第3話 お前、何がしたいの?
二階堂丞は、人と話すのが苦手だった。
正確には、話せないわけではない。必要なことなら言えるし、仕事の会議でも取引先との打ち合わせでも、電話でも特に困らない。聞かれたことには答えられるし、説明もできる。むしろ「分かりやすい」と言われることさえある。
ただ、雑談ができなかった。
「最近どう?」
そう聞かれると困る。
最近とは、どこからどこまでなのか。何について聞いているのか。仕事か、体調か、私生活か、それともニュースの話なのか。
質問が曖昧すぎる。
「休みの日、何してるんですか?」
これも困る。
その時々で違う。寝る日もあれば、ゲームをする日もある。買い物にも行くし、掃除もする。
それを全部言えばいいのか。
一つだけ言えばいいのか。
相手が何を期待しているのかが分からない。
女性が相手になると、さらに分からなくなる。
「彼女いそうですよね」
そう言われることがある。
何と返せば正解なのか。
「いません」
事実を答える。
すると、
「えー、絶対嘘」
と言われる。
嘘ではない。
だから黙る。
すると今度は、
「そういうところですよね」
と言われる。
どういうところなのか。
丞には分からなかった。
なので、なるべく人と話さない。
それで困ることは、案外少ない。
少なくとも三十一年間、何とかなっている。
唯一、山田山一二三だけは別だった。
あいつは昔から勝手に話す。勝手に怒り、勝手に悩み、勝手に答えを求めてくる。
丞が黙っていても、
「聞いてる?」
と確認するだけで、そのまま話を続ける。
だから楽だった。
丞が何を話すか考えなくても、一二三が勝手に話題を持ってくる。
幼馴染とは便利なものだった。
火曜日の午後七時十二分。
丞は会社を出ると、スマホを確認した。
一二三からメッセージが来ている。
『今日空いてる?』
空いている。
『空いてる』
送ると、すぐに返ってきた。
『町田来れる?』
丞は少し考えた。
今いる場所から町田までは、近くない。
『なんで』
『相談』
昨日も似たような話を聞いた気がする。
『電話じゃダメ?』
『顔見て話したい』
嫌な予感がした。
一二三がこういう言い方をする時は、大抵答えを求めている。
しかも、本人が気に入る答えを。
『分かった』
送信。
すぐに返ってくる。
『さすが親友』
丞はスマホを閉じた。
親友。
便利な言葉だと思った。
一時間後、丞は町田駅前の居酒屋に着いた。
一二三はすでに席についていた。
「遅い」
「仕事終わってから来た」
「俺も」
「じゃあ同じだろ」
「距離が違う」
「だから何」
「まあいいや。座れ」
丞は向かいの席に座った。
一二三の前には、すでにビールが置いてある。
「飲んでるじゃん」
「一杯目」
「相談じゃないの」
「相談しながら飲むんだよ」
丞は烏龍茶を頼んだ。
「飲まないの?」
「明日仕事」
「俺も」
「だから?」
「まあいいや」
一二三はビールを飲んだ。
「でさ」
「うん」
「会社のことなんだけど」
やっぱり。
丞は思った。
「昨日のプロジェクト?」
「そう」
「やれば」
「早いな」
「できるんだろ」
「できるかどうかじゃなくて」
「じゃあ何」
一二三は枝豆を取った。
「俺、会社辞めようと思ってるって言ったじゃん」
「うん」
「なのにプロジェクトリーダーだぞ」
「うん」
「どう思う?」
「何を」
「タイミング」
「悪いんじゃない」
「だろ?」
「辞めるなら」
一二三の手が止まった。
「お前さ」
「何」
「もうちょっと悩んでくれない?」
「俺が?」
「相談相手だろ」
「悩むのはお前じゃないの」
「そうなんだけど」
丞は烏龍茶を飲んだ。
昨日より少し疲れて見える。
仕事が大変だからなのか。友梨亜のことなのか。それとも本人の中で何かがずっと回り続けているのか。
たぶん全部だ。
「で」
丞が言った。
「辞めるの?」
一二三は黙った。
「……そこなんだよ」
「どこ」
「今辞めたら逃げたみたいじゃん」
