ep.74[Side M/異世界]Link: 人狼-09(前編)
翌朝、私は大和さんの家の低い天井を見上げて目を覚ました。
木の匂いがした。
昨日の夜に焚かれていた火の匂いも、ほんの少し残っている。
現代の部屋の乾いた空気とは違う。
石と土と、知らない生活の匂いが混ざっている。
私は布団の中で、ゆっくり瞬きをした。
昨日、本当に来たんだと思う。
人狼の世界。
獣人の村。
灯京。
そして、大和さん。
名前を知った。
顔を見た。
声を聞いた。
同じものを食べた。
文字だけの場所じゃなくなったことが、朝になってから改めて身体に戻って来る。
私は枕元に置いていたiPhoneを手に取った。
画面は普通に点いた。
四月十二日。
七時四十六分。
こちらに来てからも、時間は私の体感通りに進んでいる。
だからこそ、現代に戻った時にずれるのだと思う。
メモアプリを開く。
『人狼の世界 二日目 朝 7時46分』
そこまで打って、少しだけ考える。
それから、もう一行足した。
『iPhoneは使用可。時間表示も通常通り』
保存する。
保存したところで安心出来る訳ではない。
でも、何も残さないよりは良い。
足元に視線を落とす。
布団の端から、つま先が少しだけ見えていた。
ボルドーのペディキュアは、昨日と変わらず爪の上に乗っている。
欠けていない。
伸びてもいない。
当たり前だ。
まだ一日しか経っていない。
でも、確認せずにはいられなかった。
その時、戸の向こうから足音が近付いて来た。
重い。
けれど、乱暴ではない足音だった。
「起きてるか」
大和さんの声だった。
「はい」
「入るぞ」
「はい」
戸が開く。
大和さんは昨日と同じ短パンに、上だけ薄い上着を羽織っていた。
黒い髪が少し跳ねている。
昨日より、ほんの少しだけ生活の中の人に見えた。
「寝られたか」
「はい。思ったより」
「なら良かった。飯、食えるか」
「食べられます」
「昨日の菓子は?」
「……朝ご飯にするものではないと思います」
「何でだよ。美味かっただろ」
「美味しいですけど、朝からガトーショコラは少し重いです」
「重い?」
「甘くて、濃いので」
「贅沢な文句だな」
「文句じゃないです」
「じゃあ何だ」
「体調管理です」
大和さんは少しだけ眉を上げた。
「村長の家で朝から体調管理か」
「村長の家だからです」
「何でだよ」
「倒れたら迷惑を掛けるので」
「倒れる予定で来てんのか」
「予定はしていません」
「なら良い」
大和さんはそう言って、少しだけ笑った。
その笑い方を見て、私は小さく息を吐く。
昨日より、少しだけ怖くない。
でも、怖くないと思った直後に、やっぱり知らない人だとも思う。
知らない。
でも、昨日よりは知っている。
その中間に立っている感じがした。
「今日は村を少し見るか」
「良いんですか?」
「あぁ。ただ、その前に畑へ寄る」
「畑ですか?」
「朝に採った方が良いもんがある」
「野菜ですか?」
「野菜みたいなもん」
「みたいなもの」
「美憂の世界の野菜と同じだと思うなよ」
「そんなに違うんですか?」
「こっちの畑は、たまに叫ぶ」
「……畑が?」
「畑じゃねぇ。中身が」
私は布団の端を掴んだまま、少しだけ固まった。
「行きたくなくなって来ました」
「今のうちに言っとく。勝手に触るな。抜くな。匂い嗅ぐな。食うな」
「子ども扱いじゃないですか」
「昨日、ガトーアンコに名前付けてた奴が何言ってんだ」
「それは関係あります?」
「ある。美憂は変なものに優しい」
「変なものって言い方は酷いです」
「じゃあ、名前の無いもの」
その言葉に、少しだけ指が止まる。
名前の無いもの。
昨日、私がガトーアンコに名前を付けた。
大和さんはそれを笑わなかった。
少し困ったみたいに受け取っていた。
あの時の沈黙が、今の言葉の後ろに少しだけ残っている気がした。
「……気を付けます」
「頼む」
「そんなに危ないんですか?」
「危ないっつーか、面倒臭い」
「面倒臭い?」
「抜くと叫ぶ。叫ぶと倒れる。倒れると大変」
「大変の種類が分からないです」
「分からないままで良い。触るな」
「はい」
私は素直に頷いた。
大和さんはそれを見てから、戸の向こうへ顎を向ける。
「支度出来たら来い。飯、用意しとく」
「ありがとうございます」
「あと、昨日のクッキー少し貰って良いか」
「朝ご飯にするんですか?」
「体調管理する」
「それは体調管理じゃないです」
「じゃあ村長管理」
「もっと分からないです」
大和さんは少し笑って、戸を閉めた。
部屋が静かになる。
私は布団から出て、ゆっくり立ち上がった。
足元に石の冷たさが伝わる。
現代のフローリングとは違う。
平らではない。
少しだけざらついていて、身体が今いる場所を教えてくる。
