瓶詰めの後悔(改訂版)
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・出来事は架空であり、実在のものとは関係ありません。
※作中に登場する商品名・サービス名は、各社の商標または登録商標です。
この世界には、誰にも届かなかった手紙だけを集めて並べている棚がある。
宛名も、切手も、きちんと貼られたまま。
ただ投函されなかったか、投函された後で行き先を失った手紙達。
空になったシトラス果肉の瓶に詰められて、誰にも触れられない棚に置かれている。
* * *
土曜日の午後、工業街口駅前のスターバックスは、平日より少しだけ音が柔らかい。
カップにスプーンがぶつかる音も、カップルに言葉がぶつかる音も、レシートが切れる乾いた音も、急かすためじゃなく店が生きているための音になる。
ブレンダーの唸りが遠くで続き、笑い声と言い合いになりかけた声が膨らんでは消えた。
私は店の奥の壁際、三人掛けソファの端に腰を下ろしていた。
バイト終わりのエプロンから私服に着替え、AirPodsを耳に差し込み、スマホの画面を親指でなぞる。
再生ボタンの白い三角は──押されていない。
演技は得意だった。
知らない振りも得意だった。
店の音が好きだと言えば、ただの名残惜しさに見える。
音楽を聴かない理由はいくらでも作れる。
充電が少ないとか、気分じゃないとか。
けれど、その日の理由は一つしか無かった。
左前のテーブルから、声がした。
「……そっか」
ゆうきさんの声だった。
いつもバーでドリンクを受け取る時に『ありがとー』と言う、あの同じ声。
優しいのに、結論だけはもう知っている声。
でも、その日は少しだけ重かった。
私は視線を画面から動かさないまま、氷が溶けていくのを待つ振りをした。
音量はゼロ。
世界の音だけが耳に入って来る。
ゆうきさんはこの店の常連だった。
パートナー達は皆、彼を知っている。
裏のお客様ノートには『鈴のお客さん』と書かれている。
何度か雑談をした。
唐突に名を名乗られ、私も自分の名を返した。
その日から、ゆうきさんは名前で呼ぶ距離に降りて来た。
親しい振りをして押し込む感じじゃない。
寧ろ、玄関で脱いだ靴を揃えてから入って来る──みたいな、妙な礼儀があった。
今、ゆうきさんの向かいに座っているのは、見たことの無い若い女の人だった。
その人は壁際のソファに座っている。
背中の後ろに逃げ道が無い席。
けれど、その狭さに守られているみたいにも見えた。
ゆうきさんは通路側の椅子に座り、背中で店の喧騒を受け止めている。
私は横を向けない。
二人をまじまじと見ることなんて出来ない。
だから、iPhoneを真っ暗にして、その反射だけで見ていた。
女の人は両手でマグカップを抱き締めたまま視線を落としていた。
飲むための飲み物じゃない。
何かを誤魔化すための温度だけがそこにあるみたいだった。
ゆうきさんは、少し背凭れに身体を預けてから言った。
「僕、これから酷いことを言うよ」
沸かした言葉を、わざと冷ましてから置くみたいな声だった。
「きっと、それはもう終わってる関係だよ。待っててどうこうなるものじゃない」
女の人の肩がほんの僅か、揺れた。
具体的な単語は出て来ない。
名前も、日付も、多分……別れた理由も。
それでも、『終わったことを未だ信じたくない女の人』が目の前にいることだけは充分に伝わった。
女の人は唇を結んだまま瞬きをした。
涙が落ちるのを止める瞬きじゃない。
落ちることを許す瞬きだった。
頬を伝う一筋が店の照明を拾って光る。
女の人は拭わなかった。
泣くことを隠さないというより、隠す力が残っていない。
私はその光る筋を視界の隅で捉えた。
自分が泣いていないのに、胸だけがきゅっと縮む。