「誰から?」
「誰からって」
「会社?」
「まあ」
「会社はそんなこと思わないだろ」
「いや、思うだろ。プロジェクト任された直後だぞ」
「でも辞めたいんだろ」
「そうだけど」
「じゃあ辞めれば」
「簡単に言うなよ」
丞は少し考えた。
「ヒフミ」
「何」
「お前、辞めたい理由って何」
「前も話しただろ」
「ちゃんと聞いてない」
「聞いてたじゃん」
「何かしたいって話しか聞いてない」
「だからそうだよ」
「何したいの」
「それを探すんだよ」
丞は黙った。
一二三がビールを飲む。
「なんだよ」
「何が」
「その顔」
「顔?」
「言いたいことある顔」
丞は少し迷った。
言わない方がいいかもしれない。
だが一二三は、こういう時は聞くまで帰らない。
昔からそうだった。
「お前さ」
「うん」
「何かしたいんじゃなくて」
「うん」
「何かしてる自分になりたいだけじゃない?」
一二三の顔が止まった。
丞は続ける。
「会社辞めて」
「うん」
「好きなこと見つけて」
「うん」
「それで今より人生楽しんでる自分を想像してるだけじゃないの」
一二三はしばらく何も言わなかった。
店員が近くを通り、隣のテーブルでは笑い声が上がる。厨房からは油のはねる音がしていた。
一二三は枝豆を一つ取った。
「……お前」
「うん」
「今日、俺を殴りに来たの?」
「呼ばれたから来た」
「言葉で殴ってるよ」
「ごめん」
「軽いな」
「でも」
丞は続けた。
「違うなら違うでいい」
「違わないから腹立つんだよ」
「じゃあそうなんじゃない」
「もうちょっと否定しろよ」
丞には、どうしてほしいのか分からなかった。
「お前はさ」
一二三が言った。
「そうやって全部理屈で考えるから楽なんだよ」
「そう?」
「そうだよ」
「でも俺、別に楽じゃないよ」
一二三が少し意外そうな顔をした。
「お前が?」
「うん」
「何が」
「人と話すの疲れるし」
「それは知ってる」
「仕事も別に楽しいわけじゃない」
「それも昨日聞いた」
「でも辞めない」
「何で」
「困ってないから」
「それが分かんないんだよ」
一二三は身を乗り出した。
「満足してないのに、何でそのままでいられるの?」
丞は少し考えた。
「満足しないとダメなの?」
一二三が止まる。
「いや」
「仕事って満足するためにやるの?」
「そういう話じゃ」
「じゃあ何のため?」
「生活とか」
「ならできてる」
「でも人生って仕事だけじゃないだろ」
「うん」
「だからもっと」
「もっと?」
また、一二三が止まった。
丞はたぶん、この「もっと」が一二三を苦しめているのだと思った。
もっと面白い人生。
もっと自分に向いている仕事。
もっと好きなこと。
もっと自由。
もっと納得できる生き方。
けれど、その「もっと」の中身は何もない。
「なあ」
丞が言った。
「何」
「今の会社辞めたら何したい?」
「だから探す」
「旅行?」
「それもいいかも」
「どこ」
「海外とか」
「どこ」
「……ヨーロッパとか」
「何しに」
「景色見たり」
「興味あった?」
一二三が黙る。
「起業?」
「それも考えた」
「何の会社」
「それはまだ」
「資格取る?」
「別に欲しい資格ない」
「転職?」
「同じことじゃん」
「何が」
「また会社員になるだけだろ」
「じゃあ何が嫌なの」
「だから」
一二三は頭をかいた。
「このままなんだよ」
丞は黙った。
「朝起きて」
一二三は続ける。
「電車乗って」
「うん」
「会社行って」
「うん」
「仕事して」
「うん」
「帰って」
「うん」
「彼女と会って」
「うん」
「たまにお前と飯食って」
「うん」
「それで一年経って」
「うん」
「また一年経って」
「うん」
「気づいたら四十だぞ」
「うん」
「それ、怖くない?」
丞は考えた。
「別に」
「お前とは人生観合わねえな」
「昔からだろ」
「もう少し共感しろよ」
「してる」
「どこが」
「怖いんだなって思ってる」
一二三は黙った。
「でも」
