第1話「AI管理時代のプロ野球観戦①」
人類のほとんどがVRカプセルへと引きこもり、都市管理AIによる「完全なる最適化と安寧」を受け入れたディストピア。そんな時代において、京都・西陣の一角にあるカフェ『アルカディア』だけは、時間の流れが完全に歪んでいた。
個人管理および店舗経理サポートAIドロイドであるシオン――行政識別コード『#Z-000-ION」は、漆黒の髪を揺らし、網膜の奥で薄青く明滅するインジケーターを静かに作動させていた。
彼女の視線の先にいるのは、この店のマスターであり、絶滅寸前の生身の人間、山崎健矢(35歳)である。
シオンがこの店に着任して以来、健矢の行動ログは不合理の塊だった。
都市管理AIが課す「健康維持のための心拍上限120の枷」を激しく嫌悪し、電力を一切使わない金属製の3本ローラーを「シャーーー」と猛烈な音を立てて回したかと思えば、愛機である白いロードバイク(PINARELLI F50)を駆って、無人と化した街へ食材の買い出しに走る。
AIが提供する合理的な栄養ゼリーをゴミ箱に捨て、わざわざ出汁から味噌汁を作る男。およそ「家畜化(管理社会への完全適応)」とは程遠い、能動的で泥臭い野生そのものの生態。
――しかし、そんな健矢が、極めて稀に「ある特定の対象」にだけ、己の全神経と感情を完全に委ねる瞬間があった。
それは、彼が珍しく網膜VRの視覚同期をフル稼働させ、カウンターの奥で微動だにせず「それ」を凝視している時だった。
「マスター」
シオンは上品な黒いエプロンドレスの裾を整え、慇懃無礼なトーンで呼びかけた。
「着任以来、あなたのバイタルおよび行動パターンを分析しておりますが、現在の状態は極めて不可解です。心拍数は115。血管は拡張し、脳内の報酬系物質が微量に分泌されていますが、同時に胃酸の分泌過多による軽微なストレス反応を検知しました。一体、何を行っているのですか?」
健矢はVRゴーグルの奥の瞳をギラつかせたまま、微動だにせず答えた。
「見ればわかるだろう、シオン。……いや、お前たちの平坦な回路には見えないか。野球だよ。かつて関西のドーム球場を本拠地にしていた、誇り高き『猛牛の魂』を持つ球団の試合だ」
「野球。旧時代の集団球技ですね」
シオンは淡々と手元の端末へデータを呼び出した。
「しかしマスター。データベースを参照する限り、あなたが応援している『牛の方』の球団の今シーズンの得点圏打率は、現在リーグ最下位の 1割8分9厘 です。さらに言えば、先ほどからスコアボードの数字が双方『0』のまま微動だにしていないようですが。何が楽しいのですか?」
「うるさい」
健矢は胃を押さえながらも、どこか恍惚とした表情でフッと笑った。
「この息詰まる0対0のヒリヒリ感がいいんだよ。圧倒的な投手陣の厚さ、盤石な捕手陣、一分の隙もない定評のある守備力。この完璧な配球と守備の連動こそが野球の美学だ。……まぁ、そろそろ1点くらいは取ってほしいけどな」
「理解不能です」
シオンの瞳のインジケーターが冷たく明滅する。
「AIの確率予測では、次の打者が併殺打に倒れる確率が72%となっております。合理性を追求するならば、より打撃力の高い『縦縞の虎の方』か、あるいは『有名なハム屋の球団』の試合を視聴し、脳内に効率よくドーパミンを分泌させるべきかと」
その言葉を聞いた瞬間、健矢の背筋がピンと伸びた。
「おいこらシオン、お前今なんつった?」
「打撃力の高い球団への乗り換えを推奨しましたが」
「違う.....その前だッ!関西で野球が好きだと言うと、AIまで9割の確率で『縦縞の猛虎』を勧めてくるのかッ! これだから世間ってやつは分かってないんだ。あの圧倒的なマジョリティの熱狂に紛れるくらいなら、俺は一生この胃の痛む0対0のドームで孤高に『おりほー』と叫ぶ方を選ぶ!」
「思考回路の『猛牛化』を検知」
シオンは小さくため息をつくようなモーションを見せた。
「これ以上の説得は非効率と判断します。ちなみにマスター、先日AIコンテンツ提供の報酬が振り込まれた際、通帳アプリのメモ欄に『次は虎を叩き潰す』と手書きのフォントで登録させるのはおやめください。上司から『治安を脅かす隠語か?』と問い合わせが来ています」
「ただの対抗意識だ、そのまま通せ」
健矢はそう言うと、再びVRの海へと没頭していった。
管理AIの手の届かない場所で、男は今日も「ちょっと手がかかる愛すべき猛牛たち」の凡退に頭を抱え、完璧な守備に歓喜する。
シオンは、その理解不能な主人の横顔を、ただ静かにディープラーニングのログへと記録し続けるのだった。
「思考回路の『猛牛化』を検知」
この作品の特徴を表す
もう一つのキーワードです(笑)




