的に人生を勢いで乗り切っていた。
朝起きて、眠い。それでも会社には行く。働く。誘われれば飲みに行く。楽しい。帰って寝る。
だいたい、それで何とかなってきた。
もちろん、何とかならない日もある。
終電を逃したり、財布をなくしたり、知らない人の誕生日会に参加していたり。目が覚めたら友達の家だったこともあるし、一度だけ、知らない駅のベンチで朝を迎えたこともある。
そのたびに反省はする。
ちゃんと反省する。
でも、次の週には忘れている。
友梨亜には、
「六花は毎回、反省だけして学習しないよね」
と言われる。
それについては、たぶん正しい。
金曜日、午後九時四十七分。
六花は新宿にいた。
「もう一軒行こうよ!」
同僚の女性が言った。
「行く行く!」
六花は即答した。
その横で、別の同僚が時計を見る。
「私、終電あるから帰る」
「えー!」
「明日朝早いの」
「土曜なのに?」
「予定あるんだって」
「彼氏?」
「うん」
「いいなー!」
六花は笑った。
その子も笑った。
気づけば、周りにはそういう人が増えていた。
彼氏。
婚約者。
夫。
子ども。
みんなには、誰かがいる。
六花は別に焦ってはいなかった。
二十六歳。
まだ、そこまで急いでいない。
少なくとも本人はそう思っている。
ただ、飲み会の途中でみんなが次々帰っていく瞬間だけは、少しだけ自分が置いていかれているような気がすることがあった。
「六花、どうする?」
「行くよ!」
そう言って、また笑う。
結局、残ったのは四人だった。
六花と同僚の女性が一人。それに取引先の男性が二人。
二軒目。
三軒目。
気づけば、六花はだいぶ酔っていた。
「六花ちゃんさ」
隣の男が言った。
「彼氏いないんでしょ?」
「いないですよー」
「もったいないな」
「よく言われます!」
「絶対モテるでしょ」
「そこそこ?」
「自分で言うんだ」
「だって嘘ついても仕方ないじゃないですか」
六花は笑った。
男も笑う。
その時点では普通に楽しかった。
午前零時十八分。
店を出る頃には、同僚の女性は少し前に帰っていた。
残ったのは六花と男二人。
「あー終電ない」
六花がスマホを見る。
「タクシーで帰れば?」
「高いですよー」
「じゃあもう一軒行こうよ」
一人が言った。
六花は少し迷った。
明日は休みだし、特に予定もない。
いつもなら、そのまま行っていたと思う。
でも今日は、何となく少し疲れていた。
「今日は帰ろうかな」
「えー、まだいいじゃん」
「いやいや、もう結構飲んだし」
「じゃあホテルで飲む?」
六花の笑顔が少しだけ止まった。
「いや、それはないです」
「何で?」
「何でって」
「別に変な意味じゃないって」
変な意味しかない。
さすがの六花でも分かる。
「ごめんなさい、帰ります」
少し離れると、男の一人がついてきた。
「待って待って」
「いや、大丈夫です」
「送るよ」
「大丈夫です」
「危ないって」
「ホントに大丈夫なんで」
六花は笑った。
こういう時、怒れない。
空気を悪くしたくないし、相手を怒らせるのも怖い。
だから笑う。
それが、たぶん良くない。
「六花ちゃん」
腕を掴まれた。
「ちょっと」
思ったより強い。
酔いが少し覚めた。
「離してください」
「だから送るだけだって」
「いいです」
「タクシー拾うから」
「自分で拾います」
「じゃあ一緒に乗ろうよ」
「嫌です」
ようやく、はっきり言った。
男の顔が変わった。
「そこまで言わなくてもよくない?」
「いや」
「さっきまで普通に飲んでたじゃん」
六花は言葉に詰まった。
それとこれとは違う。
でも、どう言えばいいのか分からない。
「だから……」
その時だった。
「その人、嫌がってますよ」
男の後ろから声がした。
六花は顔を上げた。
男も振り返る。
そこには二人の男がいた。
一人は背が高い。
ものすごく高い。
顔もいい。
無表情。
もう一人は普通。
本当に普通。
酔っていた六花には、だいたいそのくらいの認識しかなかった。
「何?」
六花の腕を掴んでいた男が言った。
普通の方の男が近づく。
「手、離した方がいいですよ」
「関係ないでしょ」
「嫌がってるんで」
「友達だから」
六花がすぐに口を挟んだ。
「友達じゃないです」
男が六花を見る。
「何だよ」
「取引先の人です」
「じゃあ帰った方がいいですよ」
普通の男は淡々としていた。
怖そうでもないし、威圧的でもない。
