ep.72[Side Y/異世界]Link: 猫又-06
鈴ちゃんに手を引かれたまま町を歩いていると、どこかの家から焼いた魚の匂いが流れて来た。
鼻より先にお腹が反応する。
小さく鳴った。
鈴ちゃんが足を止める。
チリン。
「鳴った」
「……今のは僕じゃない」
「ユウキのお腹」
「それは、僕か」
鈴ちゃんは僕のお腹を見た。
見る必要があるのか分からないくらい、真っ直ぐに見た。
「お腹空いてた?」
「そういえば、空いてた」
「そういえば?」
「色々あったから」
「私の町を見るの、色々?」
「かなり色々」
鈴ちゃんは少しだけ得意そうに目を細めた。
「じゃあ、帰る」
「帰る?」
「私の家で食べる」
当たり前みたいに言って、鈴ちゃんは僕の手を引いた。
僕は引かれるまま歩く。
歩きながら、少しだけ思う。
僕はご飯を食べるために町へ出た訳じゃなかった。
鈴ちゃんの町を見るために出た。
鈴ちゃんが鈴ちゃんとして居る場所を見るために。
その町の匂いを吸った後で、今度は鈴ちゃんの家へ戻る。
外側を見てから、内側へ入る。
猫に案内されているというより、縄張りの奥へ連れて行かれている気がした。
「あ、鈴ちゃん。こっち」
さっきの井戸端の女の人が手を振っていた。
鈴ちゃんは当然みたいにそちらへ向かう。
女の人は油紙に包まれたものを持っていた。
端から少しだけ塩と魚の匂いがする。
「はい。帰りに寄りなさいって言ったでしょう」
「寄った」
「偉い偉い」
鈴ちゃんは当たり前みたいに包みを受け取った。
「ありがとう」
「ちゃんと男の人にも分けるのよ」
「分ける」
僕は慌てて頭を下げた。
「ありがとうございます。鈴ちゃん、お金とかは──」
「無いよ」
「……へ?」
「私、お金持ってないよ」
「それって、どういう……」
僕が言い掛けると、女の人が笑った。
「鈴ちゃんは猫だからね。町の皆で面倒をみてるんだよ」
皮肉でも何でも無く、それが当たり前みたいな言い方だった。
猫だから。
町の皆で面倒を見る。
その言葉が、変に胸に残った。
「……じゃあ、僕の分は払います」
女の人が僕を見る。
「払うって、あんた、お金持ってるの?」
「持ってません」
女の人は少し目を丸くした。
「正直だねぇ」
「なので、良ければ仕事をくれませんか?」
「仕事?」
「はい。僕の分まで鈴ちゃんに貰わせる訳にはいかないので」
鈴ちゃんの手が少しだけ強くなった。
「ゆうきは私と一緒に居るんだよ」
僕は鈴ちゃんに向き直る。
「うん」
「じゃあ、私が貰う」
「鈴ちゃん。僕はこの世界では、皆、僕のことを知らない」
鈴ちゃんは黙って僕を見ていた。
「だから、鈴ちゃんみたいに皆が僕の面倒をみたりしないんだ」
「私のユウキだよ」
「それは、そう」
そこは否定したくなかった。
否定したら、鈴ちゃんが僕をこの町に置いてくれた意味まで薄くなる気がした。
「だけど、僕は僕で社会生活を送らないと、ご飯が食べられない」
「私がユウキの分のご飯を貰うよ」
「それじゃ駄目」
鈴ちゃんの耳が少しだけ伏せた。
「僕は僕で、きちんと生活しなきゃ」
「私とは一緒に居ないってこと?」
「違う。それは絶対に違う」
鈴ちゃんの目が僕を見る。
逃げる顔をしていないか。
嘘を吐いていないか。
自分から離れようとしていないか。
そういう全部を嗅ぐみたいに。
「鈴ちゃんと一緒に居たいから、僕は働いてお金を稼いでくるよ。……分かるかな?」
「分からない」
鈴ちゃんは正直だった。
「でも、ユウキが嘘を吐いてないことは匂いで分かる」
「便利な鼻だね」
「猫又だから」
鈴ちゃんは少しだけ得意そうに言った。
「鈴ちゃんの人は、何が出来るの?」
「僕はユウキと言います」
「ああ、ユウキさんね」
「帳簿なら付けられます。金勘定も出来ます」
「うーん……金勘定かぁ」
「間に合ってますか?」
「まぁね。この町は古いからねぇ。そういうのはもう居るよ」
ですよね、と言い掛けたところで、女の人の視線がシルヴェーヌに向いた。
「戦闘は出来そう?」
「一応、剣は使えます」
「一応?」
「少し前まで、エルフの森で鍛えられてました」