そして、解った。
ゆうきさんの言葉は、この女の人を傷付けるためじゃない。
これ以上、余計な期待で傷を深くしないために、必要なだけ鋭くしてあるんだと。
だから、ゆうきさんは慌てなかった。
呼吸の速さだけを数えるみたいに、静かに待っていた。
この人がちゃんと涙を流せるように。
「……ごめん」
女の人の声は小さかった。
謝っているのに、許しを取りに来る声じゃない。
自分に言い聞かせる声に近い。
「ここから先はね──」
ゆうきさんが引き取る。
「『待つ』じゃなくて、『生きる』の方だよ」
その言葉が届いた瞬間、女の人の肩が更に沈んだ。
支えてほしい時の沈み方じゃない。
支えられてしまったら、自分の中で持っていたものまで崩れてしまう時の沈み方だった。
ゆうきさんは、それを受け止めて黙っている。
支えもしないし、突き放しもしない。
沈むだけ沈ませて、その底まで届くのを待っているみたいだった。
女の人は暫く黙っていた。
やがて、息を吸い直す音が聞こえた。
「……分かってた」
「うん」
「分かってたのに、分からない振りをしてた」
「うん」
「それでも、待ちたかった。前みたいに……」
そこから先は続かなかった。
ゆうきさんが、ほんの少しだけ視線を落とす。
慰めの言葉を探す視線じゃない。
もう言うべきことは言った、という視線だった。
女の人は泣いて席を立たない。
立てないのかも知れない。
立ったら、今までの『待つ』が終わってしまうから。
私は、そこまで聞いてしまったことに気付いた。
聴こえてしまったんじゃない。
『聞いて』しまった。
音楽を聴いている振りの中で、私の好奇心だけが静かに音量を上げていた。
女の人が鞄を持つ衣擦れの音がした。
ゆうきさんも立ち上がる。
ゆうきさんは女の人を先に通し、テーブルの上を一度だけ見てから、
「しおりちゃん」
小さな声で、そう言った。
私は反射で顔を上げる。
目が合った。
「変な話、聞かせてごめんね」
ゆうきさんはいつもの顔で笑った。
「ううん。大丈夫だよ」
そう答えて、私は息を止めた。
──しまった。
再生していないAirPods。
音量はゼロ。
ゆうきさんの疑念は今、確信になった。
咎められていないのに、胸が痛い。
自分だけが、盗んだみたいな気持ちになる。
二人は店を出て行った。
私は画面の白い三角を見つめたまま、押せなかった。
今更、押したところでさっきの会話は消えない。
自分が『聞いた』という事実だけが残る。
その日から、AirPodsの白さが少しだけ罪の色に見えるようになった。
一カ月が過ぎた。
夕方。
空気は少し乾き、窓の外の光は冬に近い角度になっていた。
私はまた、店の奥の席にいた。
三十分の休憩。AirPods。
再生ボタンの白い三角は、また止まったままだ。
止められるはずだった。
二度と聞かないと決めてもいた。
けれど、私は後悔の種を指で弄ぶ癖を捨てられていなかった。
『知りたい』と『知りたくない』が、胸の中で並んだまま動かない。
触れなければ済むはずなのに、視線だけが勝手にそちらへ行ってしまう。
──ほんの五分前だ。
入口の自動ドアが開く。
ゆうきさんだった。
今日はスーツじゃない。
喪服の黒だった。
ネクタイの結び目がいつもより硬い。
黒の服が胸の呼吸を押さえ付けているみたいに見えた。
少し遅れて、もう一人の男の人が入って来る。
同じく黒。
けれど、黒の着方が違った。
肩が落ち着かず、視線が定まらない。
椅子の位置を確かめるように歩く。
入って来た瞬間から、帰り道だけを探している背中だった。
──私の心臓が、急に速くなる。
ゆうきさんは今日は壁際のソファに座った。
守るための席じゃない──逃がすための席。
男の人は通路側の椅子に腰を下ろす。
