ep.78[Side Y/異世界]Link: 猫又-07
胸元に鋭い痛みが走った。
「痛っ」
「ふー、ふー」
目を開けると、暗い部屋の中で、鈴ちゃんが僕を睨んでいた。
黒い耳が立っている。
二又の尻尾が、布団の上でゆっくり揺れている。
「……鈴、ちゃん?」
「ふー、ふー」
「どうしたの?」
鈴ちゃんの爪が、僕の胸に食い込む。
服越しなのに、身体が先に痛みを覚えた。
「いっ!……痛いって」
「今、しるゔぃって言ってたでしょ?」
「え?」
「今、寝言で『しるゔぃ』って言ってたでしょ?」
「いや、寝言なら……分からないよ」
爪に力が入る。
「痛たたた」
「私と居るのに、他の女の夢をみるんだ」
「ちがっ、いや違わないけど」
「違わないんだ」
「夢だから、どうにも出来ないじゃん」
「……私のことだけ考えてれば、夢にみることなんて無いでしょう?」
「いや、鈴ちゃんと居るんだから、ずっと鈴ちゃんのことしか考えてないよ」
少し、力が抜けた。
「……じゃあ、証明して」
「どうやって?」
「どうしたい?」
「どうしたいって言われても……」
鈴ちゃんは、何も言わずに少しだけ膝をずらした。
浴衣の裾が、布団の上でさらりと鳴る。
「私のことだけ考えるなら、したいことは一つじゃないの?」
「……」
「ほら。ほらほら」
声は甘い。
でも、目だけは未だ少し怒っていた。
からかっている。
でも、からかっているだけじゃない。
「私で頭いっぱいになる?」
「……なってる」
「なってる? 嘘じゃない?」
答えようとして、息だけが漏れた。
「ふー、ふー」
鈴ちゃんが一瞬だけ目を丸くする。
それから、ひどく満足そうに笑った。
「あはは!目を見れば分かる。私のことしか考えてないね」
「ふー、ふー」
「じゃあ、そのまま寝てね」
「は……?」
「そのまま寝れば、私の夢がみられると思うよ」
「いや、待って。鈴ちゃん?」
そう言って、鈴ちゃんは僕の隣で丸くなった。
本当に寝息を立て始める。
行き場の無くなったものだけが、暗い部屋の中に取り残された。
どうすればいいんだろう。
僕だけが、暫く眠れなかった。
次に目を開けた時、障子の向こうが薄く明るくなっていた。
朝だった。
最初に気付いたのは、パジャマの違和感だった。
胸元が少し湿っている。
それから、何だか変な匂いがした。
いや、知らない匂いではなかった。
鈴ちゃんの匂いだ。
「……」
隣を見る。
鈴ちゃんは何事も無かったみたいに寝息を立てている。
黒い耳が布団の上で少しだけ倒れていた。
「鈴ちゃん」
「ん?……おはよ」
「おはよう」
「どうしたの?」
「……鈴ちゃん」
「なぁに?」
「……もしかして、マーキングとかって──」
鈴ちゃんは大きな欠伸をしている。
「した?」
「したよ」
挨拶と同じ言い方だった。
「……」
「だって、ゆうきの心も身体も鈴の縄張りにあるよ」
「……」
「違うの?」
鈴ちゃんの目が細くなる。
「ねぇ、違うの?」
また、爪が胸元に置かれる。
痛い。
朝から痛い。
「違いません。鈴ちゃんのモノです、はい」
「じゃあ、良いよね?」
「はい。大変ありがたく存じます」
「よろしい。妾は満足じゃ」
いつの間にか、お姫様口調になっている。
「姫」
「何じゃ、申せ」
「某に、朝風呂に入る許可を」
「……」
「……」
「……嫌なの?」
「……え?」
「鈴の匂い、嫌なの?」
「いや、その……」
「もしかして、臭いとか思ってる?」
「いや、そんなことは」
「じゃあ、洗わなくて良いよね?」
「……はい」
「もっとかけてあげようか?」
「いやっ!それは!結構です」
「……嫌なの?」
「……」
「ねぇ」
「……」
「ねぇ」
「……」
「はっきり言いなさいよ」
「お風呂、入りたいです」
「何故?」
「社会生活があるからです」
「またそれ」
「街の皆がどう思うか……」
「鈴のゆうきだと思うよ。それが嫌なの?ゆうきは、鈴じゃない誰かのものになりたいの?」
「いや、鈴ちゃんのモノで」
「じゃあ良いよね?」
「……それでも、お風呂に入りたいです」
「ふぅん」
「……」
「……」
「……」
「良いよ」
「ありがとう!」
「でも」
「はい」
「戻って来たら、また鈴の匂いにするよ」
「社会生活は?」
「知らない」
鈴ちゃんは満足そうに目を閉じた。
僕は布団を抜け出した。
