ep.77[Side M/異世界]Link: 人狼-11
帰ろうとした時だった。
大和さんが墓石の前に置いた木の器を持ち上げる。
古い水を捨て、新しい水を入れるのだと思った。
私はその背中を見ていた。
五十年間。
毎週。
同じ道を歩いて。
同じ場所に立って。
永遠名さんに謝って来た。
その時間を想像しようとして、出来なかった。
五十年は、私が生きて来た時間の倍だ。
私が生まれるより前から、大和さんはこの場所へ来ている。
風が吹く。
墓石の前に供えられた花が、ほんの少しだけ揺れた。
私はその動きを目で追った。
花。墓石。その向こう。
木の根に囲まれた、浅い水面。
来た時には気付かなかった。
陽の光が枝葉に遮られて、水が森の影と同じ色をしていたからだと思う。
水面に何かが映っている。
私の影ではない。
大和さんの影でもない。
もっと小さい。
──子供みたいな影だった。
私は一度だけ瞬きをした。
影は消えなかった。
それどころか、水面からゆっくりと立ち上がる。
水が盛り上がった訳ではなかった。
影だけが、水面から離れた。
足音はしない。
草も沈まない。
そこに居るはずなのに、重さだけが無かった。
身体の内側は、水みたいに透けている。
顔は見える。
でも、どんな表情をしているのかは分からない。
泣いてはいない。
それなのに、今にも泣き出しそうな気配だけがあった。
「……」
声を掛けようとしたのか、自分でも分からなかった。
喉から息だけが漏れる。
視界の隅で、大和さんが私の視線を追った。
大和さんの動きが止まる。
木の器が手から落ちた。
乾いた音がした。
器が地面を転がり、中の水が土へ広がっていく。
「あれ……何ですか?」
私は大和さんへ視線を戻した。
明らかに表情がおかしかった。
顔から血の気が消えている。
目が大きく開いていた。
私を見ていない。
私の後ろに居る何かだけを見ている。
ガチガチと音がした。
何の音なのか、直ぐには分からなかった。
大和さんの歯が噛み合っていなかった。
「大和さん?」
呼び掛けても、返事が無い。
大和さんが怖がっている。
その事実を理解するまでに、少し時間が掛かった。
マンドラゴラで私の心臓が止まった時も、大和さんは怖かったと言った。
でも、あの時とは違う。
今の大和さんは、怖がっているというより、五十年前の何かを目の前に戻されていた。
「美憂」
漸く声が出た。
掠れていた。
「はい」
「動くな」
「え?」
「絶対に、動くな」
私は足元を見る。
何も踏んでいない。
危険な植物も見えない。
「でも──」
大和さんが一歩で私との距離を詰めた。
次の瞬間、身体が浮いた。
「えっ」
片方の腕が私の背中へ回る。
もう片方の腕が膝の下へ入る。
大和さんは私を抱き上げると、そのまま身体を反転させた。
「何、何、何……?」
答えは無かった。
大和さんが走り出す。
森の景色が急に流れた。
枝が揺れる。
葉が顔の横を掠める。
土を蹴る度に、大和さんの腕の中で身体が大きく上下した。
「大和さん、待ってください!」
「ちょっと黙ってろ!」
怒鳴られた。
けれど、怒っている声ではなかった。
声の奥まで怯えていた。
私は大和さんの肩へ手を回す。
落ちないように身体を寄せた。
大和さんの首筋が近い。
息が速い。
こんなに速く走っているのに、呼吸の乱れ方が走っている人のものだけではなかった。
私は大和さんの肩越しに、後ろを見る。
──居た。
さっきの子供の輪郭。
森の中を追って来ている。
走ってはいない。
足を動かしているようにも見えない。
水みたいな身体が揺れているだけだった。
それなのに、距離だけが縮まっている。
「あれ、追って来てます」
「見るな!」
「でも──」
「美憂を見てる!」
大和さんが叫んだ。
私はもう一度だけ後ろを見る。
子供の顔が確かにこちらへ向いていた。
表情は分からない。
でも、視線の場所だけは分かった。
私の顔ではない。
胸でもない。
もっと下。
私のお腹を見ている。
反射で片手を下腹部へ当てた。
「大和さん、あれ……何なんですか?」
「畜生……」
「大和さん?」
「未だ居やがった」
声が震えている。
「何がですか?」
「五十年だぞ……」
「え?」
「五十年も経ってんだぞ!」
大和さんの足が地面を強く蹴る。
身体が大きく揺れた。
枝を肩で折る。
道を選んでいない。
最短の方向へ、ただ真っ直ぐ走っている。
「来てます!」
「分かってる!」
「さっきより近いです!」
「分かってるって言ってんだろ!」
子供の輪郭はもう、最初の半分ほどの距離まで来ている。
足音は無い。
息遣いも無い。
草が揺れない。
何も動かしていないのに、私達だけが追い付かれていく。
「大和さん、あっちの方が速いです!」
「くそっ……」
大和さんが周囲を見る。
右。
左。
前。
誰かを探している。
「誰か……」
低い声が漏れた。
「誰か、誰か誰か……っ!」
大和さんの腕に力が入る。
痛いくらい強く抱かれた。
「大和さん?」
「誰か居ねぇのか!」
森の中に大和さんの声が響く。
「誰かっ!」
返事は無い。
鳥の声もしなかった。
風の音も消えている。
聞こえるのは、大和さんが土を蹴る音だけだった。
「助けてくれ!」
大和さんが叫んだ。
私はその言葉に息を止めた。
大和さんが、助けを求めている。
村長で。
二メートル近くあって。
私を軽々と抱き上げて。
止まった心臓を動かした人が。
誰かに助けてほしいと叫んでいた。
「誰かっ! 助けてくれぇぇっ!」
声が森へ吸い込まれていく。
近くで叫んでいるはずなのに、随分遠くから聞こえた。
大和さんの胸に抱かれている。
耳の直ぐ側に口があるはずなのに。
声だけが森の向こうから届く。
「大和さん……音が」
「喋るな!」
返事も遠い。
森の音がおかしい。
大和さんの足音が遅れて聞こえる。
枝が折れる音が折れた後ではなく折れる前から響いている。
自分の呼吸がどこから聞こえているのか分からない。
胸の中なのか。
背後なのか。
水の中なのか。
私はもう一度、肩越しに後ろを見た。
「……大和さん」
「見るなっ!」
「直ぐ側に……」
子供の輪郭は、もう手を伸ばせば届きそうな場所に居た。
顔は見える。
やっぱり表情は分からない。
泣いていない。
それなのに、森全体が泣き出す直前みたいに張り詰めていた。
水みたいな腕が持ち上がる。
小さな手が開く。
その手は大和さんではなく。
大和さんの腕の中に居る、私へ伸びていた。
下腹部へ──。
「来てますっ!」
大和さんが更に強く私を抱く。
「大和さん、あっちの方が速い!」
「分かってる!」
「追い付かれます!」
「分かってるんだよ!」
大和さんが叫ぶ。
その声だけが、また遠くなる。
「誰かっ!」
小さな手が近付く。
「誰でも良い!」
冷たい空気が服の上からお腹へ触れた。
「美憂を──」
大和さんの声が途切れる。
森の音が、全部消えた。
直ぐ側に、アレが居た。




