ep.73[Side シルヴェーヌ/幕間]エルフ-間話
夜は白くない。
白くないから、森の輪郭が曖昧になる。
曖昧になるのに、危険だけは逆に近付く。
歩く音を立てないようにする。
立てないようにすると、耳が要らない音まで拾う。
拾うから、心が先に疲れる。
私は廊下の角で止まった。
木目の床に落ちる灯りが薄い。
薄い灯りの中で、扉だけが固く見える。
あの部屋の扉だ。
今日、私が閉めた扉。
閉めた手袋の感触がまだ残っている。
私は指を見た。
白い手袋は綺麗だ。
綺麗なのに、指先だけが少し重い。
重いのは、汚れじゃない。
言わなかった言葉の重さだ。
扉を叩く回数を、私は指の関節で確かめた。
四回。
四回以外は開けさせるな。
四回以外は、誰にも。
私は四回叩いた。
短く、均等に。
叩く音が木に吸われて、すぐ静かになる。
静かになった瞬間、内側の気配が固くなったのが分かる。
ミユは賢い。
賢いから、怖がり方も正しい。
正しい怖がり方は、人を動けなくする。
扉が開いた。
ミユの目が私を見付ける。
見付けて、安心しかけて、それから止まる。
私の顔が今日の顔じゃないと気付いた顔だ。
「……シルヴェーヌ?」
私は返事を短くする。
短くしろと言われたからじゃない。
短くしないと、声が震える。
「入る前に、これ」
私は石を出した。
掌に乗せた時、石は軽かった。
軽いのに、落とせないと思わせる重さがある。
ミユの掌に置く。
置いた瞬間、熱が来る。
熱が来るのに、私は離す。
「落とさないで」
言い方が命令の形になる。
命令をしたい訳じゃない。
でも、命令じゃない形は今は使えない。
「……これ、転移石?」
ミユが訊いた。
私は頷かない。
首を振らない。
答えない。
答えれば、彼女は意味を知る。
意味を知れば、彼女は選べる。
選べる人は、必ず善い方へ行こうとする。
善い方へ行こうとして、森が焼ける未来が残る。
私は答えないまま、彼女の指先を軽く握った。
握ったのは、伝えるためじゃない。
伝えられない代わりに、残すためだ。
「ごめん」
それだけ言って、私は扉を閉めた。
閉めた音が妙に大きい。
大きいのに、あの部屋の中は静かなままだ。
閉めた扉の向こうで、ミユが石をポケットに入れる気配がする。
気配だけで分かる。
分かってしまう。
彼女は分からないまま受け入れる。
分からないまま信じる。
信じるから、私は今日の「ごめん」を言った。
私は廊下を走った。
走ると服が揺れる。
揺れる服の音だけが、私の焦りを誤魔化してくれる。
曲がり角の先に、リュミエル様が居た。
灯りの外に居るのに、目だけが明るい。
明るい目は、優しさじゃない。
決めるための光だ。
「渡しましたか?」
私は息を整えた。
整えたつもりでも胸は落ち着かない。
「……はい」
「質問はされましたか?」
「……されました」
「答えましたか?」
私は一瞬だけ視線を落とした。
落とした瞬間、手袋の白さが目に刺さる。
「……答えていません」
リュミエル様は頷いた。
頷きは肯定だ。
肯定なのに、胸が痛い。
「あなたが悪いのではありません」
その言葉は私を救わない。
救わないどころか、私を動けなくする。
赦しは、責任を軽くしない。
責任の形を固める。
「……ミユは、話せば協力してくれます」
私は言ってしまった。
言うつもりじゃなかったのに、口が先に動いた。
動いた口が、私の甘さを晒す。
「えぇ。そうでしょう」
リュミエル様は淡々と言った。
淡々としているから、否定より冷たい。
「ですが、それは賭けです」
賭け。
賭けという言葉は軽い。
軽いのに、この森の命が全部乗っている。
私は唇を噛んだ。
噛むと血の味がする。
血の味がするから、現実だと分かる。
「指示が多過ぎます」
私はやっと言えた。
言えた瞬間に喉が熱くなる。
喉が熱くなるのに、涙は出ない。
