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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

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瓶詰めの後悔(改訂版)

作者: 愛崎 朱憂
掲載日:2025/12/15

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・出来事は架空であり、実在のものとは関係ありません。


※作中に登場する商品名・サービス名は、各社の商標または登録商標です。

 この世界には、誰にも届かなかった手紙だけを集めて並べている棚がある。

 宛名も、切手も、きちんと貼られたまま。

 ただ投函されなかったか、投函された後で行き先を失った手紙達。

 空になったシトラス果肉の瓶に詰められて、誰にも触れられない棚に置かれている。



* * *



 土曜日の午後、工業街口(コウギョウガイコウ)駅前のスターバックスは、平日より少しだけ音が柔らかい。


 カップにスプーンがぶつかる音も、カップルに言葉がぶつかる音も、レシートが切れる乾いた音も、急かすためじゃなく店が生きているための音になる。

 ブレンダーの唸りが遠くで続き、笑い声と言い合いになりかけた声が膨らんでは消えた。


 私は店の奥の壁際、三人掛けソファの端に腰を下ろしていた。

 バイト終わりのエプロンから私服に着替え、AirPodsを耳に差し込み、スマホの画面を親指でなぞる。

 再生ボタンの白い三角は──押されていない。


 演技は得意だった。

 知らない振りも得意だった。


 店の音が好きだと言えば、ただの名残惜しさに見える。

 音楽を聴かない理由はいくらでも作れる。

 充電が少ないとか、気分じゃないとか。


 けれど、その日の理由は一つしか無かった。


 左前のテーブルから、声がした。


「……そっか」


 ゆうきさんの声だった。


 いつもバーでドリンクを受け取る時に『ありがとー』と言う、あの同じ声。

 優しいのに、結論だけはもう知っている声。

 でも、その日は少しだけ重かった。


 私は視線を画面から動かさないまま、氷が溶けていくのを待つ振りをした。

 音量はゼロ。

 世界の音だけが耳に入って来る。


 ゆうきさんはこの店の常連だった。

 パートナー達は皆、彼を知っている。

 裏のお客様ノートには『鈴のお客さん』と書かれている。


 何度か雑談をした。

 唐突に名を名乗られ、私も自分の名を返した。


 その日から、ゆうきさんは名前で呼ぶ距離に降りて来た。

 親しい振りをして押し込む感じじゃない。

 寧ろ、玄関で脱いだ靴を揃えてから入って来る──みたいな、妙な礼儀があった。


 今、ゆうきさんの向かいに座っているのは、見たことの無い若い女の人だった。


 その人は壁際のソファに座っている。

 背中の後ろに逃げ道が無い席。

 けれど、その狭さに守られているみたいにも見えた。


 ゆうきさんは通路側の椅子に座り、背中で店の喧騒を受け止めている。

 私は横を向けない。

 二人をまじまじと見ることなんて出来ない。

 だから、iPhoneを真っ暗にして、その反射だけで見ていた。


 女の人は両手でマグカップを抱き締めたまま視線を落としていた。

 飲むための飲み物じゃない。

 何かを誤魔化すための温度だけがそこにあるみたいだった。


 ゆうきさんは、少し背凭れに身体を預けてから言った。


「僕、これから酷いことを言うよ」


 沸かした言葉を、わざと冷ましてから置くみたいな声だった。


「きっと、それはもう終わってる関係だよ。待っててどうこうなるものじゃない」


 女の人の肩がほんの僅か、揺れた。


 具体的な単語は出て来ない。

 名前も、日付も、多分……別れた理由も。

 それでも、『終わったことを未だ信じたくない女の人』が目の前にいることだけは充分に伝わった。


 女の人は唇を結んだまま瞬きをした。

 涙が落ちるのを止める瞬きじゃない。

 落ちることを許す瞬きだった。


 頬を伝う一筋が店の照明を拾って光る。

 女の人は拭わなかった。

