9.眼鏡の下は猛獣
──漆黒の夜空には大輪の花火が鮮やかに咲き乱れている。
持続的に聞こえる「ドーン」という地響きのような爆音は、どこか遠くの世界の出来事のようで、二人が立つ高台には、張り詰めた沈黙だけが流れていた。
そして、エリオットの目から迷いが消えた──
「……あぁ、旦那様、奥様。申し訳ありません。私は本日、お二方との誓いを破り──大罪人となります」
ぽつりと、しかし驚くほど深く、響くような低音でエリオットは呟いた。
それはいつもマリアが耳にしていた、よく通る丁寧なバリトンボイスではなかった。
背筋をぞくりと震わせるような、甘く、冷ややかで、けれど底知れぬ熱を孕んだ「男」の声音──
マリアが驚いて息を呑んだ瞬間、エリオットは、自身の素顔(本性)を隠すためだけにかけていた銀縁の眼鏡を静かに外した。
それを、浴衣の袂に滑り込ませる何気ない仕草さえ、今のマリアには刺激が強すぎるほど艶やかに見えた。
その瞬間──
彼の瞳から、温和で冷静な「執事」の光が完全に消え去った。
代わりに宿ったのは、飢えた肉食獣のような、獰猛で、傲慢な「男」の独占欲と、極上の獲物を決して逃がさないと決めた、ギラギラとした野生の輝きだった。
「お嬢様。──いいえ、マリア」
「エ、エリオッ……っ!?」
名前を呼ばれた瞬間、マリアの細い腰が、骨が鳴るほどの力強さで強引に引き寄せられた。
押し付けられた彼の胸板は、普段の衣服の上からでは想像もつかないほどに分厚く、男らしく、熱い。
「んむ……っ!?」
驚きで声を漏らすマリアの額に、エリオットは自身の額をこつんと押し当て、吐息が触れ合う距離で、いたずらっぽく、そして魅惑的な笑みを浮かべた。
「その続きをレディに言わせるほど、私は下衆な男ではありませんよ」
「──エリオット」
至近距離から熱い視線でじっと見つめられ、マリアの思考が麻痺した瞬間、容赦なく、けれどひどく愛おしそうにエリオットの唇が重ねられた。
「ん……っ、ふぅ……」
それは、マリアが夢想していたどんなものよりも深く、重く、甘い痺れるようなキスだった。
驚きで強張る彼女の身体をエリオットが腕力でねじ伏せ、さらに強く抱きすくめる。
何度も、何度も角度を変えて彼女の息を奪い、その甘い吐息をすべて自分の身体に落とし込むように、深く、執拗に、溺愛の接吻を重ねていく。
思考を奪われたマリアは、これまで張り詰めていた「伯爵令嬢としてのプライド」が、一瞬にして粉々に砕け散っていった。
マリアはただ、彼の放つ圧倒的なオスとしての熱に浮かされ、その強靭な首に自分の細い腕を絡めることしかできなかった。
夜空に咲くひときわ大きな花火の爆音の中、ようやく唇がゆっくり離された。
マリアの頭は完全に真っ白になり、エリオットの胸にすがりついて、乱れた呼吸を整えるのが精一杯だった。
エリオットは、今まで見せたことのない妖艶な、そしてすべてを支配するような薄笑いを浮かべ、彼女の顎を細い指先で乱暴に、けれど愛おしそうにクイと持ち上げた。
「マリア。もう、遅いですよ。あなたの方から私の檻を壊し、目覚めさせてしまったのですから。この私から逃げられるなどと思わないでください」
掠れた声は低く、どこまでも独占欲に濡れていた。
「私は普段、主人に尽くす執事ですが……一度手に入れた獲物に関しては、極めて執念深く、そして強欲な男です。これから一生、あなたのその可愛いお口から『ツン』が出ないよう、毎日身も心も甘やかし、二度と私なしでは生きられない身体にして差し上げます。覚悟はよろしいですか? マリア」
マリアは顔をこれ以上ないほど真っ赤に染めながら、涙の浮かんだ瞳で彼を睨みつけた。
けれど、その瞳にはもう、頑なな拒絶の色は一切ない。
ただ一人の男にすべてを支配されることを受け入れた、極上の甘い素直さがそこにあった。
「え、ええ……、望む、ところよ……っ。私を、一生……離したら、承知しません、から……っ」
マリアは、世界で一番可憐な、そして愛に満ちた素直な笑顔を咲かせた。
◇
「……っ、う、うわああああん!! お嬢様が、お嬢様がやっと素直になられたーーーッ!!」
