6.一致団結
翌日の夕食後、エリオットによる家庭教師の時間、マリアの部屋には、アルバイン特製の精油噴霧器により心地よい香りに包まれていた。
エリオットは、マリアのすぐ隣に立ち、彼女の数学の課題ノートを覗き込んでいた。
「お嬢様。ここの算術の問題ですが符号が違います。ここはマイナスではなく、プラスになりますよ」
エリオットが、マリアの手の上から、その長くて美しい指先でペンを包み込むようにして優しく握り、ノートにさらさらと数式を書き記した。
その瞬間、マリアの心臓は耳元で太鼓を連打されたかのように「ドキン!」と跳ね上がった。
至近距離から漂う、エリオットの清潔なシトラスの香りと、わずかに混ざる上質なインクの匂い。
眼鏡の奥に覗く、切れ長でどこか色気のある瞳が、すぐそこにある……
(近い、近い、近すぎるわよエリオット! 私を心臓発作で亡き者にする気!? はっ、ダメよ、私はフランシスカ家の令嬢。こんな執事の一挙一動に、ウブな乙女のように取り乱しては……!)
「……わ、分かっていますわよ! そんなこと。ただの、ほんの些細なケアレスミスですわ! あなたに、したり顔で指摘されるまでもありませんこと。次は、あなたの助けなど借りずに、完璧に解いてみせますわ!」
マリアは赤くなった顔を隠すように、ぷいっと大袈裟に顔を背けた。
エリオットの瞳に、ほんの一瞬だけ、寂しげな陰りがよぎる。
だが彼はすぐに、いつもの非の打ち所がない完璧な「執事の微笑み」をその美貌に貼り付けた。
「左様でございますね。マリアお嬢様は大変お賢い。私の余計なお節介でございました。……では、お頭を冷やしていただくために、少し冷たいダージリンを淹れ直してまいります」
エリオットは流麗な一礼をして、静かに部屋を出ていった。
◇
扉が閉まった瞬間、マリアはクッションに顔を押し当て、ベッドの上をのたうち回った。
「ばか、ばか、私の大馬鹿者! どうしてあんなに冷たくて、キツイ言い方しかできないのよぅ! 『教えてくれてありがとう、あなたのおかげでよく分かったわ、エリオット』って、どうして普通に言えないの!? 私の口には、可愛げを消滅させる呪いでもかかっているのかしら!?」
ゴロゴロと、シルクのドレスをシワにしながら絶叫するマリア。
◇◆
その一方で、こちらも顔を歪めた美男子の姿があった。
使用人室に戻り、重厚なマホガニーの扉を閉めた瞬間、エリオットは激しく己の胸元を抑え、壁にもたれかかった。
その端正な顔は赤く染まり、眼鏡の奥の瞳は、激しい情熱と苦悩で細められている。
「……くっ、耐えがたいほどに……可愛い……。あのようにツンと冷たく私を突き放した直後、ほんのりと、熟した果実のように耳の裏まで赤く染められているお嬢様……。なんと、なんと愛らしいお方なのだ。今すぐ、あの細い肩を抱き寄せ、その愛くるしい唇を塞いでしまいたい……!」
だが、エリオットは己のこめかみを強く押し込み、冷徹な理性を呼び覚ます。
「いけない。私は、先代の旦那様から『お嬢様を、決して悪い虫に喰い荒らされぬよう守れ』と託された忠実なる盾。……私自身が、その盾を食い破る『最悪の害虫』になってはならないのだ……」
己の狂おしいほどの恋心と、男としての独占欲を必死に抑え込むエリオットは高ぶる精神を落ち着かせるため、彼は燕尾服の内ポケットから、編みかけの小さな「ウサギのぬいぐるみ」を取り出した。
そして、恐ろしいほどの超高速で、細い銀の編み針を動かし始めた。
シュシュシュシュシュッ! と、風を切るような音が響く。
「ふぅ……。やはり編み物は心が洗われる。編み目を一つ進めるたびに、お嬢様への邪念が一つ浄化されていくようだ……。よし、このウサギには、お嬢様の髪にあるものに似た、美しいシルクの赤いリボンを結ぶことにしよう……」
──その時、執事室の扉が「バァァァン!!」と、蝶番が悲鳴を上げるほどの勢いでこじ開けられた。
「エリオットォ! 大変よ! アタシ、今、お嬢様の部屋のゴミ箱から、国家を揺るがす重大な『機密文書』を回収しちゃったわ!!」
息を切らせて飛び込んできたのは、ギルバートだった。
エリオットは、慣れた手つきで一瞬のうちに大事な編みかけのウサギを隠し、冷ややかに言った。
「何事ですか、ギルバート。今、私の荒れ狂う脳内気流を整えるための、極めて大切な精神統一(編み物)の最中なのですが」
「そんなこと言ってる場合じゃないのよ! これを見て!」
ギルバートが差し出したのは、ぐしゃぐしゃに丸められた、街の「秋祭り」を告知する粗末な更紙のチラシだった。
そこには、マリアの筆跡で、小さくこう書き残されていた。
『みんな、こういう賑やかな場所に、可愛らしい浴衣というものを着ていくのね……。私も、一生に一度でいいから、誰かと……』
書きかけで、恥ずかしさのあまりクシャクシャに丸められたその紙片。
──エリオットの動きが、完全に凍りついた。
マリアは、名門フランシスカ家の厳格な家訓、そして貴族としての体面、何よりも自身の極度の天の邪鬼な性格のせいで、お祭りなどの「庶民の娯楽」に一度も行ったことがない。
「……お嬢様を、お祭りに連れて行って差し上げたい」
エリオットがぽつりと、掠れた声で呟いた。
ギルバートは、レース編みがほどこされた美しいハンカチで涙を拭いながら言った。
「でも、本物の街の祭りは、今や不衛生で危険が多すぎるわ! ナンパ、ヤクザ者、それに変な人混み。万が一、お嬢様の白磁のようなお肌に傷でもついたら、アタシ、この国を力任せに二つに引き裂いちゃうかもしれないわ!」
ギルバートの言う通りだった。本物の祭りは不特定多数の人間が蠢く混沌の坩堝である。
過剰防衛軍団にとって、大切なお嬢様をそんなデンジャラス・ゾーンに晒すなど、言語道断であった。
そこで、エリオットの銀縁眼鏡が、過去最高に輝き、そして魅惑的な光を放った。
「──ならば、私たちがこの敷地内に、『完璧に防犯・管理された究極のプライベート祭り』を創造すれば良いのです」
ギルバードは手を叩いて賛同した。
「それよ!!」
過激派親衛隊たちの、狂気に満ちた愛の歯車が、一気に噛み合った瞬間だった。
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