ep.70[Side Y/異世界]Link: 猫又-04
目を開けると知らない天井があった。
木の天井。
少し黒ずんだ梁。
古い家の匂い。
畳の匂い。
乾いた障子紙の匂い。
それから、甘いような獣っぽいような、知らない匂い。
身体は畳の上に仰向けで倒れていた。
起き上がろうとした瞬間、胸の上に重みが乗る。
「動かないで」
女の子の声だった。
目だけを下に向ける。
黒い耳。
黒い髪。
黒地に赤と金の花柄が入った着物。
二つに分かれた尻尾。
そして首元で揺れる小さな鈴。
チリン。
その子は僕の胸の上に片膝を乗せるようにして、こちらをじっと見下ろしていた。
近い。
近過ぎる。
「……えっと」
「動かないでって言った」
「動いてないよ」
「今、起きようとした」
「起き上がろうとはした」
「同じ」
「厳しいね」
「ここ、私の家だから」
女の子はそう言って、顔を近付けてきた。
鼻先が触れそうになる。
いや、普通に近い。
「近い」
「近いよ」
「自覚あるんだ」
少し笑う。
「ある」
「じゃあ、少し離れてくれても──」
「嫌」
即答だった。
黒い耳がぴんと立っている。
尻尾はゆっくり揺れているのに、目だけは僕を逃がさないみたいに捕まえていた。
「あなた、名前は?」
「……僕はユウキ」
「ユウキ」
彼女は僕の名前を口の中で転がすみたいに言った。
「君は?」
「鈴」
「鈴ちゃん?」
「ちゃん?」
「嫌なら、鈴って呼ぶけど」
「嫌じゃない」
「じゃあ、鈴ちゃん」
チリン。
首元の鈴が鳴った。
鈴ちゃんは少しだけ目を細める。
「もう一回」
「え?」
「もう一回呼んで」
「鈴ちゃん」
チリン。
「ふぅん」
「何?」
「悪くない」
「それは良かった」
「でも、未だ信用してない」
「初対面だからね」
「初対面なのに、私の家にいる」
「リンクしたら、ここに来たんだけど」
「私が呼んだ」
「じゃあ、僕は招待客では?」
「招待はした。でも、信用は別」
それはそうカモ知れない。
僕は胸の上に乗っている鈴ちゃんを見る。
見れば見るほど、猫だった。
人の形をしている。
言葉も話す。
着物も着ている。
でも、近付き方と目と、こちらの逃げ道を塞ぐ感じが完全に猫だった。
「確認する」
「何を?」
「ユウキが私を見てがっかりしてないか」
「してないよ」
「早い」
「早い?」
「もっと考えてから言って」
「考えても同じだけど……」
「じゃあ、考えて」
「がっかりしてない」
「もう考えた?」
「考えた」
「短い」
「鈴ちゃん、面倒臭いね」
でも、人の心はいつだって重くて面倒臭い。
爪が服越しに胸へ軽く立った。
「っ!」
「面倒臭くない」
「今、爪立てたよね?」
「確認」
「何の?」
「痛がるかどうか」
「痛いよ」
「ふぅん。痛いんだ」
鈴ちゃんは何故か少し満足そうだった。
「ユウキは痛くても、咄嗟に声が出ないんだ」
その言い方だけ少しだけ温度が下がった。
僕は何も返せなかった。
鈴ちゃんはまた顔を近付ける。
今度は僕の首元に鼻を寄せた。
「ちょっと待って。何してるの?」
「匂い」
「匂い?」
「ユウキの匂いを確認してる」
「それ、初対面の距離感じゃないと思うんだけれど……」
「猫又の距離感」
「便利な言葉だなぁ」
鈴ちゃんは応えず僕の肩口に顔を寄せた。
すん、と小さく息を吸う。
耳がぴくりと動いた。
「女の匂いがする」
心臓が一つ変な鳴り方をした。
「え?」
「女」
「いや、今日、女の人と会ってはいないけど」
「嘘」
「嘘じゃないよ」
「じゃあ、これは誰?」
鈴ちゃんの爪がまた胸元へ置かれる。
さっきより強い。
未だ刺さってはいない。
でも、いつでも刺せる位置だった。
「誰って──」
──シルヴィ。