胸元を摘まみ、パジャマから少しだけ離してみる。
匂いは変わらない。
「……何をかけたんだろう」
「鈴の匂い」
目を閉じたまま、鈴ちゃんが答えた。
「起きてるじゃん」
「寝てるよ」
「寝てる人は喋らないよ」
「猫又は喋るの」
「便利だね」
「うん」
もう相手をしてくれる気は無いらしい。
僕は着替えを抱え、部屋を出た。
障子を閉める直前、布団から黒い耳だけが見えた。
僕が出て行く音を聞いているのか、少しだけこちらへ向いている。
「お風呂に行くだけだからね」
耳が一度だけ動いた。
返事は無かった。
朝の京杜は、昨日よりも冷えていた。
家々の屋根から白い煙が上がっている。
道の端では、店を開ける男の人が暖簾を掛けていた。
井戸の周りには、既に何人かの女の人が集まっている。
桶を持って歩いていると、一斉に顔を向けられた。
「おはようございます」
頭を下げる。
「おはよう」
「早いねぇ」
「鈴ちゃんは?」
「未だ寝てます」
「そう」
女の人達は、鈴ちゃんが寝ていることに何の疑問も持たなかった。
その内の一人が僕へ近付き、鼻を小さく動かした。
「……鈴ちゃんの匂いがするね」
「えっ」
やっぱり分かるんだ。
「鈴ちゃんのゆうきだからねぇ」
隣の女の人が笑う。
「……社会生活が」
「何だって?」
「いえ、何でもありません」
僕は桶を抱え直し、足早にその場を離れた。
背中から笑い声が聴こえる。
鈴ちゃんの言った通りだった。
──街の皆は、鈴のゆうきだと思っている。
露天風呂へ着く。
着物を脱ぎ、パジャマも脱ぐ。
胸元には、鈴ちゃんの爪が食い込んだ跡が薄く残っていた。
「痛いと思った」
指先で触れる。
その周りから、未だ鈴ちゃんの匂いがした。
湯を掛ける。
一度。
二度。
三度。
念入りに洗う。
頭も。
顔も。
胸元も。
最後に肩まで湯へ浸かった。
「……生き返る」
昨日は、異世界に来たばかりだった。
何が起きるのかも分からない。
何処へ行けば良いのかも分からない。
けれど、今は違う。
今日から仕事がある。
終わったら、鈴ちゃんの家へ帰る。
昨日まで知らなかった町なのに、もう一日の形が出来始めている。
湯から上がり、腕の匂いを嗅ぐ。
「……」
消えた。
多分。
胸元も確かめる。
「……少し残ってる?」
何度嗅いでも、よく分からない。
鈴ちゃんの匂いを覚えてしまったから、鼻の奥に残っているだけかも知れない。
着物へ袖を通す。
帯を持ち上げたところで、手が止まった。
「……どうやるんだっけ」
昨日は鈴ちゃんに着せて貰った。
見様見真似で身体へ巻く。
端を通す。
結ぶ。
手を離す。
解けた。
「……」
もう一度巻く。
結ぶ。
今度は一応、形になった。
けれど、少し歩くと緩んで来る。
「無理だな」
結局、帯を押さえながら鈴ちゃんの家へ戻った。
障子を開ける。
「ただいま」
鈴ちゃんは布団の上へ座っていた。
さっきまで眠そうだった目は、もう完全に開いている。
黒い耳が僕へ向いた。
「おかえり」
「うん」
鈴ちゃんは鼻を動かした。
一度。
二度。
目が細くなる。
「洗った」
「許可貰ったからね」
「鈴の匂い、無くなった」
「お風呂に入ったからね」
「……」
二又の尻尾が布団の上を強く叩いた。
「でも、戻って来たよ」
鈴ちゃんの尻尾が止まる。
「ちゃんと」
「うん。約束したから」
「……そう」
鈴ちゃんは布団から降りた。
僕の周りを一周する。
鼻を近付け、腕や背中の匂いを確かめている。
「犬みたいだよ」
「猫又」
「そうだった」
鈴ちゃんは僕の正面へ回った。
帯を見る。
「何これ?」
「僕なりに頑張った結果」
「変」
「だから戻って来たんだよ」
「鈴が居なかったら、どうするつもりだったの?」
「帯を押さえて仕事に行く」
「変な人だと思われるよ」
「もう鈴ちゃんの匂いを付けて歩いたから、手遅れかも」
「鈴のゆうきだと思われただけだよ」
「それを社会生活では手遅れって言うんだよ」
鈴ちゃんは僕の帯を解いた。
素早く巻き直していく。
昨日もやって貰ったのに、手の動きが全く分からない。
布が身体を一周し、きつ過ぎない程度に締められる。
「苦しくない?」
「大丈夫」
「動いてみて」
身体を左右へ捻る。
緩まない。
「大丈夫そう」
「鈴がやったからね」
「ありがとう」
鈴ちゃんは帯の形を整えた。
