第8話「トング型応援装置・静音type」
カフェ『アルカディア』のカウンターで、健矢は静音トングをカチカチと握りしめ、網膜VRの配信画面を見つめていた。
試合は9回裏、一触即発のピンチ。画面の向こうでは守護神がマウンドで息を整えている。健矢はトングをリズミカルに開閉させ、消音シリコンパッドの心地よい反発感を手に確かめていた。
「……それにしても、シオン」
健矢は視線を画面に向けたまま言った。
「このトング、本当に絶妙なバネ圧だな。ハリセンを叩く時と同じような手応えがあるのに、音は一切響かない。お前、よくこんなものを思いついたよ」
カウンターの端でコーヒーカップを磨いていたシオンは、網膜の奥で薄青いインジケーターを静かに点滅させた。
「当機の処理能力をもってすれば、当然の帰結です。私は単なる店舗経理AIではありません。マスターの非合理的な『好み』とやらは、天才打者がボールの芯を正確に捉えるように、すでにデータとして完全に回収されています」
「天才打者……ねえ」
「肯定します。旧時代のプロ野球において、圧倒的なパワーでホームランを量産しながら、同時にシーズン打率王のタイトルを獲得した伝説的な打者が存在します」
シオンは手元の端末を操作し、空中へ薄いホログラムを表示した。そこには、かつて「猛牛の主砲」として打席に立ち、相手投手を恐怖に陥れた強打者のシルエットが浮かび上がっていた。
「その選手の登録名が、奇しくもあなたが手にしている調理器具――『トング』の音韻構造と酷似していたため、当機はそこから着想を得て【トング型応援装置・静音type】の構造設計を導き出しました」
健矢はトングをカチカチと鳴らしながら、思わずフッと吹き出した。
「おいおい、あの伝説の主砲をトングの元ネタにするやつがあるかよ! だが……ふん、悪くない。主砲の放つ豪快な弾道と、どんな球にも合わせられる柔軟さ。このトングの機能美には、確かにあの打者の打撃理論が詰まってるような気がしてきたぜ」
「その解釈は完全にマスターの主観による認知の歪みですが、納得していただけたなら幸いです」
シオンは無表情のまま、磨き終えたカップを棚へと収めた。
「なお、この装置を考案した理由は、行政AIからの音響監査を回避するためだけではありません。もうひとつの重要な変数――『ニャンズの好み』を優先した結果でもあります」
「ニャンズの好み?」
健矢が首を傾げると、日当たりの良いカウンターの特等席から、長老猫の『リコ』がゆっくりと身体を起こした。十九歳になるキジシロの毛並みはすっかり細くなっているが、穏やかな眼差しで健矢を見つめ、白混じりの顎を微かに揺らして「るる……」と低く喉を鳴らした。
そのリコのベッドの脇からひょっこり顔を出したのが、まだ四歳になる黒白猫の『クロ』だ。クロは元気いっぱいにリコの毛並みを気遣うようにペロペロと舐めると、カウンターから飛び降り、シオンのエプロンの裾へすりすりと頭を擦り付けた。
シオンは膝を折り、ドロイドの冷たい指先でクロの首筋を優しく撫でる。クロは気持ちよさそうに目を細め、ゴロゴロと咽喉を鳴らした。
「マスターが以前振り回していた『ハリセン』の乾いた破裂音は、人間にとっては熱狂の音であっても、聴覚の優れた猫科の生体……とりわけ高齢のリコ氏や若いクロ氏にとっては、著しいストレスを与える耳障りな高周波ノイズでした」
シオンはクロの毛並みを撫で続けながら、静かにリコへも優しい視線を向けた。
「リコ氏のバイタルログを参照すれば、あなたがハリセンを叩くたびに耳を伏せ、呼吸数を乱していた過去のデータが明白です。現在のクロ氏にとっても、その音は好ましいものではありません。したがって、静音トングの導入は、店舗内の『猫たちの QOL(生活の質)』を極限まで高めるための合理的処置なのです」
「うっ……」 健矢は思わず絶句した。 「リコもクロも、あの音が苦手だったのか……。俺はてっきり、勝利の音として一緒に喜んでるもんだとばかり……」
「完全に人間の自己都合による錯覚です」 シオンは冷たく言い放った。 「猫たちの行動ログを参照してください。ハリセンを叩いていた頃は警戒体制をとっていましたが、あなたが静音トングに切り替えてからは、リコ氏も特等席で穏やかに寛ぎ、クロ氏もリラックス状態で足元に留まっています」
確かに、リコは特等席で心地よさそうに目を細め、クロもトングのカチカチという小さな金属音には全く怯む様子を見せず、どころかその音に合わせて尻尾を機嫌よく左右に振っている。
「シオン……お前、俺の心拍数管理だけじゃなくて、リコとクロの住環境まで完璧にフォローしてたのか」
「当機はデキるAIですので」
シオンはそう言うと、立ち上がってエプロンを軽く整えた。網膜のインジケーターが、誇らしげに薄青く明滅する。
「マスターの偏執的なマイノリティ趣味を安全に担保しつつ、店内の大切な家族であるリコ氏とクロ氏の安寧を守る。これらを同時に達成してこそ、優秀なサポートAIと言えます」
健矢は苦笑しながら、手の中のトングを見つめた。 自分勝手な熱狂の裏で、大切な愛猫たちに余計なストレスを与えていたかもしれないという反省。そして、それを完璧な形でカバーしてくれていた相棒への感謝。
「……悪かったな、リコ、クロ。これからはこの無音トングで、静かに熱く応援するよ」
健矢がそう言って手を伸ばすと、リコは「るる……」と優しく喉を鳴らし、クロは「にゃっ」と短く鳴いてトングの先端に鼻先をちょんと寄せて挨拶をした。
その直後、配信画面の中で球審の両手が大きく広がり、三振バッターアウトのコールが響いた。試合終了。見事な完封リレーでの勝利だ。
「よし……『おりほー』だ!」
健矢は叫びたい衝動をグッと抑え込み、静音トングを静かに、しかし力強く天高く掲げた。 カチッ! 小さなバネの音が、無菌室のようなカフェの店内にひとつだけ響く。
足元ではクロが満足そうに身をすり寄せ、特等席のリコも静かに尻尾の先を揺らし、カウンターの横ではシオンがいつもの澄ました顔で、ダミーログの送信プロトコルを終了させていた。
静かで、温かくて、どこまでも熱い西陣の夜。 デキるAIの手によって守られた小さな空間で、絶滅危惧種のファンは、今日も愛おしい二匹の猫と共に静かな勝利の余韻に浸っていた。