その名前が頭に浮かぶ。
僕は咄嗟に答えられなかった。
その沈黙を鈴ちゃんは見逃さない。
「居るんだ」
「居た、かな」
「今も居る顔してる」
「顔で分かるの?」
「匂いで分かる。顔でも分かる」
「それはもう、大分分かるね」
「誤魔化さないで」
鈴ちゃんの目が細くなる。
猫の目だ。
甘える前の目じゃない。
獲物を逃がさない時の目。
「その女、誰?」
「シルヴィ」
「しるゔぃ」
鈴ちゃんは明らかに気に入らない顔でその名前を繰り返した。
「……女?」
「女の子だよ」
爪が少しだけ食い込んだ。
「痛い痛い」
「私の家で、他の女の名前を出した」
「鈴ちゃんが訊いたんだよ」
「訊いたけど」
「理不尽だな」
「理不尽じゃない。私の家」
「家だと理不尽が通るの?」
「通る」
通るらしい。
僕は少しだけ息を吐く。
笑いそうになったけど、笑ったら多分もっと爪が入る。
「シルヴィは大事な人だったよ」
「だった?」
「うん」
「もう会えない?」
「……多分」
「多分って何?」
「分からない。でも……会えない方を選んだ」
鈴ちゃんはじっと僕を見ていた。
尻尾の揺れが止まる。
部屋の中が急に静かになった気がした。
「ふぅん」
「怒った?」
「怒ってる」
「正直だね」
「嘘吐いても匂いで分かるでしょ」
「猫又は匂いで分かるんだ」
「分かる」
鈴ちゃんは胸の上から退かなかった。
「ユウキ」
「はい」
「今、私を見てる?」
「見てるよ」
「しるゔぃじゃなくて?」
「今は、鈴ちゃんを見てる」
「今だけ?」
「『今は』って言い方が悪かった。ちゃんと見てるよ」
「ちゃんとって何?」
「逃げずに見てるってこと」
「逃げない?」
「逃げない」
チリン。
鈴が鳴った。
鈴ちゃんは少しだけ身体の力を抜いた。
でも、未だ僕の胸の上からは退かない。
「じゃあ、私のこと見て」
「見てる」
「もっと」
「これ以上は物理的に近い」
「じゃあ、近くで見て」
「もう充分近いよ」
「足りない」
鈴ちゃんはそう言って僕の胸元に顔を埋めた。
すん、と匂いを嗅ぐ。
「やっぱり他の女が残ってる」
「そんなこと言われても」
「嫌」
短い言葉だった。
怒鳴るでもない。
泣くでもない。
ただ、はっきり嫌だと言った。
「鈴ちゃん」
「嫌」
「うん」
「私の家に来たのに」
「うん」
「私の前にいるのに」
「うん」
「他の女を残してるの、嫌」
鈴ちゃんの声は子供っぽい。
でも、目は笑っていない。
──嫉妬。
そういう言葉を当てるのは簡単だった。
でも、多分それだけじゃ足りない。
縄張りに知らない匂いが混じっている。
自分の家に来た相手が別の誰かを連れてきたみたいに感じている。
そういう痛がり方に見えた。
「どうしたら良い?」
僕が訊くと、鈴ちゃんは顔を上げた。
「私の匂いにする」
「え」
「ユウキを私の匂いにする」
「それは……具体的には?」
「こう」
鈴ちゃんは僕の首元に頬を擦りつけた。
チリン。
耳の横で鈴が鳴る。
頬。
髪。
首元。
肩。
猫が柱に匂いを付けるみたいに、鈴ちゃんは僕に自分の匂いを付けていく。
「待って、擽ったい」
「我慢して」
「命令?」
「マーキング」
「命令よりもっと重い言葉が来た」
「ユウキは今、私の縄張りに居る」
「はい」
「だから、私の匂いが必要」
「理屈は分かるような……分からないような──」
「分かってっ!」
「努力しますっ!」
「努力じゃなくて、分かって!!」
鈴ちゃんは顔を上げる。
近い。
やっぱり近い。
「ユウキ」
「はい」
「私の匂い……嫌?」
「嫌じゃないよ」
「本当?」
「本当」
「じゃあ、洗わないで」
「今、直ぐ洗う予定は無いけれど……」
「明日も」
「明日?」
僕は帰れないのだろうか?