「よく分からないけど、変な経歴だねぇ」
「僕もそう思います」
女の人は少し考えてから頷いた。
「じゃあ、明日から町の警備かな。知り合いが居るから、口を訊いておいてあげるよ」
「ありがとうございます」
僕は深く頭を下げた。
「礼儀正しいねぇ」
「普通です」
「普通に出来る人は、そう言わないのよ」
女の人は笑って、干し魚の包みを鈴ちゃんに持たせ直した。
「鈴ちゃん」
「何?」
「ユウキさん、ちゃんと連れて帰るんだよ」
「連れて帰る」
「あと、魚は分ける」
少しだけ間があった。
「……分ける」
僕は笑いそうになって、堪えた。
井戸端から離れると、鈴ちゃんは油紙の包みを片手に持ち、もう片方の手で僕を引いた。
「ユウキ」
「うん」
「明日、警備に行くの?」
「多分」
「私は?」
「鈴ちゃんは鈴ちゃんの家に居る」
「私と一緒じゃない」
「昼間だけだよ」
「昼間は長い」
鈴ちゃんは前を向いたまま言った。
拗ねているのか、怒っているのか、よく分からない声だった。
「でも、働かないと」
「私が貰う」
「それは駄目」
「何で?」
「僕が鈴ちゃんの町に居るためには、僕も町の人に受け入れてもらわないといけないから」
鈴ちゃんが立ち止まる。
「町の人は私のユウキなら受け入れる」
「それは嬉しい」
「じゃあ、良い」
「でも、それだけじゃ駄目なんだ」
僕は少しだけ言葉を探した。
「僕は鈴ちゃんに連れて来られた人で、鈴ちゃんの人で……でも僕自身でもあるから」
「難しい」
「うん。難しい。それが社会生活」
「ユウキは難しいことを言う」
「ごめん」
「謝るところじゃない」
鈴ちゃんはまた歩き出した。
「でも、嘘じゃない」
「うん」
「だから、許す」
「許された」
「私は偉い」
「鈴ちゃんは偉いね」
「うん」
鈴ちゃんの耳が少しだけ動いた。
鈴ちゃんの家に戻ると、外で見た時より中は静かだった。
土間に足を入れる。
湿った土の道を歩いた後だから、家の中の乾いた匂いが分かる。
畳。
古い柱。
干した草みたいな匂い。
それから、鈴ちゃんの匂い。
鈴ちゃんは包みを土間の台に置いて、手際良く動き始めた。
「座ってて」
「手伝うよ」
「駄目」
「何で?」
「ユウキは客人」
「お客さんなの?」
「私の縄張りに来た人」
「それはお客さんとは少し違わない?」
「じゃあ、私の人」
「便利だね、それ」
「便利」
鈴ちゃんは短く答えて、火の方へ向かった。
部屋の奥には小さな火の気があった。
大きな台所ではない。
でも、人が暮らすには足りる場所だった。
鈴ちゃんは干し魚を取り出す。
少し炙るだけで匂いが立った。
塩の匂い。
魚の脂の匂い。
火に触れたものだけが出す香ばしい匂い。
僕のお腹がまた小さく鳴る。
鈴ちゃんが振り返った。
「また鳴った」
「今度は認める」
「正直」
「嘘を吐いてもお腹は黙らないから」
「ユウキのお腹は鳴る」
「そうだね」
「声は鳴らないのに」
鈴ちゃんは火の前で、ぽつりと言った。
その言葉は軽く出たのに、少しだけ重かった。
僕は返事を探す。
探している間に、鈴ちゃんは魚をひっくり返した。
魚の皮が火に触れて、小さく音を立てる。
「お腹は勝手に鳴るからね」
「声も勝手に鳴れば良いのに」
「それが出来たら、少し楽カモ知れないね」
鈴ちゃんは何も言わなかった。
何も言わないまま、魚を皿に移す。
それから湯気の立つ椀を持って来た。
味噌汁に似ている。
けれど、現代の味噌汁より少しだけ匂いが強い。
野菜と干した何かと、土の近くで暮らす人の味がした。
「いただきます」
僕が手を合わせると、鈴ちゃんはじっと僕を見た。
「何?」
「今の何?」
「食べる前の挨拶」
「挨拶?誰に?」
「作ってくれた人とか、食べ物とか、そういうの全部に」
「全部?」
「うん。多分、全部」
鈴ちゃんは少しだけ考えた後、僕の真似をして手を合わせた。
「いただきます」
手を合わせただけ。
その静かな真似が妙に可愛かった。
干し魚は美味しかった。
塩気が強い。
でも、歩いた後の身体には丁度良い。
噛むほど味が出る。
鈴ちゃんは魚を食べるのが上手かった。
骨を外す手付きが迷わない。