ただ妙に落ち着いていた。
六花の腕を掴んでいた男が舌打ちする。
「めんどくさ」
その一言で、六花の中の何かが切れた。
「めんどくさいのそっちでしょ!」
思ったより大きな声が出た。
男が驚く。
普通の男も少し驚いた。
背の高い男も驚いた。
「帰るって言ってんじゃん!」
六花は腕を振りほどいた。
「何回言わせんの!」
「いや、だから」
「もういい!」
酔っていた。
かなり。
だから勢いもあった。
「私、帰る!」
「終電ないでしょ」
「歩く!」
「どこまでだよ」
「知らない!」
普通の男が言った。
「それはやめた方がいいと思います」
六花はそちらを見る。
「じゃあどうすればいいんですか!」
「タクシー」
「高い!」
「知らないですよ」
「冷たい!」
「何で俺が怒られてるんですか」
背の高い男は横で黙っていた。
六花はそちらを見た。
「あなたも何か言ってください!」
背の高い男が、明らかに困った顔をする。
「……タクシーがいいと思います」
「同じじゃん!」
普通の男が少し笑った。
それを見た途端、六花は急に力が抜けた。
「もういいです」
スマホを取り出し、タクシーアプリを開く。
画面が揺れる。
いや。
自分が揺れている。
「大丈夫ですか」
普通の男が言った。
「大丈夫です」
「全然大丈夫そうじゃないですけど」
「大丈夫です」
数歩歩く。
ふらつく。
「ほら」
「大丈夫です!」
「強情だな」
「誰がですか!」
六花は勢いよく振り返った。
その瞬間、視界が回った。
「あ」
転びそうになる。
誰かが支えた。
気がつくと、六花は背の高い男の腕を掴んでいた。
正確には、背の高い男が六花の肩を支えていた。
「危ない」
低い声。
近くで見ると、本当に顔がいい。
六花は思った。
あ。
この人。
助けてくれた人だ。
酔った頭は、都合よくそう処理した。
実際には、声をかけたのも、男の手を離させたのも、タクシーを勧めたのも、ほぼ全部隣の普通の男だった。
でも六花の記憶に残ったのは、自分を支えた背の高い男の顔だった。
「……ありがとうございます」
六花が言うと、背の高い男はさらに困った顔をした。
「いえ」
普通の男が言った。
「タクシー来ましたよ」
「あ」
「乗れます?」
「乗れます!」
「住所ちゃんと入ってます?」
「入ってます!」
「確認します?」
「大丈夫です!」
「その大丈夫、信用ないんだよな」
「失礼!」
六花はタクシーに乗った。
ドアが閉まる。
窓の外には、背の高い男と普通の男。
六花は背の高い男に向かって手を振った。
「ありがとうございましたー!」
タクシーが動き出す。
普通の男が何か言っていた。
聞こえなかった。
六花は座席にもたれ、数秒後には目を閉じた。
そして寝た。
翌朝、午前十時四十三分。
六花は自宅のベッドで目を覚ました。
「……死ぬ」
頭が痛い。
喉は乾き、身体が重い。
スマホを見る。
充電は三パーセント。
「危な」
充電器につないでから、昨夜の記憶を辿る。
一軒目。
二軒目。
三軒目。
男。
腕。
誰か来た。
背の高い人。
イケメン。
助けてもらった。
「……あ」
六花は起き上がった。
「名前聞いてない」
最悪。
普通なら、もう一生会わない。
ここは東京だ。
人は多い。
知らない人。
それで終わり。
「何やってんだ私」
枕に顔を埋めた。
そのまま五分ほど経ったところで、スマホが鳴った。
友梨亜からだった。
『生きてる?』
六花は少し笑った。
『死んでます』
すぐに返信が来る。
『昨日何時までいたの?』
『覚えてないです』
『また?』
『またです』
『無事?』
六花は少し止まった。
それから、
『なんか助けてもらいました』
と送る。
すぐに既読がつき、電話がかかってきた。
「もしもし」
『なんかって何』
「朝から声でかいですよ」
『何があったの』
「いやー」
六花は昨夜のことを説明した。
かなり省略しながら。
男にしつこくされて、帰ろうとしたところに知らない男性二人が現れ、助けてもらった。
『二人?』
「はい」
『何で二人いたの』
「知らないです」
『どっちに助けてもらったの』
「背高い方」
即答した。
『何で分かるの』
「支えてくれたんで」
『その前は?』
「その前?」
『男に声かけたのどっち』
六花は止まった。
「……覚えてない」
『六花』
「はい」
『絶対違う人に感謝してる可能性あるよ』
「そんなことあります?」