それから僕の胸元へ顔を近付ける。
「待って」
「何?」
「何しようとしてる?」
「鈴の匂いにする」
「仕事から戻って来たらって言ったよね?」
「言った」
「未だ仕事に行ってないよ」
「じゃあ、先にしておく」
「契約違反だよ」
「何の?」
「口約束も約束だから」
「……」
鈴ちゃんが不満そうに頬を膨らませる。
「帰って来たら?」
「好きなだけどうぞ」
「いっぱい?」
「社会生活に支障が出ないくらいで」
「知らない」
「それはもう聞いた」
鈴ちゃんは僕の胸へ額を押し付けた。
匂いを付けるというより、甘えているだけに見える。
黒い耳が顎の下に触れた。
「今日、ずっと居ないの?」
「警備の仕事が終わるまではね」
「何時?」
「分からない」
「誰と居るの?」
「それも、未だ分からない」
「女の人?」
「分からないよ」
鈴ちゃんの爪が着物の上から胸元に置かれた。
「痛くしないでね」
「してないよ」
「これからする顔だよ」
「女の人と二人で仕事しないで」
「僕が決められることじゃないから」
「決めて」
「無理だよ」
「じゃあ、女の人を見ないで」
「警備出来ないよ」
「喋らないで」
「仕事にならないよ」
「触らないで」
「それは多分、大丈夫」
「絶対?」
「警備で助けないといけない時は別だけど」
「別じゃない」
「鈴ちゃん」
「……」
「終わったら、ここに帰って来るよ」
鈴ちゃんは黙った。
額を胸へ押し付けたまま、耳だけが少し倒れる。
「昨日も約束したでしょ?」
「うん」
「帰って来た」
「お風呂からは」
「仕事からも帰って来る」
「……ほんと?」
「ほんと」
「しるゔぃのところに行かない?」
胸の奥が少しだけ痛んだ。
「行けないよ」
「行きたい?」
直ぐには答えられなかった。
シルヴィに会いたくない訳じゃない。
もう一度会えるなら、会いたい。
──でも。
「今は、鈴ちゃんのところに帰って来るよ」
鈴ちゃんが顔を上げた。
「今は?」
「……言い方が悪かった」
「ずっとは?」
「ずっとって言ったら、鈴ちゃんが困るでしょ?」
「鈴は困らないよ」
「僕が元の世界へ帰れなくなるかも知れない」
「帰らなくて良いよ」
「妹がいるから」
「妹も連れて来れば良い」
「無茶言わないでよ」
「じゃあ、鈴も連れて行って」
「出来るならね」
「出来る?」
「分からない」
「何も分からないね」
「異世界に来たばかりだからね」
「……」
鈴ちゃんは僕から離れた。
帯をもう一度整える。
「帰って来て」
「うん」
「絶対」
「絶対」
「鈴のところに」
「鈴ちゃんのところに」
漸く黒い耳が立った。
「よろしい」
「また姫になった」
「妾は、いつでも姫じゃ」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
鈴ちゃんは満足そうに頷いた。
家を出る。
朝の光が京杜の道を白く照らしていた。
鈴ちゃんも隣を歩く。
「警備の人が居るところまで来るの?」
「うん」
「昼間は寝るんじゃなかった?」
「ゆうきを渡すまでは起きてる」
「誰に渡すの?」
「警備の人」
「僕は荷物じゃないよ」
「鈴の大事なもの」
「モノなんだ」
「人」
「どっち?」
「鈴のゆうき」
答えになっていない。
でも、鈴ちゃんは嬉しそうだった。
昨日歩いた道を進む。
店先には野菜や魚が並び始めている。
すれ違う人達が鈴ちゃんへ声を掛ける。
「鈴ちゃん、おはよう」
「おはよ」
「今日は早いね」
「ゆうきを仕事に連れて行くの」
「そうかい。頑張っておいで」
「僕がですか?」
「他に誰が居るんだい」
女の人が笑った。
「鈴ちゃんは昼寝だろう?」
「違うよ。ゆうきの帰りを待ってる」
「寝ながら?」
「うん」
「それを昼寝って言うんだよ」
鈴ちゃんは不満そうに耳を倒した。
町の人達は、そんな鈴ちゃんを見て笑っている。
誰も怖がらない。
二又の尻尾も。
頭の上の黒い耳も。
この町では、鈴ちゃんが鈴ちゃんであることに説明が要らない。
「何?」
見ていたことに気付かれた。
「いや」
「鈴のこと考えてた?」
「考えてた」
「ほんと?」
「ほんと」
鈴ちゃんが僕の腕へ自分の腕を絡めた。
「じゃあ良いよ」
朝の京杜を、二人で歩く。
未だ数日しか経っていないのに。
この道を並んで歩くことが少しだけ当たり前になっていた。