猫又だからなのか、鈴ちゃんがそういう子なのかは分からない。
「猫又って、魚好きなの?」
言ってから、少しだけ失敗した気がした。
鈴ちゃんがこちらを見る。
「猫又だからじゃない」
「うん」
「私が好き」
「うん。そうだね」
鈴ちゃんは魚の身を少し取って、僕の皿に置いた。
「これ、美味しいところ」
「良いの?」
「分けるって言った」
「ありがとう」
「大事に食べるって言った」
「言った」
僕はその身を食べた。
本当に美味しいところだった。
脂が少し多くて、塩気の奥に甘さがある。
「美味しい」
「当たり前」
「鈴ちゃんが焼いたから?」
「魚が偉い」
「魚なんだ」
「でも、私も偉い」
「うん。鈴ちゃんも偉い」
鈴ちゃんの耳が少しだけ動いた。
チリン。
首が微かに傾いた拍子に、鈴が鳴る。
夕飯は静かだった。
静かなのに気不味くはなかった。
外の町の音が少し遠くから聴こえる。
誰かが戸を閉める音。
桶を置く音。
子供を呼ぶ声。
犬なのか、それとも別の何かなのか分からない鳴き声。
その全部がこの家の外側にある。
この家の内側には僕と鈴ちゃんが居る。
「ユウキ」
「うん」
「明日、警備に行くの?」
「うん。多分」
「私も行く」
「駄目」
「何で?」
「危ないカモ知れないから」
「私の町だよ」
「うん」
「私は屋根も登れる」
「うん」
「餓鬼も来ない」
「餓鬼?」
「森に居るやつ」
「森に居るんだ」
「居る」
「じゃあ、尚更危ない」
「町には来ない」
「来ないなら良いけど」
鈴ちゃんは不満そうに僕を見る。
「ユウキは私を置いて行く」
「置いて行くんじゃないよ」
「昼間は長い」
「終わったら帰って来る」
「本当?」
「本当」
「嘘だったら匂いで分かる」
「便利だね」
「猫又だから」
鈴ちゃんは同じ言い方をした。
少しだけ得意そうで、少しだけ不安そうだった。
「帰って来るよ」
僕はもう一度言った。
「鈴ちゃんの家に」
「私の家?」
「うん。鈴ちゃんの家に」
「私の縄張り?」
「うん。鈴ちゃんの縄張りに」
鈴ちゃんは漸く少しだけ満足したみたいに目を細めた。
「じゃあ、良い」
良い、と言ったわりに、僕の袖を掴んだままだった。
僕はその手を見る。
人の手みたいで……でも、人だけではない手。
爪の形も、力の入れ方も、少しだけ違う。
その手が、僕をこの家に置いている。
「ユウキ」
「うん」
「眠い?」
「未だ大丈夫」
「じゃあ、布団出す」
「泊まる前提なんだね」
「泊まるでしょ?」
「うん」
僕が頷くと、鈴ちゃんの耳が少しだけ動いた。
「本当に?」
「本当」
「明日、警備に行くから?」
「それもある」
「それだけ?」
「違う」
僕は少しだけ息を吸った。
明日働くと言った。
この町で食べるなら、この町で働かないといけない。
それは帰らない理由じゃない。
ここに居るための筋だった。
帰る方法を知らない訳じゃない。
でも今、そのボタンのことを考えるのは違う気がした。
「暫く居るよ」
「暫く?」
「うん」
鈴ちゃんは真っ直ぐに僕を見る。
その目に、どこか不安の色を感じた。
「暫くって、どれくらい?」
「分からない」
「分からないのに言うの?」
「うん」
「嘘?」
「嘘じゃない」
鈴ちゃんは僕の匂いを確かめるみたいに、少しだけ近付いた。
「嘘じゃない」
「うん」
「じゃあ、何?」
「鈴ちゃんの縄張りに、居させてくれる?」
鈴ちゃんの目が少しだけ開いた。
「私の縄張りに?」
「うん」
「ユウキが?」
「僕が」
「暫く?」
「暫く」
鈴ちゃんは僕を見ていた。
逃げる顔をしていないか。
嘘を吐いていないか。
帰ろうとしていないか。
多分、全部を見ていた。
「ずっとって言うと、ユウキは困る顔をする」
「うん」
「だから、暫く?」
「うん」
「暫くなら、困らない?」
「少し困る」
「困るの?」
「嬉しくて、少し困る」
「変」
鈴ちゃんは短く言った。
短く言って、僕の袖を掴み直す。
「よろしい」
「先生みたい」
「私の縄張りだから」
「じゃあ、許可制なんだ」
「許可した」
鈴ちゃんは少しだけ得意そうに言った。
「ユウキは暫く、私の縄張りの人」
