ep.75[Side M/異世界]Link: 人狼-09(後編)
声がした。
「美憂」
低い声。
近い。
でも、いつもより余裕が無かった。
「美憂、聞こえるか」
胸が痛い。
重い。
何かに強く押されたみたいだった。
私はゆっくり目を開けた。
空が見えた。
朝の空。
その手前に、大和さんの顔があった。
黒い髪が乱れている。
目が、いつもより怖いくらい真剣だった。
「……大和さん」
「息、出来るか」
私は息を吸おうとした。
胸が少し痛む。
でも、空気は入って来た。
「……はい」
「胸は痛いか」
「少し」
「悪い。押した」
「押した?」
「心臓止まってた」
私は瞬きをした。
「……私のですか?」
「他に誰の心臓が止まるんだよ」
「私、死んでました?」
「死んでた」
「……」
「すぐ戻した」
大和さんの声は、少しも冗談に聞こえなかった。
私は自分の胸元に手を当てる。
鼓動がある。
速い。
でも、ちゃんと動いている。
心臓が止まっていた。
その言葉が、遅れて身体の中へ落ちて来る。
「マンドラゴラ……」
「あれは埋め直した」
「埋め直せるんですか?」
「根が傷んでなければな」
「良かった……」
「良くねぇ」
大和さんの声が少し強くなる。
私は思わず口を閉じた。
「触るなって言っただろ」
「ごめんなさい」
「いや、転びそうになったのは見た」
「……」
「だから、怒ってるんじゃねぇ」
大和さんはそこで一度、言葉を止めた。
それから、低く息を吐く。
「怖かった」
私は大和さんを見る。
その一言が、土の上に落ちたみたいに重かった。
「……大和さんが?」
「あぁ」
「私が、ですか?」
「そうだよ」
大和さんは顔を顰める。
「目の前で倒れて、息止まって、心臓まで止まってんだぞ。怖いに決まってんだろ」
「すみません」
「謝るな」
「でも」
「謝られると、こっちが余計に怖くなる」
私は言葉を失う。
大和さんは膝を突いたまま、私の様子を見ている。
私の手首に指を当てる。
脈を見ているのだと分かった。
「まだ速いな」
「分かるんですか?」
「分かる」
「お医者さんみたいですね」
「医者じゃねぇ」
「でも、心臓を戻せるんですね」
「戻せるって言うな。止まったのを無理矢理動かしただけだ」
「それを戻せるって言うんじゃ……」
「美憂」
「はい」
「黙って休め」
「はい」
私は素直に黙った。
土の匂いがする。
畑の匂い。
少し湿った、濃い匂い。
昨日まで知らなかった匂いの中で、私は死にかけた。
いや、大和さんの言い方だと、少し死んでいた。
なのに、不思議と恐怖だけではなかった。
大和さんの手が私の手首を掴んでいる。
それが、私をこちら側へ繋ぎ止めているみたいだった。
「起きられるか?」
「多分」
「多分は駄目だ」
「じゃあ、未だ無理です」
「良し」
「良しなんですか?」
「正直で良い」
大和さんはそう言って、私の背中へ腕を回した。
「え」
「運ぶ」
「歩けます」
「無理」
「まだ試してないです」
「試すな」
大和さんは私を抱き上げた。
軽々と。
本当に軽々と。
視界が急に高くなる。
私は慌てて大和さんの肩に手を置いた。
「重くないですか」
「軽い」
「それはそれで嫌です」
「じゃあ重い」
「もっと嫌です」
「どうしろってんだよ」
「普通でお願いします」
「普通」
大和さんは少しだけ考える顔をした。
「普通に軽い」
「それは軽いです」
「面倒だな」
私は少しだけ笑いそうになる。
胸が痛んで、笑いは途中で止まった。
「痛むか」
「少し」
「だから黙ってろ」
「はい」
大和さんは私を抱えたまま歩き出した。
畑の土を踏む音がする。
私の落とした籠は、近くにいた鼠みたいな人が拾ってくれていた。
「村長、その人、大丈夫ですか」
「生きてる」
「マンドラゴラですか」
「半熟のやつを抜いた」
「それは死にますね」
「死んだ」
「戻したんですか」
「戻した」
会話が淡々としている。
私は大和さんの腕の中で、少しだけ遠い気持ちになる。
この世界では、死ぬことと戻ることが、現代よりずっと近くにある。
でも、それが軽い訳ではない。
大和さんの手の力は、さっきから少しも緩んでいなかった。
「……ごめんなさい」
「謝るなって言っただろ」
「でも、籠も落としました」
「籠は死なない」
「マンドラゴラは?」
「埋めた」
「生きてますか」
「多分な」
「良かった」
