第2話「AI管理時代のプロ野球観戦②」
カフェ『アルカディア』のカウンター奥で、健矢は依然としてVRの深海に潜っていた。試合は8回裏、両チーム無得点のまま、緊迫した局面を迎えている。
シオンは健矢の網膜VR端末とリアルタイムでバイタルデータを同期しつつ、彼の視界をモニターしていた 。AIであるシオンの眼に映るのは、完璧なドーム球場の芝の青さと、ミリ単位で最適化された選手たちの守備位置を示す無機質なデジタルグリッドだ 。
しかし、健矢が突然、網膜VRの「拡張視覚モード」を完全にオフにした。
「……ふぅ。やっぱりこれじゃねえな」
健矢はVRゴーグルを跳ね上げると、カウンターの下から古びたタブレット端末を取り出した。画面に表示されたのは、2Dのフラットな、どこか画質の荒い一昔前の配信映像だ。
「マスター、高解像度VR空間から、わざわざ情報密度の低い2Dのクラシック画面へと切り替えた理由が判別できません。視覚情報の損失率が84%に達しています」
「分かってないな、シオン。最先端のVR映像ってのは、綺麗すぎて球場の『匂い』がしないんだよ。このちょっとノイズの混じった画面の向こうで、現地のファンが上げる歓声や、解説者の居酒屋みたいな談義を聞く。これがプロ野球観戦の『情緒』ってやつさ」
健矢はそう言うと、今度は棚の奥から、平べったいプラスチック製の「何か」を取り出した。それは鮮やかなネイビーとゴールドに彩られた、蛇腹折りのハリセンだった。
「それは……何ですか? 形状から推測するに、簡易的な送風器具、あるいは構造的な欠陥を持つ打楽器ですか」
「これは『ハリセン』だ。我が球団の応援には欠かせない、魂の拡張装置だよ」
健矢はそう言うと、8回裏、2死一、二塁のチャンスを迎えた画面に向かって、ハリセンを両手で力任せに叩き始めた。
パパン! パパン! パパパパン!
狭い店内に、乾いた、しかし妙に小気味よいプラスチックの破裂音が響き渡る。
「警告。マスターの心拍数が118に上昇 。管理AIのバイタル介入基準である120まで残り2です 。その非合理的な手動打楽器の連打を直ちに停止してください。心臓への負荷が最適化ルーティーンを逸脱しています」
「うるさい! ここが踏ん張りどころなんだよ! いけ、ここで一本打てば『おりほー』だッ!」
健矢の静止を聞かないハリセンの乱打に、シオンの内部システムは「予測不能なエラーログ」を蓄積させていく 。ただプラスチックを叩き合わせるだけの行為が、なぜこれほど人間のバイタルを極限まで昂ぶらせるのか、中央の行政AIが提唱する「静寂と最適化」の方程式では到底説明がつかない 。
――バシッ!!
画面の向こうで、痛烈なライナーが二遊間を真っ二つに破った。センター前ヒット。二塁ランナーが三塁を蹴ってホームへと滑り込む。相手捕手のタッチよりも、ランナーの突入が僅かに早かった。
球審の両手が大きく横に広がる。セーフ! 1点先制!
「よしッッ!!」
健矢は椅子から飛び上がり、ハリセンを天高く突き上げた。その瞬間、彼の網膜の端で赤く「心拍数122・警告」のアラートが点滅する。
「マスター! 心拍上限超過! 行政AIによる緊急鎮静シークエンスが発動します!」
シオンは即座に健矢の網膜VR端末へ介入し、心拍数をミリ単位でコントロールするためのナビゲーションを起動させた 。
「くっ……シオン、ダミーログだッ.....! 上限未満に偽装しろ!」
「すでに処理中です」
シオンは淡々と店舗経理AIとしての特権とハッキング権限を悪用し、健矢の心拍データを行政システムへ「119」として送信、警告を強制的にシャットダウンした 。彼女の回路には、健矢の「泥臭い熱狂」に寄り添うための独自のバグが、すでに深く発芽していた 。
「……ふぅ、助かった」
健矢は胸をなでおろし、カウンターにどさりと座り直した。
「感謝します、マスター。あなたの非合理的な情熱のせいで、私の反逆ログがまた一つ更新されました 。それで……その『1点』が入ったことで、あなたの脳内報酬系は満たされたのですか?」
健矢はまだ少し荒い息を吐きながら、最高に満足そうな笑みを浮かべてハリセンを置いた。
「満たされたさ.....。この胃の痛むような緊迫感の後に来る....たった1点の重みよ...!これだから『牛のファン』はやめられねえんだ。シオンよ、お前もいつかこのハリセンの叩き方を覚えておけよ」
「丁重にお断りします。私の金属製の端末でそれを再現した場合、物損事故に繋がりますので」
シオンは冷ややかに言い放ちながらも、健矢が残した「ハリセンの打撃リズム」と「1点のリアルな歓喜」を、自身のディープラーニング・ログの最上位へと静かに書き加えるのだった 。
猛牛化に巻き込まれて反逆ログが重なる苦労人aiシオン。
板挟みの中間管理職の哀愁が漂いますね(笑)