 泣くことを隠さないというより、隠す力が残っていない。


 私はその光る筋を視界の隅で捉えた。

 自分が泣いていないのに、胸だけがきゅっと縮む。


 そして、解った。

 ゆうきさんの言葉は、この女の人を傷付けるためじゃない。

 これ以上、余計な期待で傷を深くしないために、必要なだけ鋭くしてあるんだと。


 だから、ゆうきさんは慌てなかった。

 呼吸の速さだけを数えるみたいに、静かに待っていた。

 この人がちゃんと涙を流せるように。


「……ごめん」


 女の人の声は小さかった。

 謝っているのに、許しを取りに来る声じゃない。

 自分に言い聞かせる声に近い。


「ここから先はね──」


 ゆうきさんが引き取る。


「『待つ』じゃなくて、『生きる』の方だよ」


 その言葉が届いた瞬間、女の人の肩が更に沈んだ。

 支えてほしい時の沈み方じゃない。

 支えられてしまったら、自分の中で持っていたものまで崩れてしまう時の沈み方だった。


 ゆうきさんは、それを受け止めて黙っている。

 支えもしないし、突き放しもしない。

 沈むだけ沈ませて、その底まで届くのを待っているみたいだった。


 女の人は暫く黙っていた。

 やがて、息を吸い直す音が聞こえた。


「……分かってた」

「うん」

「分かってたのに、分からない振りをしてた」

「うん」

「それでも、待ちたかった。前みたいに……」


 そこから先は続かなかった。


 ゆうきさんが、ほんの少しだけ視線を落とす。

 慰めの言葉を探す視線じゃない。

 もう言うべきことは言った、という視線だった。


 女の人は泣いて席を立たない。

 立てないのかも知れない。

 立ったら、今までの『待つ』が終わってしまうから。


 私は、そこまで聞いてしまったことに気付いた。


 聴こえてしまったんじゃない。

 『聞いて』しまった。


 音楽を聴いている振りの中で、私の好奇心だけが静かに音量を上げていた。


 女の人が鞄を持つ衣擦れの音がした。

 ゆうきさんも立ち上がる。

 ゆうきさんは女の人を先に通し、テーブルの上を一度だけ見てから、


「しおりちゃん」


 小さな声で、そう言った。


 私は反射で顔を上げる。

 目が合った。


「変な話、聞かせてごめんね」


 ゆうきさんはいつもの顔で笑った。


「ううん。大丈夫だよ」


 そう答えて、私は息を止めた。


──しまった。


 再生していないAirPods。

 音量はゼロ。

 ゆうきさんの疑念は今、確信になった。


 咎められていないのに、胸が痛い。

 自分だけが、盗んだみたいな気持ちになる。


 二人は店を出て行った。

 私は画面の白い三角を見つめたまま、押せなかった。


 今更、押したところでさっきの会話は消えない。

 自分が『聞いた』という事実だけが残る。


 その日から、AirPodsの白さが少しだけ罪の色に見えるようになった。



 一カ月が過ぎた。


 夕方。

 空気は少し乾き、窓の外の光は冬に近い角度になっていた。


 私はまた、店の奥の席にいた。

 三十分の休憩。AirPods。

 再生ボタンの白い三角は、また止まったままだ。


 止められるはずだった。

 二度と聞かないと決めてもいた。

 けれど、私は後悔の種を指で弄ぶ癖を捨てられていなかった。


『知りたい』と『知りたくない』が、胸の中で並んだまま動かない。

 触れなければ済むはずなのに、視線だけが勝手にそちらへ行ってしまう。


──ほんの五分前だ。


 入口の自動ドアが開く。


 ゆうきさんだった。


 今日はスーツじゃない。

 喪服の黒だった。

 ネクタイの結び目がいつもより硬い。

 黒の服が胸の呼吸を押さえ付けているみたいに見えた。


 少し遅れて、もう一人の男の人が入って来る。


 同じく黒。

 けれど、黒の着方が違った。

 肩が落ち着かず、視線が定まらない。


 椅子の位置を確かめるように歩く。

 入って来た瞬間から、帰り道だけを探している背中だった。


──私の心臓が、急に速くなる。


 ゆうきさんは今日は壁際のソファに座った。

 守るための席じゃない──逃がすための席。


 男の人は通路側の椅子に腰を下ろす。

 立てば直ぐに出られる位置。