立てば直ぐに出られる位置。
逃げ道が確保されている。
その配置だけで、もう充分だった。
この人は逃げたくなる前提でここに座らされている。
テーブルの間を通る時、お線香の匂いが鼻先を掠めた。
私は、やはり真っ暗なiPhoneに目を落とす。
音量はゼロ。
世界の音だけが耳に入って来る。
聞くまい──と唇を結ぶほど、耳が勝手に開く。
自分の中の好奇心が、またスイッチに指を掛ける。
「君の言うことは正しいよ」
ゆうきさんの声が低く落ち着いていた。
正しさを褒める声じゃない。
正しさを受け止めた上で、切る声だった。
「どちらかが離れたいと思った時点で、関係は終わりだ」
「……そう思って、言った」
「うん。だから、その判断自体は間違ってない」
そこで一度だけ、言葉が止まる。
「ただ、それで終わらせて良い話じゃない」
「すみません」
男の人の声が震えた。
その瞬間、私の背中まで勝手に硬くなる。
「ううん。違う」
ゆうきさんは、直ぐに言った。
謝るために必要な呼吸より、少しだけ早く。
「謝る相手は僕じゃない」
「でも、俺は……」
「うん。今、君は『でも』って言ったよね」
その言い方には、問い詰める響きが無かった。
なのに、男の人の声だけがそこで止まる。
「その『でも』の先にあるのは、事情だよね。理由だよね。分かるよ。でも、今日はそこじゃない」
私はそこで気付いた。
ゆうきさんは質問しない。
『どうして』とも『何で』とも訊かない。
なのに、男の人だけが少しずつ逃げ場を失って行く。
「君は、自分が間違ったことをもう分かってる。だから今、言い訳を探してるんじゃなくて、軽くなるための言葉を探してる」
「……そんなつもりじゃ──」
「うん」
被せるみたいに言ってから、ゆうきさんは少しも声を荒げずに続けた。
「だから先に言うね。今日は、軽くならない」
紙カップの蓋が、テーブルの上で小さく鳴る。
店の奥では注文番号を呼ぶ声がしている。
スチームの音もする。
世界は平気な顔で続いているのに──このテーブルの周りだけ、別の速度で時間が流れていた。
「君は、もう謝れないんだ」
男の人が息を呑んだ。
三人の間で、音が止まったように感じる。
「……あいつ、ほんとに」
「うん」
「ほんとに、死んだのかよ」
「亡くなった」
短く、言い直す。
「君が背を向けた、その少し後に」
「……俺のせいだ」
「そう言えば、少し楽になれる?」
男の人が何か言い返しかける気配がした。
「君のせいだ、って言い方は、正しそうに聞こえる。でも、それで君は自分の苦しさに名前を付けたいだけだ」
「楽になりたいに決まってんだろ」
「うん。だから言う。ここで楽になる方法は無い」
その声は柔らかかった。
柔らかいのに、一つずつ出口だけが消えて行く。
「君が謝りたいのは、君のためだよね」
「違──」
「違わないよ」
ゆうきさんは迷わなかった。
「君は『ごめんなさい』って言って、終わりの形を作りたい。痛みを払って、帳尻が合ったことにしたい。けど、届かない謝罪は謝罪じゃない」
そこで一拍置いて、言った。
「懺悔になる」
知らない単語じゃないのに、知らない重さがあった。
私はその言葉を、耳じゃなく胸の内側で聞いた気がした。
「じゃあ、俺はどうすりゃいいんだよ」
「生きるしかない」
「……綺麗事だろ」
「綺麗事だよ」
ゆうきさんは、そこで少しだけ目を伏せた。
でも、逃げなかった。
「でも、綺麗事じゃないと人は立ってられない時がある」
男の人が乾いた笑いを漏らす。
「許されねぇのに?」
「許されないよ」
即答だった。
「誰も君を許さない。君も君を許さない。多分、一生」
その言い方は残酷なのに、残酷なことを言ってやろうという響きは無かった。
代わりに、もうここにいない誰かの席まで守っているような声だった。