『あなたならある』
「酷い」
『名前聞いた?』
「聞いてない」
『連絡先』
「知らない」
『じゃあ終わりじゃん』
「そうなんですよ!」
『何で私に怒るの』
六花はベッドに転がった。
「でもめっちゃかっこよかったんですよ」
『はいはい』
「ホントに」
『酔ってたんでしょ』
「酔っててもイケメンは分かります」
『酔ってる時が一番信用ならない』
「友梨亜さん、夢ないなー」
『現実見てるの』
六花は笑った。
「また会わないかな」
『東京で?』
「運命なら会いますよ」
『そういうところだよ』
「何がですか」
『何でもない』
月曜日、午前八時十一分。
六花は会社へ向かっていた。
二日酔いはもうない。
一昨日の夜に助けてくれた男のことは、まだ少し覚えていた。
背が高い。
黒っぽい服。
無表情。
顔がいい。
声は低かった。
たぶん、
「タクシーがいいと思います」
と言っていた。
いや、それしか覚えていない。
でも六花には十分だった。
「また会ったらどうしよう」
誰もいないのに小さく言う。
会うわけない。
そう思った。
会社の最寄り駅で改札を出る。
人混みの中を歩き、信号待ちでふと前を見た。
背の高い男がいた。
六花の足が止まる。
「……え」
見覚えがある。
黒髪。
高身長。
横顔。
無表情。
心臓が一気に速くなった。
「嘘」
その男は誰かと一緒だった。
隣には普通の男。
六花には、そちらの男の見覚えがほとんどなかった。
いや、あるような。
ないような。
でも、どうでもよかった。
背の高い男。
間違いない。
「運命じゃん」
思わず声に出した。
信号が青になり、人が動き出す。
六花も早足で二人を追った。
「すみません!」
背の高い男が振り返る。
その隣の男も振り返った。
六花は勢いよく頭を下げた。
「この前はありがとうございました!」
背の高い男――二階堂丞は固まった。
隣の山田山一二三は目を丸くしている。
「……はい?」
丞が言った。
六花は顔を上げた。
やっぱり、この人だ。
「金曜の夜です!」
「金曜?」
「新宿で!」
丞は一二三を見る。
一二三も丞を見る。
六花は構わず丞に向かって続けた。
「ホントに助かりました!」
「いや」
丞が明らかに困っている。
「俺は」
「あの!」
六花は遮った。
「ちゃんとお礼したいんですけど!」
丞は完全に動かなくなった。
一二三が横で口元を押さえている。
笑っている。
「ヒフミ」
「いや、待って」
「何」
「面白い」
「何が」
六花は一二三を見た。
「お友達ですか?」
「幼馴染です」
「そうなんですね!」
「山田山です」
「立花です!」
六花は笑った。
一二三は少し複雑な顔をした。
立花。
どこかで聞いたことがある。
「……立花さん?」
「はい」
「立花六花さん?」
六花が驚いた。
「え、何で知ってるんですか?」
一二三は完全に思い出した。
友梨亜の後輩。
何度か話に出てきた。
飲み会。
トラブル。
終電。
男。
たぶん、この人だ。
「広畑友梨亜って知ってます?」
六花の顔が変わった。
「え」
数秒。
「友梨亜さん?」
今度は丞が一二三を見る。
「知り合い?」
「彼女の後輩」
「えええええ!」
六花が朝の歩道で大声を出した。
周りの人が見る。
「一二三さん!?」
「俺のこと知ってるんですか」
「知ってますよ!」
六花は一二三の顔をじっと見た。
「……あ」
「何ですか」
「普通」
「初対面で言う?」
「いや違うんです!」
丞が少しだけ笑った。
一二三は見逃さなかった。
「お前今笑っただろ」
「笑ってない」
「笑った」
六花はそれどころではなかった。
「え、じゃあ……」
一二三。
友梨亜の彼氏。
その幼馴染。
この人。
丞。
六花の頭の中で情報が一気につながる。
「二階堂さんって言うんですね!」
丞が一歩引いた。
「はい」
「この前ホントありがとうございました!」
「いや」
「助かりました!」
「その」
一二三には、もう分かっていた。
これは完全に勘違いしている。
「立花さん」
「はい?」
「その時」
一二三が言いかけた。
「多分――」
丞が一二三の腕を掴んだ。
「ヒフミ」
「何」
「会社遅れる」
「まだ時間あるだろ」
「行こう」
「珍しく急ぐな」
丞は目で何かを訴えていた。
言うな。
そういう顔だった。
一二三は少し面白くなってきた。
「そうだな」
「え?」
六花が言う。
「もう行っちゃうんですか?」