「明日も洗わないで」
「えと……社会生活があるから、それは相談したい」
鈴ちゃんの耳が伏せた。
──分かり易い。
あまりにも分かり易く不機嫌になる。
「嫌なんだ」
「嫌じゃない」
「じゃあ、何で洗うの?」
「社会生活を守るため」
「私より社会生活が大事?」
「その訊き方は危険過ぎる」
「答えて」
「鈴ちゃんも大事。社会生活も大事」
「狡い」
「大人だから」
「狡い大人は嫌い」
「ごめん」
「でも、ユウキは嫌いじゃない」
「そこは助かる」
鈴ちゃんは少しだけ頬を膨らませた。
猫又が頬を膨らませるのは、中々に反則だと思う。
不機嫌なのに、可愛い。
でも、その可愛さに油断すると多分爪が来る。
「じゃあ、今日は洗わないで」
「今日は泊まる前提?」
「泊まるでしょ」
「未だ何も言ってないけど」
「リンクした」
「したね」
「私の家に来た」
「来たね」
「私が呼んだ」
「うん」
「じゃあ泊まる」
「そこまで一本道なんだ」
「違うの?」
爪が胸元に置かれる。
「違わないです」
「よろしい」
「急に偉そう」
「私の家だから」
また、それだ。
でも、鈴ちゃんの中では本当にそれが一番強いルールらしい。
鈴の家。
鈴の縄張り。
鈴の匂い。
その中に僕は招かれた。
いや、『捕まった』に近いのカモ知れない。
「ユウキ」
「はい」
「私のこと、がっかりしてない?」
「してない」
「他の女のこと考えてない?」
「今は考えてない」
「今は?」
爪。
「痛い」
「今は?」
「ずっと考えてません」
「よろしい」
「鈴ちゃん、嫉妬深いね」
「嫉妬?」
「うん」
「違う」
「違うの?」
「縄張り」
「面白いね」
「ユウキは今、私の縄張り」
「はい」
「だから、私が怒るのは普通」
「普通……か」
「普通」
鈴ちゃんは堂々としていた。
多分、本気でそう思っている。
でも、その目の奥に少しだけ不安がある。
怒っているのに、逃げられてしまうかどうかを見ている。
爪を立てているのに、嫌われるかどうかを怖がっている。
鈴ちゃんの不安に心が揺れる。
「鈴ちゃん」
「何?」
「僕、今、ちゃんと鈴ちゃんのこと見てるよ」
鈴ちゃんの耳が動いた。
「本当?」
「本当」
「しるゔぃより?」
「比べるモノじゃない」
また爪が来るかと思った。
でも、来なかった。
鈴ちゃんは僕を見ている。
怒った顔ではなく、少しだけ考える顔だった。
「比べないの?」
「うん」
「私の方が良いって言えば良いのに」
「それは、嘘になる」
「嘘なの?」
「嘘というか、鈴ちゃんとシルヴィは違うから」
「違う?」
「うん」
「じゃあ、私は?」
「鈴ちゃんは、鈴ちゃん」
少しの沈黙の後、鈴ちゃんは言った。
「それ、狡い」
「駄目だった?」
「駄目じゃない」
「じゃあ?」
「嫌じゃない」
「そっか」
「でも、未だ足りない」
「何が?」
「私の匂い」
また顔を近付けてくる。
「今度は何?」
「仕上げ」
「仕上げ」
「ユウキ、動かないで」
「はい」
鈴ちゃんは僕の頬に自分の頬を擦り寄せた。