 逃げ道が確保されている。


 その配置だけで、もう充分だった。


 この人は逃げたくなる前提で(・・・・・・・・・)ここに座らされている。


 テーブルの間を通る時、お線香の匂いが鼻先を掠めた。


 私は、やはり真っ暗なiPhoneに目を落とす。

 音量はゼロ。

 世界の音だけが耳に入って来る。


 聞くまい──と唇を結ぶほど、耳が勝手に開く。

 自分の中の好奇心が、またスイッチに指を掛ける。


「君の言うことは正しいよ」


 ゆうきさんの声が低く落ち着いていた。

 正しさを褒める声じゃない。

 正しさを受け止めた上で、切る声だった。


「どちらかが離れたいと思った時点で、関係は終わりだ」

「……そう思って、言った」

「うん。だから、その判断自体は間違ってない」


 そこで一度だけ、言葉が止まる。


「ただ、それで終わらせて良い話じゃない」

「すみません」


 男の人の声が震えた。

 その瞬間、私の背中まで勝手に硬くなる。


「ううん。違う」


 ゆうきさんは、直ぐに言った。

 謝るために必要な呼吸より、少しだけ早く。


「謝る相手は僕じゃない」

「でも、俺は……」

「うん。今、君は『でも』って言ったよね」


 その言い方には、問い詰める響きが無かった。

 なのに、男の人の声だけがそこで止まる。


「その『でも』の先にあるのは、事情だよね。理由だよね。分かるよ。でも、今日はそこじゃない」


 私はそこで気付いた。

 ゆうきさんは質問しない。

 『どうして』とも『何で』とも訊かない。

 なのに、男の人だけが少しずつ逃げ場を失って行く。


「君は、自分が間違ったことをもう分かってる。だから今、言い訳を探してるんじゃなくて、軽くなるための言葉を探してる」

「……そんなつもりじゃ──」

「うん」


 被せるみたいに言ってから、ゆうきさんは少しも声を荒げずに続けた。


「だから先に言うね。今日は、軽くならない」


 紙カップの蓋が、テーブルの上で小さく鳴る。


 店の奥では注文番号を呼ぶ声がしている。

 スチームの音もする。

 世界は平気な顔で続いているのに──このテーブルの周りだけ、別の速度で時間が流れていた。


「君は、もう謝れないんだ」


 男の人が息を呑んだ。

 三人の間で、音が止まったように感じる。


「……あいつ、ほんとに」

「うん」

「ほんとに、死んだのかよ」

「亡くなった」


 短く、言い直す。


「君が背を向けた、その少し後に」

「……俺のせいだ」

「そう言えば、少し楽になれる?」


 男の人が何か言い返しかける気配がした。


「君のせいだ、って言い方は、正しそうに聞こえる。でも、それで君は自分の苦しさに名前を付けたいだけだ」

「楽になりたいに決まってんだろ」

「うん。だから言う。ここで楽になる方法は無い」


 その声は柔らかかった。

 柔らかいのに、一つずつ出口だけが消えて行く。


「君が謝りたいのは、君のためだよね」

「違──」

「違わないよ」


 ゆうきさんは迷わなかった。


「君は『ごめんなさい』って言って、終わりの形を作りたい。痛みを払って、帳尻が合ったことにしたい。けど、届かない謝罪は謝罪じゃない」


 そこで一拍置いて、言った。


「懺悔になる」


 知らない単語じゃないのに、知らない重さがあった。

 私はその言葉を、耳じゃなく胸の内側で聞いた気がした。


「じゃあ、俺はどうすりゃいいんだよ」

「生きるしかない」

「……綺麗事だろ」

「綺麗事だよ」


 ゆうきさんは、そこで少しだけ目を伏せた。

 でも、逃げなかった。


「でも、綺麗事じゃないと人は立ってられない時がある」


 男の人が乾いた笑いを漏らす。


「許されねぇのに?」

「許されないよ」


 即答だった。


「誰も君を許さない。君も君を許さない。多分、一生」


 その言い方は残酷なのに、残酷なことを言ってやろうという響きは無かった。

 代わりに、もうここにいない誰かの席まで守っているような声だった。


 私は息をするのが怖くなった。

 この人は今、自分のために怒っていない。


 男の人が声を荒げかける。


「言葉が足りなかったら、何だよ。言葉が足りなかったら……人は死ぬのかよ」

「死ぬこともある」