「美憂」
「はい」
「自分の心配を先にしろ」
「しています」
「してねぇ顔してる」
「顔で分かるんですか?」
「分かる」
「大和さん、顔を見るの上手いですね」
「美憂が分かり易いだけだ」
「そんなことないです」
「ある。怖い時も、嬉しい時も、変なこと考えてる時もすぐ分かる」
「変なことは考えてません」
「今、マンドラゴラ可哀想とか思ってただろ」
私は黙った。
「思ってたな」
「少しだけ」
「ほらな」
「だって、急に抜かれて叫んだら埋め直されるの、可哀想じゃないですか」
「死にかけた奴が言うことか」
「でも、あの子も驚いたと思うので」
「あの子」
「マンドラゴラです」
「名前付けるなよ」
「付けてません」
「今にも付けそうな顔してる」
「付けません」
「本当か?」
「多分」
「駄目だな」
大和さんは呆れたように言った。
でも、ほんの少しだけ口元が緩んでいた。
家へ戻ると、大和さんは私を低い寝台へ下ろした。
布を背中に当てて、上体を少し起こしてくれる。
「水、飲めるか」
「はい」
木の杯を渡される。
両手で持つと、指先が少し震えていることに気付いた。
水を飲む。
冷たくはない。
でも、喉を通るだけで少し落ち着いた。
「胸、見せろ」
「えっ」
「圧迫した。痣になるかもしれねぇ」
「あ、はい……」
私は少し迷ってから、服の襟元を軽く開いた。
胸そのものではなく、胸骨の辺りを見るだけだ。
大和さんの視線は変に動かなかった。
大和さんは眉を寄せる。
「赤くなってる」
「痛いです」
「悪い」
「謝らないでください。助けてもらったので」
「でも痛ぇだろ」
「死んでるよりは良いです」
「そういう言い方するな」
大和さんの声が低くなった。
私は口を閉じる。
「……ごめんなさい」
「だから謝るな」
「はい」
大和さんは布を掛け直した。
その手付きが、思っていたより丁寧だった。
「少し寝ろ」
「眠れる気がしません」
「目ぇ閉じるだけで良い」
「大和さんは?」
「ここにいる」
「畑は?」
「後でいい」
「でも、朝に採った方が良いものがあるって」
「美憂より大事な畑は無ぇよ」
私は何も言えなくなった。
大和さんは当たり前みたいに言った。
強い言葉なのに、甘い言い方ではなかった。
それが余計に胸の奥へ残る。
「……ありがとうございます」
「おう」
私は布団の端を握る。
目を閉じようとして、閉じられなかった。
昨日のガトーアンコ。
名前が無いことで怒られたことがある、と言った大和さん。
その言葉の先を、私は未だ知らない。
でも、名前の無いものに触れると、大和さんが少しだけ遠くを見ることは分かって来た。
「美憂」
「はい」
「この村には、名前を付けなかったものが多い」
私は大和さんを見る。
「それは……植物の話ですか?」
「違う」
大和さんは短く答えた。
それ以上は言わなかった。
私は訊けなかった。
訊いて良い話ではない気がした。
「……そうですか」
「あぁ」
少しの沈黙。
外から、遠く誰かの声が聞こえる。
朝の村の音。
畑の音。
生活の音。
私はその音を聞きながら、胸の痛みを小さく数えた。
一つ。
二つ。
三つ。
痛い。
でも、生きている。
「大和さん」
「今度は何だ」
「助けてくれて、ありがとうございました」
「それは聞いた」
「もう一回言いたかったので」
「そうか」
「はい」
大和さんは少しだけ視線を逸らした。
「こっちこそ」
「何がですか?」
「戻って来てくれて、助かった」
その言い方が少し変だった。
助けたのは大和さんなのに。
戻って来たのは、私の心臓なのに。
でも、大和さんの中では、きっとそうなのだと思った。
私は目を閉じる。
今度は、少しだけ閉じられた。
マンドラゴラの叫び声は、まだ耳の奥に残っている。
でも、その上に大和さんの声が乗っていた。
美憂。
聞こえるか。
息、出来るか。
その声が私をこちらへ引き戻した。
文字だけでは分からないことが多い。
昨日、大和さんの言葉を思い出した。
本当にそうだった。
画面の中では分からなかった。
大和さんが、こんな顔で怖がる人だとは知らなかった。
こんな風に、乱暴な言葉で人を支える人だとは知らなかった。
私は布団の中で、胸の痛みを抱えたまま、ゆっくり息をした。
死んだらしい。
でも、生きている。
その事実だけが朝の灯京の中で妙に重かった。
そして少しだけ、温かかった。