「ノックの回数。窓を開ける幅。飲む回数。返事の長さ。……何の意味が?」
リュミエル様は少しも表情を変えない。
変えないまま、言った。
「何の意味もありません」
私は一歩、止まった。
止まった足が、床の木目に刺さる。
「……は?」
私の声は短い。
短い声しか出ないのが、今日の自分の限界だった。
「意味のありそうなことを、説明されずに受け入れる。これを繰り返すと、人は『理解する』より先に『従う』ようになります」
淡々とした声。
淡々とした声が、私の胸を刺す。
「そんな……残酷な……」
「残酷です」
認めるのが早い。
早いから、反論が潰れる。
「ですが、あなたは今も『話せば分かる』と言った。私はそれを否定しません。ミユさんは誠実に話せば協力してくれる可能性の方が高い」
私は頷きそうになって、止めた。
頷いたら、その先の言葉まで正しくなる気がした。
「では、なぜ……」
「低い可能性で森が焼き尽くされ、エルフの森の全員が皆殺しになる未来が残ります」
言葉が重い。
重いのに、声の温度は変わらない。
温度が変わらないから、これは恐怖じゃなく計算だと分かる。
私は息を吸った。
吸った息が胸の中で詰まる。
詰まったまま吐けない。
「ここは、ミユさんの善性に賭ける場面ではありません。必ず、森を守る方法を選択する場面です」
その瞬間、私は理解してしまった。
意味の無い指示は、ミユのためじゃない。
森のためでもない。
“選択”の余地を奪うためだ。
そして、私はもっと怖いことにも気付く。
私はその指示を「意味があるはず」と思って受け入れていた。
意味があると信じたから、抵抗しなかった。
抵抗しなかったから、ミユにも同じことが出来た。
私は今日まで、ずっとその仕組みの中に居た。
「……私も、騙されていたんですか?」
声が小さくなる。
小さくなるのに、言葉は鋭い。
リュミエル様は首を振らない。
頷かない。
否定しない。
「あなたは、賢い。賢いからこそ『意味』を見付けてしまう。見付けた意味があなたを助けるとは限らない」
私は指先を握った。
白い手袋が少し鳴る。
鳴る音が私の中の何かが折れた音に似ていた。
「転移石ではありません」
リュミエル様が初めて情報を落とした。
落とし方が正確だ。
だから、今落とすべき情報だけだと分かる。
「居場所を追える石です。あなたが渡したことで、彼女は『分からないまま持つ』。それで良い」
私は目を閉じた。
閉じた目の裏に、ミユの掌の熱さが残っている。
「だから……あなたは『ごめん』しか言えなかった」
リュミエル様が言った。
言われた瞬間、胸が痛んだ。
痛むのに、私は否定出来ない。
私は今日、ミユに誠実じゃなかった。
でも、森には誠実だった。
誠実の向きが違うだけで、人は簡単に悪者になる。
私は目を開けた。
廊下の灯りは薄いままだ。
薄い灯りの中で、私は自分が白い手袋をしていることが急に怖くなった。
「……この森を守るために、あなたはどこまでやりますか?」
私の問いは震えていた。
震えているのに、逃げたくない。
「必要なところまで」
リュミエル様は答えた。
短い答え。
短いから、終わりが見えない。
私は息を吐いた。
吐いた息が白くならないのに指先だけが冷たい。
その冷たさの中で私はやっと自分の役目を自覚する。
私は剣を持つ者だ。
剣は敵だけじゃなく、味方の選択肢も切る。
今日、私はミユの選択肢を切った。
切ったから、森は生き残るかも知れない。
なのに私は未だ胸を張れない。
私は戻る。
戻って、また四回叩く。
四回叩ける自分で居続ける。
それが残酷でも。
廊下の先で、遠い合図の音が鳴った。
笛なのか木片なのか分からない。
分からない音が増えるほど意味の無い指示の意味が増えていく。
私は走った。
走りながら、今日の「ごめん」を何度も舌の上で転がした。
転がしても味がしない。
味がしないから、未だ終わっていない。