 ゆうきさんは声量を上げなかった。

 だからこそ、余計に怖かった。


 男の人が黙る。

 何かを飲み込む音がした。


 暫くしてから、ゆうきさんは静かに続けた。

 その静けさは、優しさだけのものじゃなかった。

 言葉が人を切る時の、あの正確な静けさだった。


「愛は、人を幸せにする力がある」


 男の人は何も言わない。

 ゆうきさんは、その沈黙ごと引き受けて先へ進む。


「でも反対に、人を壊す。信じた分だけ、裏切られた時の力も大きい」


 私は思わず、指先に力を入れた。

 AirPodsが耳にあることが、急に怖くなる。

 今まで何でも無く遣って来た言葉まで、勝手に思い出してしまう。


「人間が持ってる中で、多分、一番強い力なんだよ。愛って。……だから怖い。しかも、それに一番簡単に触れられるのが『言葉』だ」


 その一言で、男の人の言葉が止まる。


「もう二度と同じ間違いをしないなんて、出来ない。君はまた誰かに言葉を遣う。だったら、その度に今日のことを混ぜるしかない」

「痛みを……?」

「うん。今日の痛みを……。軽くならなかったことを。終わらなかったことを。言葉を遣う度に思い出せるように、それを自分の中に残しておく。それが君の責任だ」


 男の人が椅子を引いた。

 通路側。直ぐに立てる席の音だった。


「俺……」


 そこから先の言葉は出なかった。

 出なかったまま、男の人は立ち上がる。


 黒い背中が、出口へ向かう。

 ゆうきさんは追わなかった。


 追わないことが、今日の配慮なんだ──とでも言うみたいに、ただ座ったままカップの縁を見ていた。


 その横顔が前に泣いていた女の人の横顔と重なる。

 『待ちたかった』と言った口元。

 拭われなかった涙。


 私の胸が、遅れて痛くなる。


 私は、再生ボタンに指を置けない。

 押せば音楽が鳴る。

 聞かなかったことに出来る。

 誰にも知られないまま、ずっと聴いていた振りだって出来る。


──でも、押せなかった。


 胸に届いてしまった言葉は、消えないと分かったからだ。

 私の中には、未だ白い三角が止まったまま残っていた。


 このまま誰にも知られない方が楽だと思う。

 聞いてしまったことも……聞かなかった顔で抱え込んだ方が、きっと簡単だ。


 それなのに、胸のどこかがゆうきさんの方を向こうとする。


 助けてほしい、と思ったのかも知れない。

 でも、それだけじゃなかった。


 このままだと、私の中の『聞いてしまった』が、私一人のものになってしまう。

 それが苦しかった。


 私は、そこで初めて息を吸った。

 何か言おうとして……結局、声にはならなかった。


 ゆうきさんが立ち上がる音がした。

 お線香の匂いは、もう殆ど残っていない。


 足音が近付く。

 私は、顔を上げられない。

 音楽を聴いている振りを止められない──


「大丈夫──」


 直ぐ近くで、ゆうきさんの声がした。


「たまごっちの話だよ」


 私は咄嗟に顔を上げた。


 そこにはいつもの優しい笑顔があった。


 盗み聞きしたことも。

 聞かなかった振りをしていたことも。

 全部知った上で、冗談みたいな顔をして。


 ゆうきさんは私だけに聴こえる声で──私の呪いを解いてくれていた。 



* * *



 瓶の中の手紙は、誰にも読まれない。

 読まれないまま、綺麗に折られた紙だけがそこにある。

 瓶のガラス越しに見える封の糊は、もう乾いている。

 乾いたまま、解けない。

 解けないまま、今日も棚に並んでいる。


──一つ、封筒の入った瓶がある。コーヒーフラペチーノの色だ。


 誰かに届かなかった言葉は、いつだって少しだけ遅れて、別の誰かの胸に残る。

 残ったものの名前は──多分、後悔だ。

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― 新着の感想 ―
土曜午後のスタバの空気から始まる冒頭の描写だけで、一気に物語の中に連れて行かれました。 「音量ゼロのAirPods」と「世界の音」っていうモチーフで、“聞こえてしまった”じゃなく“聞いてしまった”罪悪…
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