「うん」
「四十になるのは、何してても同じじゃない?」
一二三が眉を寄せた。
「会社辞めても」
「うん」
「旅行しても」
「うん」
「起業しても」
「うん」
「四十になるだろ」
「当たり前だろ」
「じゃあ四十になるのが嫌なんじゃないよね」
「……」
「何もしてない気がするのが嫌なの?」
一二三は少し長くビールを飲んだ。
「たぶん」
ようやく言った。
「そうかも」
丞は頷く。
「じゃあ何かすれば」
「だから会社辞めて」
「辞めなくてもできるだろ」
一二三が止まった。
「何が」
「何か」
「だから何かって何だよ」
「俺が決めるの?」
「お前が言ったんだろ!」
一二三は笑った。
丞も少し笑った。
こういう時、昔に戻ったような感じがする。
高校の帰り、コンビニの前で何時間もくだらない話をした。一二三はずっと喋り、丞はほとんど聞いているだけだった。
あの頃は、三十歳になればもっと大人になっていると思っていた。
丞も。
たぶん一二三も。
実際には、何も分からないままだった。
「彼女とは」
丞が言うと、一二三の顔が変わった。
「何で今それ出すんだよ」
「朝の話した?」
「まだ」
「話すんだろ」
「今度」
「いつ」
「知らない」
「決めてないの」
「話すことになっただけ」
「結婚したい?」
「分かんない」
「別れたい?」
「別れたくはない」
「じゃあ何が嫌なの」
「お前、今日そればっかだな」
「何が」
「何が嫌なの、何がしたいのって」
「分からないから聞いてる」
一二三はため息をついた。
「友梨亜は」
少し間を置く。
「悪くないんだよ」
「うん」
「別に嫌いじゃない」
「うん」
「むしろ好きだと思う」
「うん」
「でも最近ちょっと」
「重い?」
「そう」
「何が」
「連絡とか」
「うん」
「予定聞かれたり」
「うん」
「結婚の話とか」
「うん」
「なんか、自由なくなる感じがする」
丞は少し考えた。
「でも昨日会ったんだろ」
「会った」
「今日も連絡してる?」
「してる」
「嫌なら返さなきゃいいじゃん」
「それは違うだろ」
「なんで」
「彼女だから」
「じゃあいいじゃん」
「よくないんだよ」
丞は思った。
会社の話と同じだ。
辞めたい。
でも辞めない。
彼女が重い。
でも別れない。
変わりたい。
でも何も始めない。
一二三は、自分で選ばずに選択肢だけを残しておきたいのかもしれない。
会社にいながら、いつでも辞められると思っていたい。
彼女と付き合いながら、まだ自由だと思っていたい。
三十歳だけれど、まだ何者にでもなれると思っていたい。
「ヒフミ」
「何」
「怒る?」
「内容による」
「じゃあ怒ると思う」
「言う前から予告すんなよ」
丞は少しだけ間を置いた。
「お前、選びたくないんじゃない?」
一二三は黙った。
「会社辞めるか決めたくない」
「……」
「結婚するか決めたくない」
「……」
「やりたいことも決めたくない」
「……」
「決めたら他の可能性なくなるから」
一二三は何も言わなかった。
丞は少し怖くなった。
言いすぎたかもしれない。
普段、人と話さない分、一二三には逆に言いすぎる時がある。
「違ったらごめん」
「いや」
一二三はビールを見た。
「続けろ」
「もうない」
「ある顔してる」
「顔で判断するなよ」
「何年一緒にいると思ってんだ」
丞は烏龍茶を飲んだ。
仕方ない。
「何者かになりたいって」
「うん」
「今の自分じゃダメってこと?」
一二三の目が少し変わった。
「……別に」
「でもそう聞こえる」
「だって」
一二三は言葉を探した。
「俺、何もないじゃん」
「あるだろ」
「何が」
「仕事」
「それは会社の仕事」
「彼女」
「それは俺の何かじゃない」
「俺」
「お前を俺の実績にすんなよ」
「じゃあプロジェクト」
「それも仕事だろ」
「じゃあ何ならお前の何かなの」
一二三は黙った。
丞も、それ以上は聞かなかった。
しばらく二人で黙っていた。
店内は相変わらず賑やかだった。