私は息をするのが怖くなった。
この人は今、自分のために怒っていない。
男の人が声を荒げかける。
「言葉が足りなかったら、何だよ。言葉が足りなかったら……人は死ぬのかよ」
「死ぬこともある」
ゆうきさんは声量を上げなかった。
だからこそ、余計に怖かった。
男の人が黙る。
何かを飲み込む音がした。
暫くしてから、ゆうきさんは静かに続けた。
その静けさは、優しさだけのものじゃなかった。
言葉が人を切る時の、あの正確な静けさだった。
「愛は、人を幸せにする力がある」
男の人は何も言わない。
ゆうきさんは、その沈黙ごと引き受けて先へ進む。
「でも反対に、人を壊す。信じた分だけ、裏切られた時の力も大きい」
私は思わず、指先に力を入れた。
AirPodsが耳にあることが、急に怖くなる。
今まで何でも無く遣って来た言葉まで、勝手に思い出してしまう。
「人間が持ってる中で、多分、一番強い力なんだよ。愛って。……だから怖い。しかも、それに一番簡単に触れられるのが『言葉』だ」
その一言で、男の人の言葉が止まる。
「もう二度と同じ間違いをしないなんて、出来ない。君はまた誰かに言葉を遣う。だったら、その度に今日のことを混ぜるしかない」
「痛みを……?」
「うん。今日の痛みを……。軽くならなかったことを。終わらなかったことを。言葉を遣う度に思い出せるように、それを自分の中に残しておく。それが君の責任だ」
男の人が椅子を引いた。
通路側。直ぐに立てる席の音だった。
「俺……」
そこから先の言葉は出なかった。
出なかったまま、男の人は立ち上がる。
黒い背中が、出口へ向かう。
ゆうきさんは追わなかった。
追わないことが、今日の配慮なんだ──とでも言うみたいに、ただ座ったままカップの縁を見ていた。
その横顔が前に泣いていた女の人の横顔と重なる。
『待ちたかった』と言った口元。
拭われなかった涙。
私の胸が、遅れて痛くなる。
私は、再生ボタンに指を置けない。
押せば音楽が鳴る。
聞かなかったことに出来る。
誰にも知られないまま、ずっと聴いていた振りだって出来る。
──でも、押せなかった。
胸に届いてしまった言葉は、消えないと分かったからだ。
私の中には、未だ白い三角が止まったまま残っていた。
このまま誰にも知られない方が楽だと思う。
聞いてしまったことも……聞かなかった顔で抱え込んだ方が、きっと簡単だ。
それなのに、胸のどこかがゆうきさんの方を向こうとする。
助けてほしい、と思ったのかも知れない。
でも、それだけじゃなかった。
このままだと、私の中の『聞いてしまった』が、私一人のものになってしまう。
それが苦しかった。
私は、そこで初めて息を吸った。
何か言おうとして……結局、声にはならなかった。
ゆうきさんが立ち上がる音がした。
お線香の匂いは、もう殆ど残っていない。
足音が近付く。
私は、顔を上げられない。
音楽を聴いている振りを止められない──
「大丈夫──」
直ぐ近くで、ゆうきさんの声がした。
「たまごっちの話だよ」
私は咄嗟に顔を上げた。
そこにはいつもの優しい笑顔があった。
盗み聞きしたことも。
聞かなかった振りをしていたことも。
全部知った上で、冗談みたいな顔をして。
ゆうきさんは私だけに聴こえる声で──私の呪いを解いてくれていた。
* * *
瓶の中の手紙は、誰にも読まれない。
読まれないまま、綺麗に折られた紙だけがそこにある。
瓶のガラス越しに見える封の糊は、もう乾いている。
乾いたまま、解けない。
解けないまま、今日も棚に並んでいる。
──一つ、封筒の入った瓶がある。コーヒーフラペチーノの色だ。
誰かに届かなかった言葉は、いつだって少しだけ遅れて、別の誰かの胸に残る。
残ったものの名前は──多分、後悔だ。




