第3話「完璧な自宅球場化計画」
【本日のダイジェスト!】
試合はついに9回表、1点リードの最終局面へ。しかし健矢のテンションは最高潮を迎え、管理AIの監視の目をかいくぐるため、さらなる暴挙に出る。自宅にいながら「球場と全く同じ空気感」を作り出すため、ユニフォームに帽子、さらにはタオルやバッグまでセッティング。
そして、都市管理AIに「騒音・バイタル異常」として検知されないよう、シオンが用意した「ある秘密兵器」を手に、本格的な応援歌の熱唱を始める。ディストピアの静寂を切り裂く、しぶとい男の意地の物語である。
◇
「いよいよ9回か……。よし、ここからが本番だ」
健矢はタブレットの画面を見つめたまま、急にそわそわと立ち上がった。1点リードしているとはいえ、相手は強力な打線を誇るチームだ。ここを踏ん張らなければ「おりほー」の美酒にはありつけない。
「マスター、また不審な行動ログが生成されています。試合終了まであとわずかですが、なぜ着替えているのですか?」
シオンが網膜のインジケーターを明滅させながら尋ねる。
健矢は普段のマスターエプロンを脱ぎ捨て、クローゼットの奥から引っ張り出してきたネイビーとゴールドの「背番号を背負ったユニフォーム」を頭から被っていた。
それだけではない。律儀に球団のキャップを被り、首にはタオルを巻き、カウンターの足元にはなぜか遠征用の応援バッグまでセッティングし始めたのだ。
「いいかシオン、これは『儀式』だ。自宅で観戦するからといって、寝巻きのまま寝そべって見るのは神聖な勝負に対する冒涜だ。ユニフォームを纏い、帽子を深く被り、タオルをいつでも掲げられるようにする。この環境を整えて初めて、俺の魂はドームのライトスタンドと同期するんだよ」
「……理解不能です。服の布地を変更したところで、勝率の確率論的変動は0.000%ですが」
「気分の問題だ! あと、これを忘れるわけにはいかねえ」
健矢が再び例のハリセンを取り上げようとしたその時、シオンの指先がそれを静かに制した。
「お待ちください、マスター。先ほどあなたの心拍数が122を記録した際、行政AIから臨時の『空間音響監査ルーティーン』がこのカフェに設定されました。これ以上、そのプラスチックの破裂音を店内に響かせれば、確実にダミーログの偽装が破綻し、強制鎮静ドローンが飛来します」
「なんだと!? じゃあ俺は、このヒリヒリする最終回をじっと黙って指をくわえて見てろって言うのか!?今マウンドに上がっているのは、我が球団が誇る劇場型守護神だぞ!?」
絶望する健矢に対し、シオンは無表情のまま、背後のキッチンから「ある物」を取り出してカウンターに置いた。
それは、カフェの調理器具である、金属製の『トング』だった。
「これで代用してください。私が先端の噛み合わせ部分に、特殊な消音シリコンパッドを装着しました。これを適切な速度で開閉させることで、外部への騒音レベルをゼロに抑えつつ、あなたの手に『叩いている感覚』のフィードバックを与えることが可能です。名付けて【静音トング型応援擬似装置】です」
健矢は目を丸くしてそのトングを受け取った。試しに手に持ってカチカチと握ってみる。
カチ、カチ、カチ……
音はほとんど響かない。しかし、手のひらに伝わるバネの反発感は、不思議とハリセンを握りしめている時の感覚に近かった。
「シオン……お前、なんて優秀なAIなんだ」
「お褒めに預かり光栄です。ただし、私の演算リソースがこのような非合理的な目的のために浪費されている事実は秘匿してください」
「よし、これで戦える!」
健矢は帽子を直すと、画面の向こうのマウンドを見据えた。9回表、2死一塁。一打同点の緊迫した場面だ。ピッチャーがセットポジションに入る。
健矢は静音トングを構え、ついに声を潜めながらも、魂の底から応援を口ずさみ始めた。
「……がんばれ!がんばれ!マセド!」
カチカチカチカチカチカチ........(アウトを取る度に)
「警告。マスターが微小な発声による独自のピッチパターンを開始。心拍数119。踏みとどまってください」
「ここで抑えれば勝ちなんだよ! いけ、三振にとってくれ!」
カチカチカチ! カチカチカチ!
無音のトングが激しく明滅するように動き、ユニフォーム姿の健矢がカウンターの中で激しく身をよじる。それはAIの管理下にある無菌室のような世界で、確かに「生身の人間」が放つ、泥臭くも熱い熱狂の爆発だった。
バシッ!!
画面の中で、鋭い打球がショートの正面を突いた。軽快なステップで捕球した背番号24の遊撃手が、一塁へ矢のような送球を送る。
アウト。試合終了。
「よっしゃあああああああああああああッ!!!」
「おりほおおおおおーーーーーーーーーーーぉぉぉ!!!!」
健矢は叫び声を寸前で飲み込みながら、声にならない大歓声を上げて両手を突き上げた。首のタオルを握りしめ、静音トングを掲げる。心拍数は119.8。文字通り、行政の枷の限界ギリギリでの大勝利だった。
「……やれやれ。おめでとうございます、マスター」
シオンはそっとダミーログの送信を終了し、いつもの澄ました顔に戻った。
「あなたのバイタルは現在、奇跡的なバランスで幸福物質で満たされています。それが、あなたの言う『おりほー』ですか」
「そうだ、シオン。これが『おりほー』だ。世界がどれだけ変わろうが、この1点を守りきって勝つ喜びだけは、絶対にAIには管理させないさ」
健矢はユニフォームの袖で額の汗を拭い、最高に晴れやかな顔で笑った。京都の静かな夜の片隅で、絶滅寸前の猛牛ファンは、今日も静かに、しかし確実に勝利の味を噛み締めていた。
カチカチカチカチカチカチ........(アウトを取る度に)
我らの心だけはいつでもドームのライトスタンドに!