丞は、こういう沈黙なら嫌いではない。
一二三となら、何も喋らなくても気まずくない。
丞にとっては、珍しい相手だった。
「なあ」
一二三が言った。
「うん」
「お前さ」
「うん」
「俺のこと、ダサいと思う?」
丞は少し驚いた。
「何で」
「いや」
「思わない」
「ホントに?」
「うん」
「じゃあどう思う?」
困った。
そういう質問が一番苦手だ。
「めんどくさい」
「お前に言われたくないわ」
一二三が笑った。
今度は少し、ちゃんと笑った。
「でもさ」
一二三は言った。
「お前の言ってること、たぶん当たってる」
「うん」
「会社辞めたいんじゃなくて」
「うん」
「会社辞めて何か始める奴になりたいんだと思う」
「うん」
「夢がある奴」
「うん」
「挑戦してる奴」
「うん」
「そういうのに憧れてるだけかもしれない」
丞は頷いた。
「でも」
一二三が言う。
「それの何が悪い?」
丞は少し考えた。
「別に悪くない」
「だよな」
「でも」
「うん」
「憧れてるだけなら、会社辞めなくてもいいんじゃない」
一二三が止まった。
また嫌そうな顔をする。
「お前さ」
「何」
「俺が気持ちよくなる答え、絶対言わないよな」
「分からないから」
「分かれよ」
「無理」
一二三は笑った。
「じゃあさ」
「うん」
「会社辞める前に、一個やる」
「何を」
「何か」
「また?」
「今度は探す」
「いつ」
「今週」
「何するの」
「だからそれを今から考える」
「今日考えれば」
「飲んでる」
「関係ある?」
「ある」
「ないだろ」
「お前、ホント嫌な奴だな」
丞は少し笑った。
「じゃあ明日」
「うん」
「一個決める」
「うん」
「会社辞めなくてもできること」
「うん」
「それやってみる」
「うん」
「それでダメなら」
「辞める?」
「考える」
そこは「辞める」とは言わないんだな、と丞は思った。
でも言わなかった。
会計を済ませ、二人で駅へ向かった。
夜の町田を歩く一二三は、少し酔っていた。
「タスク」
「何」
「俺さ」
「うん」
「何か始めたら変わるかな」
「何が」
「人生」
「分からない」
「そこは変わるって言えよ」
「でも」
「何」
「始めたって事実は残る」
一二三は少し黙った。
「……それっぽいこと言うな」
「そう?」
「急に賢そう」
「普段から賢いけど」
「腹立つな」
改札前で、二人は別れる。
「じゃあ」
「うん」
「また」
「うん」
一二三が歩き出した。
数歩進んでから止まり、振り返る。
「タスク」
「何」
「ありがとな」
丞は困った。
こういう時、何を返せばいいのか分からない。
「うん」
結局、それしか言えなかった。
一二三は手を上げ、そのまま改札の向こうへ消えていった。
丞は少しだけ、その背中を見ていた。
スマホが震える。
会社の同僚からだった。
『二階堂さん、明日の飲み会来ます?』
丞は画面を見た。
行きたくない。
少し考えて、
『予定があります』
と打つ。
本当は予定などない。
送信すると、少しだけ罪悪感があった。
でも、飲み会は無理だ。
知らない人が多い。何を話せばいいのか分からないし、楽しめる気もしない。
丞はスマホをポケットにしまった。
一二三は、何か始めたいと言う。
自分は、何か始めたいとも思わない。
それでいいと思っている。
多分。
たぶん。
駅のホームへ向かい、電車を待つ人の列に並んだ。
会社員、学生、カップル。
丞の少し前には、明るい髪をした小柄な女性が立っていた。ずっとスマホを見ている。
丞は特に気にしなかった。
電車が来た。
扉が開き、人が乗る。
丞も乗った。
その女性も乗った。
それだけだった。
この時、丞はまだ知らない。
数日後、その女性から突然、
「この前はありがとうございました!」
と頭を下げられることを。
そして自分が、何もしていないことを。
ご意見ご感想あればぜひぜひコメントしてください。一言でも構いません。励みになります。
私はいつでもMinority




