第7話「朝カレー」
カフェ『アルカディア』のカウンター奥で、健矢は背筋をピンと伸ばし、腕を組んで天を仰いでいた。
朝食のメニューは質実剛健そのものだ。昨日炊いて余っていた冷やご飯を温め直し、香ばしく焼いた塩鮭、豆腐とワカメの味噌汁、そして小皿に盛った即席の漬物。
普段の健矢なら、これらを無言かつ確実な足取りで胃袋へ落とし込み、食後に大福をつまんでストイックにエネルギーを満たすのが朝のルーティーンである。
しかし、今朝の健矢の前には、大きな深皿に盛られた「ルー」がなみなみと注がれたカレーライスが鎮座していた。
湯気と共に香辛料の鋭い香りが店内に漂う。健矢はスプーンを握り締め、まるで何かの儀式に臨むかのように、粛々とそのカレーを口へと運んだ。
「マスター」
音もなく滑り出してきたシオンが、薄青い双眸のインジケーターを静かに明滅させた。
「着任以来、あなたの朝食ログを監視しておりますが、本日のメニューは極めて異例です。普段のあなたは『いいお米はお客様のもの。閉店後しか手は付けない』という職人のプライドに基づき、まかないの炭水化物は昼のパスタ、朝は和食と大福で固定されています。なぜ今朝、店のメニューでもあるカレーを、しかも朝一番からガッツいているのですか?」
健矢は至高の表情でカレーを咀嚼し、ゴクリと飲み込んでから言った。
「味の確認だよ、シオン。店主として、たまにはメニューのクオリティをチェックしなきゃならん。……それにだな、ファンとしては『朝にカレーを食べる』ということ自体に、計り知れない意味があるんだよ」
「意味、ですか」
シオンは淡々と手元の端末へデータを呼び出す。
「栄養学的に見れば、朝のスパイス摂取による代謝向上効果は認められます。しかし、あなたの言い方には特定の固執……いわゆる『思想』の匂いを検知します」
健矢はスプーンをぴたりと止め、誇らしげに胸を張った。
「ふん。朝カレーと言えば、あのレジェンド中のレジェンドだろ。青い波を背負い、全米を揺るがし、圧倒的な俊足好打と圧巻の守備で世界を魅了した、あの背番号『51』の伝説的存在だよ」
「……データの合致を確認しました」
シオンの瞳の奥で光が高速で明滅する。
「旧時代のプロ野球において、日米通算4367安打を放った伝説的打者ですね。毎朝、夫人の作ったカレーを食べ続けていたという逸話が有名です」
「そうだ!」
健矢は熱っぽく語り始めた。
「我が球団がかつて神戸を本拠地にしていた頃、青いユニフォームを風になびかせてグラウンドを駆け抜けたあの勇姿……! 完璧なルーティーンを崩さず、孤高の領域でヒットを積み重ねた姿は、まさに『猛牛....いや、青波魂』の至高の象徴なんだよ。ブルーサンダーなんだよ!だから俺も、あの域に少しでも近づくために、こうして朝からカレーを食うんだ。これは単なる食事じゃない、歴史へのリスペクトだ!」
熱弁を振るう健矢に対し、シオンは慇懃無礼なトーンで冷たく言い放った。
「マスター。思考回路の『猛牛化』および『妄想化』を検知しました。冷徹なデータを提示します」
シオンは空中へホログラムのグラフを展開した。
「まず第一に、そのレジェンド選手が朝食にカレーを食べ続けていたのは主に『北米の球団』に所属していた時期であり、あなたが歓喜している『神戸時代』の初期においては、必ずしも毎朝カレーではなかったという記録が残されています」
「う……ま、まあ、ルーティーンの完成形があそこだったって話で……」
「さらに言えば、マスター」
シオンは追撃の手を緩めない。
「あなたが今食べているそのカレーの米は、『昨日炊いて余った冷やご飯を温め直したもの』です。レジェンド選手が追求した緻密なコンディショニングと、あなたの『あまりものの消費』を同列に扱うのは、データに対する侮辱と言えます」
「あまりものって言うな! メシを粗末にしないのも職人のプライドだ!」
「さらに追撃します」
シオンは画面をスワイプし、悪魔のような数値を突きつけた。
「現在、管理AIのデータベースにおいて『朝カレーを食べてレジェンドの気分に浸っているプロ野球ファン』のセグメントを抽出しました。全体の99.1%は、あの『有名な大リーグのキャップを被ったファン』、あるいは『文京区のドームを本拠地にする球団のファン』で占められています」
「……ッ!」
「マスターのように『神戸時代の青い波』に思いを馳せながら、京都の片隅で昨日の冷や飯カレーを朝からガッツいている個体……。さらに【自転車で県を跨いでドームまで通う狂気的なファン】というセグメントまで条件を絞り込んだ場合――」
シオンは静かに、人差し指をすっと立てた。
「やはり、この日本全域において【3人】しか存在しません」
「またその『3人』かよ!!」 健矢は思わずカウンターをバンと叩いた。 「毎回毎回、俺をその極小セグメントにぶち込むのをやめろ! 偏りが酷すぎるんだよ!」
「事実です」
シオンは淡々とホログラムを消去した。
「AIの確率予測において、マスターのその行為はレジェンドへの接近ではなく、単なる『悲哀に満ちた絶滅危惧種の自己満足』と分類されます。ちなみに、そのカレーの総カロリーは780kcal。今夜の夜間実走に向けたエネルギー補給としては適切ですので、無駄な熱弁を振るわずに速やかに完食してください」
「言われなくても食うよ!」
健矢は悔しそうに眉をひそめながらも、再びスプーンを動かし、勢いよくカレーを口へ放り込んだ。
マジョリティの熱狂からも、完璧なAIの管理からも切り離された西陣のカフェ。世界にたった3人しかいない偏屈なファンのひとりとして、健矢は今日もしぶとく、伝説の残り香をその身に宿してペダルを漕ぎ出すためのエネルギーを蓄えていた。
シオンは、そのあまりにも非合理的で愛おしい主人の咀嚼音を、静かにログへと記録し続けるのだった。
「また」の出典...もとい、出火元はこちらになります(笑)
https://ncode.syosetu.com/n8592mp/4




