カラミティアの谷 4
トトが覚えている、前世の最後の記憶は電車である。
イヤホンからの音漏れ。漂う二日酔いの匂い。誰かを踏んだら穴が開きそうなピンヒール。両手を上げてつり革に摑まる男性の隣で、足を踏ん張りながらスマホに集中しているふりをして満員電車の不快感をじっとこらえる。ただそんな、いつもと同じ通勤の風景。
それなのに気づいたときには、赤ん坊になって金髪美人の乳房にむしゃぶりついていた。
もちろんとんでもなく混乱したが、三日もすれば慣れてしまった。電車の事故か突発的な病気か、何らかの原因で死んだか生死の境をさまよっているかで見るうたかたの夢なのだろう。だからきっと、このあたたかい夢は、そのうち覚める。とぼんやり納得したまま幼少期を過ごしたが、父が死に、母が床に伏してようやくトトは認識を改めた。
あれ、これ夢じゃないな、と。
ここは、気合を入れて生きなければならない現実じゃないか、と。
そこでやっとトトは本腰を上げて状況の整理を始めたが、もっと早くから『記憶持ち』の利点を生かして行動を開始していればよかった、と今になっても時々思う。
日本語が染み付いた脳ではなかなか新しく言語を覚えることには苦労した。いつまでたっても幼いこの口はあうあうとしか言えなくて、ヒアリングはなんとかなるもののスピーキングを母が生きている間にはマスターできなかったことは、心残りとなってしまった。
それに、いつかもとの世界に帰るかもしれない。その時のことを思えば、母によそよそしい態度をとってしまったことも、もしかしたらあったのかもしれない。
そういう、自分が普通の子どもと違うということがさらに彼女を追い詰めたのだろう、とも思う。
味方のいない環境に置き去りにされて、母が心を病んでいくのを目の当たりにするのは辛かったし、厳しい仕事に出たまま父が帰ってこないのもしんどかった。
その時になっていくら後悔してももう手遅れで、新しい生でトトは早々にあたたかかった両親を失ってしまった。
後悔なんて挙げていけばキリがない。だけど、だからこそトトは決めたのだ。
「この生を楽しむことを、諦めたりしない」
前世だって楽しいことばっかりではなかった。だけど、苦しいことばっかりでもなかったじゃないか。
なぜ自分がこんな世界に生まれ変わったのかわからない。けれど、戻れない以上ここで生きていくしかない。被害者感情に酔って自分の不幸を嘆くよりも、今できることを増やして自分の人生を切り開いていきたい。
人生なんて、楽しんで『なんぼ』なのだ。トトはそう思っている。
早々に親を失っても生きていくためには、仕事が必要だった。だから、谷の中でも比較的地位が高く、自由がある妖獣使いは、トトにとって非常に魅力ある職業だった。しかし妖獣使いになるには厳しい訓練と、国家から承認された資格が必要だった。
資格を得ることは生き方に繋がる。前世でもそうだった。今世でもきっとそうだろう。
そう考えたトトは妖獣使いになるための訓練には誰よりも積極的に取り組んだ。ガイガが周囲を説得してくれてようやく孵った雛が、アルビノ体質なことには随分驚いたが、前世の記憶がある分か、受け入れも早かった。
だが谷の人間たちは鴉に対しても排他的な反応を示し、白い鴉なんて縁起が悪い、なんて言って他の鴉と同じ檻に入れるのを嫌がった。
だからシロウと名付けたトトの鴉はこうして一羽だけの特別な檻に入れられている。通常群れを作って生活する化け鴉だが、幼いころから隔離されて生活しているため、シロウにとっての仲間は身の回りの世話をするトトだけになってしまった。そのおかげでシロウからトトには強い依存が向けられるが、その分戦闘の際の連携は他の妖獣使いよりもずっとスムーズに行える。おかげでトトは一足飛びで妖獣使いとしての力量を伸ばすことができたし、何より、白くて大きい化け鴉が翼を広げて大空を舞う姿は神秘的で、他のどんな生き物よりも美しい。
他の誰がなんと言おうと、シロウがトトの相棒であることはトトの誇りだった。
「この子があたしの相棒のシロウ。とってもきれいでしょう?」
出会いがしらにシロウに一発喰らわされ、恨みがましい視線でシロウを睨むエイゼンに、トトは語りかけた。