ロマンチックな余韻を切り裂くように、背後の生垣から、滝のような涙声の野太い大絶叫が響き渡った。
「な、なにごと!?」
驚いてエリオットの胸から飛び退こうとするマリア。
しかし、エリオットは彼女の腰をがっしりと抱いたまま、微動だにせず冷ややかな視線を背後に向けた。
花柄レースのハンカチがぐちょぐちょになるほど涙と鼻水を拭きながら、ギルバートがドスドスと近づいてくる。
その後ろからは、アルバインが感慨深い表情で頬に伝う涙を上品に拭っていた。
「お、お嬢様……! 旦那様と奥様が亡くなられてからというもの、ずっと一人で肩肘を張って……! こんなに立派に、愛を実らせて……! 私は、私はもう死んでも悔いはありません!」
「ちょ、ちょっと、ア、アルバイン……」
「やれやれ。覗きとは、皆さん相変わらず悪趣味ですね……」
エリオットは低くため息をつきながら、浴衣の袂から眼鏡を取り出し、再び鼻梁にのせた。
レンズの奥には、いつもの完璧で物腰柔らかい「完璧な執事」の微笑みが戻る。
しかし、マリアの腰を抱く腕の力だけは、これっぽっちも緩んでいなかった。
「お、おい! エリオット、まだお嬢を抱きしめているな! 役得すぎるぞ!」
「いいえ、ハンツ。これは私の『所有権の主張』です。これからは主従ではなく、夫婦としてマリアを私の愛で満たす所存ですので。皆様も温かく見守ってください」
「くぅーっ! 言うようになったな、猛獣め!」
使用人たちの野次と笑い声が、夜空に響き渡る。
その過剰すぎるほどの温かい愛に包まれながら、マリアの瞳から、ついに一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは孤独から解放され、心からの幸せを感じたときに流れる温かい涙だった。
マリアは涙を手で拭うと、集まった使用人たちに向かって、これまでにないほど凛とした顔で言った。
「みんな……。うるさいわよ! 静かにしなさい!」
「あはは、いつものお嬢様だ!」
ハンツがニコニコしながらマリアを見つめた。
「まあまあ、お嬢様ったらぁん。可愛いお目々が赤くなって、白磁のお肌も。あとでアタシの部屋にいらっしゃい。美容魔女ギルバート秘伝の特性クリームを塗り塗りマッサージしてあげますわぁん」
「ギルバート、今日から、いや今夜からは、彼女のすべてに触れるのは私の役目だ。クリームだけ寄こしなさい。マリア、君の顔も、身体も、髪の毛1本まで全て私のものだ。誰にも触れさせない」
「いや~ん。エリオットォ〜」
エリオットの有無を言わせない独占宣言に、マリアはタコのように真っ赤になりながら、隣に立つ彼を見上げた。
「エリオット。……いえ、私の旦那様。これから一生、私を退屈させたら承知し、しないわ、ょ……」
マリアは、恥ずかしさを隠すため『ツン』を精一杯出して見せたが、その顔は言葉とは裏腹で、エリオットに完全に蕩かされた、極上に甘い潤んだ目で見つめていた。
エリオットは、眼鏡の奥の瞳を獰猛に、かつ深く愛おしそうに細め、マリアの小さな手をそっと、しかし力強く包み込んだ。
二度と、何があってもこの手を離さないという誓いを込めて──
「御意のままに。私の愛しいお嬢様──いいえ、私の生涯の妻。身も心も、私のすべてを捧げて、あなたを世界一幸せな女性にすることをお誓いいたします」
夜空に、この日一番の大きく美しい「しだれ柳」の花火が打ち上がった。
黄金の光のシャワーが、涙を流して喜ぶ使用人たちと、深く見つめ合う二人の姿を、どこまでも温かく、そして明るく照らし出していた。
頑なだったツンデレモンスターは、もういない。
これからは、愛する王子様の極上の温もりに抱かれ、たくさんの家族に守られながら、彼女は世界で一番美しい笑顔を咲かせ続けるのだから──
完結
※今話で完結となります。今作は短編で考えていたこともあり、多少足早に完結しております。いつかリメイク完全版が描ければと思います。
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