着替える。
髪を整える。
iPhoneをポケットに入れる。
ペディキュアが見えないように靴下を履いて、PUMAのスニーカを履いた。
つま先の赤は隠れた。
でも、そこにある。
私は一度だけ足先に力を入れてから、部屋を出た。
大和さんの家の中は、朝の光で昨日より少し柔らかく見えた。
低いテーブル。
木の器。
壁に掛けられた道具。
見慣れないものばかりなのに、使われていることだけは分かる。
生活がある。
それだけで、少し安心する。
台所の方から、香ばしい匂いがした。
大和さんが何かを焼いている。
「座ってろ」
「手伝います」
「今日はいい」
「でも」
「初日に叫ぶ畑へ行く奴を、朝から働かせるのは村長としてどうかと思う」
「畑は大和さんが連れて行くんですよね?」
「だから俺が飯を出す」
「理屈が合っているような、合っていないような」
「美憂は細かいな」
「大和さんが大雑把なんです」
「よく言われる」
大和さんは木の皿を置いた。
薄く焼いたパンみたいなもの。
それから、豆を煮たもの。
昨日の餡子とは違って、甘くはなさそうだった。
「いただきます」
「おう」
私は慎重に口へ運ぶ。
少し固い。
でも、噛むほど香ばしい。
豆は塩気があって、素朴な味がした。
「美味しいです」
「本当か?」
「はい」
「昨日のガトーショコラより?」
「比べるものじゃないです」
「そういう逃げ方するのか」
「朝ご飯としては、こっちの方が好きです」
「よし。勝った」
「勝負だったんですか?」
「何でも勝負にした方が分かりやすいだろ」
「大和さん、子どもみたいです」
「村長だぞ」
「子どもの村長もいるかもしれません」
「いねぇよ」
そう言って、大和さんは少し笑う。
私も少しだけ笑った。
食事が終わると、大和さんは籠を一つ持って来た。
編まれた籠だった。
取っ手が太くて、少し重い。
「持てるか」
「はい」
「重くなったら言え」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃなくなる前に言え」
その言い方に、少しだけ胸が止まる。
大丈夫じゃなくなる前に。
私はその言葉を、何故かすぐに飲み込めなかった。
大丈夫じゃなくなってから言うことの方が、多分、私は多かった。
「……はい」
「何だよ」
「いえ。分かりました」
「なら行くぞ」
家を出ると、朝の灯京は昨日よりずっと明るかった。
石造りの道に光が落ちている。
軒先には布が干され、遠くで誰かが水を運んでいる。
猪みたいな人。
鼠みたいな人。
牛みたいな人。
虎みたいな人。
兎みたいな人。
昨日は動物園みたいだと思った。
でも、朝に見ると少し違う。
皆、生活している。
歩いて、話して、荷物を持って、店を開けている。
動物みたいな人達、ではない。
人だった。
そのことに気付いた瞬間、少しだけ恥ずかしくなる。
「どうした」
「いえ」
「珍しいか」
「はい」
「だろうな」
「でも、昨日より怖くないです」
言ってから、少しだけしまったと思う。
失礼だったかもしれない。
けれど、大和さんは怒らなかった。
「怖かったか」
「昨日は、少し」
「まあ、いきなり猪だの牛だの歩いてたらな」
「今も歩いてますけど」
「今は朝だからな」
「朝だと怖くないんですか?」
「腹減ってる奴が多いから、皆それどころじゃねぇ」
「それはそれで怖いです」
大和さんは笑った。
その笑い方に、少しだけ周りの視線が集まる。
でも、昨日みたいに刺さる感じではなかった。
「村長、おはようございます」
「あぁ」
「そちらの方が?」
「美憂。俺の客だ」
「お客さんでしたか。おはようございます」
「あ、おはようございます」
兎みたいな耳の女性が、丁寧に頭を下げた。
私も慌てて頭を下げる。
大和さんの客。
その言い方が、少しだけ不思議だった。
恋人でも、友達でも、リンク相手でもない。
でも、ただの知らない人でもない。
客。
今の私には、そのくらいの距離が丁度良い気もした。
村の端へ向かうにつれて、石畳が少しずつ土の道へ変わっていった。
家の数が減る。
代わりに、畑が見え始める。
畑。
でも、私が知っている畑とは少し違った。
土の色が濃い。
葉の形が知らないものばかりだった。
丸い葉。
細い葉。
紫色の茎。
小さな鈴みたいな実。
何かの顔みたいに見える根の先。
「……これ、全部食べ物ですか?」
「食えるやつもある」
「食べられないものも植えてるんですか?」
「薬になる」
「薬」
「あと、毒にもなる」
「さらっと怖いこと言わないでください」
「だから触るなって言っただろ」
私は籠を抱え直した。
「本当に触りません」
「よし」
大和さんは畑の端にしゃがみ込む。
大きな身体が土の上で意外なくらい自然に収まる。