その言い方が胸の奥にゆっくり沈んだ。
暫く。
永遠ではない。
約束し過ぎてはいない。
でも、今夜だけでもない。
その中途半端な長さが、今の僕には丁度良かった。
鈴ちゃんは押し入れのような場所を開けて、布団を出した。
一つ。
僕はその数を見て、少しだけ固まった。
「鈴ちゃん」
「何?」
「布団、一つ?」
「一つ」
「僕の分は?」
「これ」
「鈴ちゃんの分は?」
「これ」
「同じじゃない?」
「同じ」
鈴ちゃんは当然みたいに言った。
「私の縄張りで、ユウキを一人にする方が変」
「いや、でも──」
「ユウキは鳴らない」
「で、そこに戻るんだ」
「寝てる時、もっと鳴らない」
「寝てる時は大体、皆鳴らないよ」
「だから、私が見る」
「寝ないの?」
「寝る」
「見られないじゃん」
「近くに居る」
理屈として通っているのか分からない。
分からないのに、鈴ちゃんの中では通っている顔だった。
「僕、床でも寝られるよ」
「駄目」
「何で?」
「私の人が床で寝たら、私の縄張りの品が落ちる」
「品?」
「品」
僕は思わず笑った。
「何で笑うの?」
「いや。品って言葉、鈴ちゃんの口から出ると思わなかった」
「町の人が言ってた」
「何て?」
「鈴ちゃんは品良くしなさいって」
「なるほど」
「だから、ユウキを床に置かない」
「それは品なのかな」
「品」
鈴ちゃんは言い切った。
チリン。
頷いた拍子に、鈴が鳴る。
僕は布団を見る。
それから鈴ちゃんを見る。
黒い耳。
二つに分かれた尻尾。
首元の鈴。
さっきまで魚を焼いていた手。
町の人に当たり前みたいに声を掛けられる姿。
屋根の上で子供を支えていた尻尾。
僕が見た限り、この町に猫又は鈴ちゃんだけだった。
その鈴ちゃんの家で、僕は暫く暮らす許可を貰った。
「ユウキ」
「うん」
「困ってる?」
「少し」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあ、よろしい」
「また先生だ」
「私の家だから」
「鈴の町の次は、鈴の家か」
「うん」
鈴ちゃんは布団を敷いた。
その手付きは少しだけ不器用で、でも慣れていた。
僕が端を持つと、鈴ちゃんは何も言わなかった。
ただ、少しだけこちらを見た。
「手伝うのは良いの?」
「布団は良い」
「基準が難しい」
「私が決める」
「分かり易い」
布団が畳の上に広がる。
部屋の灯りが少し落ちる。
外の町の音も、さっきより遠い。
鈴ちゃんは布団の端に座って、僕を見上げた。
「ユウキ」
「うん」
「明日、警備に行く」
「うん」
「昼間は、私が見られない」
「終わったら帰って来るよ」
「知ってる」
「知ってるんだ」
「匂いで分かる」
「便利だね」
「猫又だから」
鈴ちゃんは布団の上に膝を抱えて座った。
「だから、今見る」
「今?」
「今日のユウキは、今の私が見る」
その言い方が、少しだけ優しかった。
優しいのに胸の奥に残る。
明日があるみたいな言葉だった。
明日がある、と信じている言葉だった。
「明日のユウキは、明日の私が見る」
僕はその隣に腰を下ろす。
チリン。
鈴ちゃんが少しだけ身体を寄せた。
「近いね」
「見てるから」
「寝るんじゃなかった?」
「寝るまで見る」
「僕を?」
「うん」
鈴ちゃんは当たり前みたいに頷いた。
「ユウキは鳴らないから」
今日、何度目かのその言葉。
でも、少しずつ意味が変わっている気がした。
最初は痛みに気付くためだった。
次は逃げないか確かめるためだった。
今は、ここに居ることを確かめるためになっている。
僕は小さく息を吐いた。
「鈴ちゃん」
「何?」
「ありがとう」
「何が?」
「見てくれて」
鈴ちゃんは目を瞬いた。
それから、少しだけ顔を逸らした。
チリン。
首元の鈴が鳴る。
「……よろしい」
外で誰かが戸を閉める音がした。
町の夜が少しずつ深くなる。
夜は白くない。
白くないから、見えないものが増える。
でも、この部屋には鈴の音がある。
鳴れば見てもらえる音。
鳴らない僕を見てくれる音。
僕はその音の隣で、暫く鈴ちゃんの縄張りに居させてもらうことにした。