丞は完全に困っている。
「仕事なので」
「じゃあ!」
六花はスマホを出した。
「連絡先だけ!」
丞、停止。
一二三、爆笑寸前。
「お礼したいので!」
「いや」
「ダメですか?」
丞は一二三を見る。
助けを求めている。
一二三は笑顔で言った。
「いいじゃん」
「ヒフミ」
「お礼したいって」
「でも」
「助けたんだろ?」
丞は無言になった。
六花はスマホを差し出している。
観念したように、丞も自分のスマホを取り出した。
連絡先を交換すると、六花は嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます!」
「いえ」
「また連絡します!」
「はい」
「じゃあ!」
六花は会社の方向へ走っていった。
一二三と丞はその背中を見送った。
数秒後、一二三が吹き出した。
「何だよ」
「いや」
「笑うな」
「だって」
「何」
「お前、モテるじゃん」
「違う」
「連絡先聞かれてたぞ」
「勘違いしてる」
「何を」
「助けたの俺じゃないだろ」
一二三は金曜の夜を思い出した。
会社終わりに丞とたまたま都内で会い、飯を食って帰る途中だった。
酔った女性と、しつこい男。
声をかけたのは一二三だった。
丞はほとんど横にいただけで、最後に転びそうになった六花をたまたま支えただけだ。
「まあ」
一二三は言った。
「最後支えたじゃん」
「それだけ」
「それも助けたうちだろ」
「でも」
「いいじゃん別に」
「何が」
「六花ちゃんかわいいじゃん」
「知らない」
「友梨亜の後輩だぞ」
「だから?」
「今度四人で飯行こうぜ」
丞の顔が露骨に嫌そうになった。
「嫌」
「即答かよ」
「無理」
「何が」
「喋れない」
「さっき喋ってたじゃん」
「必要なことだけ」
「連絡先交換までしたのに」
丞はスマホを見た。
すでにメッセージが来ている。
『立花六花です!さっきはありがとうございました!』
丞は止まった。
「返さないの?」
一二三が言う。
「何て返せばいい」
「よろしくとか」
「何をよろしくするの」
「知らねえよ!」
一二三は笑った。
久しぶりに、何も考えず笑った気がした。
会社。
プロジェクト。
退職。
友梨亜。
結婚。
全部が、ほんの少しだけ頭から消えた。
「お前さ」
丞が言った。
「何」
「この前助けたって言えばいいじゃん」
「今?」
「うん」
「何で」
「勘違いしてるから」
「別にいいだろ」
「よくない」
「俺、お礼いらないし」
「でも」
「お前が困るなら言えば」
「俺から?」
「うん」
丞は明らかに嫌そうだった。
「無理」
「じゃあそのままでいいじゃん」
「でも嘘になる」
「嘘ついてないだろ」
「助けてくれてありがとうって言われた」
「一部助けただろ」
「一部って」
「支えた」
「それだけ」
「十分十分」
丞は納得していなかった。
一二三は、少しだけ面白くなっていた。
何かが始まりそうな感じ。
自分ではなく、幼馴染に。
それが少し羨ましくもあった。
「なあ」
一二三が言った。
「何」
「お前さ」
「うん」
「こういうのが人生変わるきっかけだったりすんじゃない?」
丞は真顔で言った。
「嫌だ」
「何で」
「面倒くさい」
一二三は笑った。
「お前、俺の彼女みたいなこと言うな」
「意味分からない」
二人は会社へ向かった。
その頃、六花はエレベーターの中でスマホを見ていた。
友梨亜にメッセージを送る。
『友梨亜さん!!!!』
既読。
『朝から何』
『いました!!!!』
『何が』
『この前助けてくれた人!!!!』
数秒後。
『は?』
六花は笑顔で打つ。
『しかも一二三さんの幼馴染でした!!!!』
既読。
しばらく返信が来ない。
六花は首を傾げた。
そして、
『二階堂さんって人です!!!!』
と送る。
数秒後、友梨亜から返ってきた。
『ちょっと待って』
六花はまた首を傾げた。
何を待つのだろう。
その時、エレベーターの扉が開いた。
友梨亜が立っていた。
「六花」
「おはようございます!」
「今の話」
友梨亜は何とも言えない顔をしていた。
「全部話して」
「え?」
「今すぐ」
六花は少し笑った。
「友梨亜さん」
「何」
「顔怖いですよ」
「いいから」
六花は思った。
やっぱり今日も、何か起きそうだ。
ご意見ご感想あればぜひぜひコメントしてください。一言でも構いません。励みになります。
私はいつでもMinority