手付きも乱暴ではなかった。
葉を避け、茎を確かめ、必要なものだけを選んでいる。
「慣れてるんですね」
「そりゃな。飯は畑から来る」
「村長なのに畑仕事もするんですか?」
「村長だからするんだよ」
「そういうものですか?」
「デカい家で偉そうにしてるだけなら、誰も付いて来ねぇだろ」
私は少しだけ黙る。
デカいのが村長だ。
昨日、大和さんはそう言った。
でも、今の大和さんを見ると、それだけではないのだと分かる。
畑にしゃがんで、葉の裏を見て、土を払っている。
その背中は、偉そうではなかった。
「美憂」
「はい」
「籠、こっち」
「あ、はい」
私は近付く。
足元の土が柔らかい。
一歩踏む度に、靴底が少し沈む。
「歩きにくいです」
「畑だからな」
「畑って、もっと平らなものだと思ってました」
「美憂の世界の畑は行儀が良いんだな」
「畑に行儀ってあります?」
「こっちの畑には無ぇ」
大和さんが採った葉を籠へ入れる。
少し甘い匂いがした。
でも、勝手に嗅いではいけないと言われたので、私は顔を近付けなかった。
「偉いな」
「何がですか?」
「嗅がなかった」
「言われたので」
「ちゃんと聞ける奴は偉い」
「犬みたいに褒めないでください」
「人狼に言われると嫌か」
「少し」
「じゃあ褒めねぇ」
「それはそれで嫌です」
「面倒だな」
大和さんは笑う。
私は少しだけ頬を膨らませた。
その時、畑の奥から小さな声がした。
声、だったと思う。
でも、人の声ではない。
風に混ざった、細い笛みたいな音だった。
「今の、何ですか?」
「ん?」
「何か、鳴りました」
「あぁ。あれだ」
大和さんが顎で示した先に、丸い葉が群れていた。
地面から掌くらいの葉が幾つも出ている。
そのうち一つだけ、葉先が微かに震えていた。
「あれが叫ぶやつですか?」
「叫ぶ前のやつ」
「前?」
「熟すと叫ぶ」
「熟すと叫ぶ植物、嫌過ぎませんか?」
「慣れる」
「慣れたくないです」
「俺も最初はそう思った」
「慣れたんですね」
「慣れた」
大和さんは平然と言う。
私はその丸い葉をじっと見る。
葉だけを見ると、可愛い。
少し丸くて、柔らかそうで、畑の端で小さく揺れている。
これが叫ぶとは思えない。
「名前は何ですか?」
「マンドラゴラ」
「マンドラゴラ」
名前は知っていた。
物語の中で見たことがある。
抜くと叫ぶ植物。
その声を聞くと死ぬ、とか。
気絶する、とか。
作品によって色々違った気がする。
「本当にあるんですね」
「美憂の世界にもあるのか?」
「多分、物語の中だけです」
「じゃあ、こっちの方が本物だな」
「本物が畑にあるの怖いです」
「薬になる」
「叫ぶのに?」
「叫ぶけど薬になる」
「そこは両立するんですね」
「人間だって騒ぐけど働くだろ」
「例えが少し雑です」
大和さんはまた笑った。
「マンドラゴラは今日は抜かない。まだ早い」
「熟してないからですか?」
「そう。熟してないやつは声が中途半端で逆に危ねぇ」
「中途半端な方が危ないんですか?」
「音が割れる」
「音が割れる?」
「説明が難しい。とにかく触るな」
「はい」
私は頷いた。
ちゃんと頷いた。
本当に触る気はなかった。
大和さんは別の畝へ移動する。
私は籠を抱えて、その後ろを追う。
その時、靴の先が柔らかい土に取られた。
「あ」
身体が前へ傾く。
籠が腕の中でずれる。
転ぶ、と思った。
咄嗟に、近くに生えていた丸い葉を掴んだ。
「美憂!」
大和さんの声が飛ぶ。
でも、もう遅かった。
私の手の中で、葉が抜けた。
土の中から、白っぽい根が現れる。
根、というより、小さな人の形に見えた。
丸い頭。
細い腕。
曲がった脚。
その顔みたいな部分に、黒い筋が走っている。
目が開いた。
「……」
私は息を止めた。
マンドラゴラが、口を開けた。
音が来た。
叫び声というより、世界の一部が裂ける音だった。
細い。
高い。
でも、耳だけで聞く音じゃない。
頭の中に直接、白い針を刺されたみたいだった。
「っ──」
声が出ない。
籠が腕から落ちる。
土の上に葉が散らばる。
大和さんがこちらへ走って来るのが見えた。
大きな身体なのに、驚くほど速い。
でも、音の方が速かった。
視界が白くなる。
次に、黒くなる。
胸の奥が一度だけ強く縮んで、それから何かを忘れた。
呼吸。
呼吸の仕方を、身体が忘れる。
私は倒れた。
倒れたはずなのに、痛みは来なかった。
地面に着く前に、何か大きなものに受け止められた気がした。
大和さんの腕だと思う。
でも、そこから先は分からなかった。
音が遠くなる。
畑の匂いも、朝の光も、大和さんの声も、全部が水の底みたいに遠ざかる。
最後に見えたのは、土の上でじたばたしている小さな白い根だった。
少しだけ、可哀想だと思った。