その言葉に反応して、ようやくエイゼンはシロウから視線を逸らし、トトに向き合う。
「猛禽類は、その爪で獲物の脊柱を砕くと聞きます。……危なくないのですか? その、あなたの左腕は」
エイゼンが何を心配しているのかがわかる。シロウがその気になれば、シロウが止まるトトの左腕なんて簡単にもげるだろう。
妖獣は肉を喰らうのではなく、魂を喰らう。魂を構成する魔力をエネルギーとして肉体に取り込むのだ。そのために妖獣は、生き物を生きたまま自分で殺す必要がある。トトのような弱い肉を目の前にして、妖獣の忍耐をあえて試すような真似をしていては、いつか裏切られるのではないか。弱いトトは殺されてしまうのではないか。彼はそれを心配しているのだ。
しかし、トトは薄く微笑んでこう答えた。
「これはね、妖獣使いの誇りなんだ。妖獣に対する、精いっぱいの誠意の証」
妖獣と共に生きるために必要なものは、何よりも信頼関係だ。傷つけない、裏切らない。それが双方に成り立って初めて、信頼関係は成立する。社会生活を代行する人間、暴力を代行する獣。人間は妖獣に飢えない環境を提供する。代わりに妖獣は、人間のためにその力を揮う。
妖獣が使い手を信頼する限り、妖獣が使い手を傷つけることはない。しかしそれはすなわち、信頼が失われれば、妖獣使いはまず自分の命を失うことでそれを知るということでもある。
そんなことを説明しても、エイゼンにはピンとこないようだった。首をかしげてトトとシロウを見比べている。
「わかりません……危ないとわかっていて、なぜそんなに無防備に腕を差し出せるんです?」
「そんなこと言ったら、都の人は犬を飼うでしょ? 犬だって肉食獣だよ。その牙の前に身を晒すのは、危なくないの?」
「よく馴らされた犬なら、人間を食べないことは心得てますよ。犬は古くから、人間の良き隣人です。だが、妖獣はそうではない。妖獣には人間を襲ってきた歴史があります。シロウがあなたを襲わないという保証が、私にはとても危ういものに見える」
「たしかに、妖獣に喰われて死んだ妖獣使いなんてたくさんいるし、危険とはいつも隣合わせかもね。だけどリスクの分だけリターンは大きくなるよ。この子たちの力は強力だよ、魔法の使えない人間にとっては特に。騎士さんも、それを求めてここに来たんでしょう?」
「しかし……」
まだ何か言いたそうな騎士の前で、トトは短く口笛を吹いた。
それを聞いたシロウが、ばさばさと翼を羽ばたかせてトトの肩に飛び乗ってくる。
「うわっ」
目の前の妖獣が突然動いて、騎士は警戒する体勢をとる。そんな彼にシロウは一鳴き。相変わらず敵意丸出しで、エイゼンをひたすら警戒している。
双方の第一印象も相性も、悪そうだなあ、とトトは思う。シロウは谷の人間から辛く当たられてきたため、そもそもトト以外の人間に心を許そうとしたためしがないし、エイゼンも妖獣使いに助けを求めに来た割には、知識はあるくせに妖獣のなんたるかをてんで理解していない。
妖獣は誇り高い動物なのだ。そして賢い。エイゼンのシロウを侮るような態度は、シロウにとって地雷である。好感度メーターなんてものがもしシロウの背後に見えるとしたら、現在進行形でぐんぐん下がっているはずだった。
二人を会わせるの早まったかな、とトトは思ったが、まあいいや、とすぐに思い直した。
なんとかなるでしょ。
「シロウがどれだけ優秀な化け鴉なのか、そのうち騎士さんにもわかるよ」
トトに答えるように、シロウが小さく鳴いた。
その様子を見て、まるで言葉がわかってるみたいだ、とエイゼンが呟いて、またシロウにどつかれる。
まさか妖獣使いの相棒をどつき返すわけにもいかず、エイゼンが助けを求めるようにトトの方を見てくるのを見て、トトは思わず吹き出してしまった。
「ま、これでわかってもらえた? シロウがいる限りあたしは自分の身くらい自分で守れるし、守ってもらう必要なんてない。そんな心配は無用ってこと!」
笑いをこらえながらしょぼくれた顔をした騎士からシロウを引きはがせば、エイゼンは苦い顔をしてトトを見た。そんな顔をしてもイケメンなんだから、顔がいいっていうのは素晴らしいとトトは思う。
「だから安心して、あたしを都に連れていってちょうだい。イケメンの騎士さま!」