チリン。
耳元で鈴が鳴る。
さっきより柔らかい。
怒っているというより確かめているみたいだった。
「これで、少しは私のユウキ」
「少しなんだ」
「未だ少し」
「全部になるには?」
「泊まって、寝て、明日の朝まで私の匂いを付ける」
「本気で言ってる?」
「本気」
「そっか」
「嫌?」
「嫌じゃないよ」
「じゃあ決まり」
鈴ちゃんは漸く僕の胸の上から退いた。
軽くなった胸元に爪の痛みだけが少し残っている。
服越しに見れば多分、痕が残っているカモ知れない。
鈴ちゃんは畳の上に座り直し、尻尾を揺らした。
「お腹空いた?」
「少し」
「ご飯あるよ」
「ありがとう」
「でも、先に町に行こう」
「先に?」
「ユウキを見せる」
「誰に?」
「町の皆に」
「町?」
「京杜」
「京杜?」
「そう。私の町」
「人間の町?」
「うん」
「猫又なのに?」
言った瞬間、鈴ちゃんの目が細くなった。
あ、と思う。
「今の、嫌」
「ごめん」
「何で猫又なのにって言ったの?」
「悪い意味じゃない。猫又って、人間の町から離れて暮らしてるものだと思ってた」
「私はここに居る」
「うん」
「ここは私の町」
「分かった。ごめん」
「本当に分かった?」
「分かった」
「じゃあ、もう一回」
「ここは鈴ちゃんの町。京杜」
チリン。
鈴ちゃんの耳が少しだけ立つ。
「よろしい」
「先生みたい」
「私の縄張りだから」
「何でもそれで通すね」
「通るから」
鈴ちゃんは立ち上がり、障子の方へ歩いた。
歩く度に鈴が鳴る。
チリン。
その音が古い柱と畳に薄く染みる。
チリン。
僕の胸元の鈴も鳴る。
障子が開く。
外の光が入った。
庭。
濡れた土。
雨を吸った庭石。
その向こうに木造の家並みが続いている。
通りから人の声がした。
子供の笑い声。
荷車の軋む音。
遠くで誰かを呼ぶ声。
鈴ちゃんが外へ出る。
チリン。
その音に、通りの向こうで誰かが振り返った。
「あ、鈴ちゃん」
人間の声だった。
鈴ちゃんは当たり前みたいに頷く。
「行くよ、ユウキ」
「うん」
「離れないで」
「分かった」
「分かったじゃなくて」
「はい」
「手」
「手?」
「迷子になるでしょ?」
「ならないと思うけど──」
「なる」
「断言するんだ」
「私の町だから」
鈴ちゃんは手を差し出した。
僕はその手を取る。
温かい。
人の手みたいで。
でも、人だけではない手。
鈴ちゃんは僕の手を握ると少しだけ満足そうに目を細めた。
「これで、少し分かり易くなった」
「何が?」
「ユウキが私の縄張りの人だってこと」
「町の人に?」
「うん」
「それ、紹介の仕方として合ってる?」
「合ってる」
「本当に?」
「私が合ってるって言ってる」
多分、この世界ではそれが一番強い証明なのだろう。
鈴ちゃんが歩く。
チリン。
鈴が鳴る。
町の人が振り返る。
僕はその隣を歩く。
鈴ちゃんの手は、思っていたより強く僕を掴んでいた。
逃がさないみたいに。
でも……少しだけ震えているみたいにも感じた。




