ep.68[Side M/異世界]Link: 人狼-08
蓋を開けた瞬間、甘い匂いが小さく広がった。
チョコレートの匂い。
焼いた粉の匂い。
バターの匂い。
その全部が部屋の中に広がる。
この世界には無い遺物なのに、嫌な浮き方じゃない。
寧ろ、持ち込んだ『別の世界』が、やっと形になった感じがした。
「……これが」
大和さんはテーブルの向こうから身を乗り出すみたいにして言う。
「チョコレートで作った、ガトーショコラか」
「多分」
「多分って何だよ」
「私の世界では、です」
そう返すと、大和さんは小さく笑った。
「そりゃそうか」
私はもう一つのタッパーも開ける。
こちらにはクッキー。
少し大きさがバラついている。
でも、焼き色は悪くないと思う。
「こっちは?」
「チョコチップクッキーです」
「……チョコレートの入った、クッキー」
「はい」
大和さんはじっと見ている。
見るだけで、未だ手を出さない。
「……美味しそうじゃなかったですか?」
「いや……」
大和さんが視線を上げる。
「何か、思ってたよりちゃんとしてるから」
その一言で私の胸に空気が通った。
「そんな感想あります?」
「あるだろ。もっとこう……」
「もっとこう、何ですか」
「雑に包んで来るのかと思った」
「酷いです」
大和さんはそこで少しだけ笑って、それから真顔に戻る。
「でも、ありがとな」
その言い方は短い。
短いのに、文字で届いたどの言葉よりも体温があった。
私はテーブルの上を見る。
お皿が置いてあることに気付く。
黒くはない。
焦げ茶でもない。
もっと赤みのある、少し重たそうな色をしていた。
「それ……」
「あぁ」
大和さんがお皿を自分の方へ少し寄せる。
「この前のやつ」
「餡子の……?」
「そう。美憂、味が気になるって言ってただろ?」
大和さんは少しだけ気まずそうに目を逸らした。
「こっちには無ぇから、甘いもんで一番近そうなので使った」
「餡子?」
「餡子」
私はその色を見る。
確かに、ガトーショコラに近付きたい意思だけは分かる形をしていた。
少し可笑しい。
でも、笑えない。
ふと気付いた。
「もしかして、返事が遅かったのって……?」
「あぁ、夜中に急にリンク申請してくるから慌てて店の奴を叩き起こして、買い物して……作るのが大変だった」
胸の奥が先に詰まる。
私が勝手に諦めかけていた時間は意味の無いモノじゃなくて。
私に喜んでもらうために、大和さんが一生懸命で居てくれた時間だった。
そして、大和さんは本当に、私が教えたものを一所懸命再現しようとした。
無い材料しかない世界で。
無理があるのを分かったまま。
それが、切なかった。
「食べてみるか?」
「……はい」
私は頷く。
大和さんは私の持って来たガトーショコラを見て、それから私を見る。
「先に、そっちを食って良いか?」
「どうぞ。お菓子勝負ですね」
「勝負か!分かった。じゃあ、遠慮無く」
大和さんはガトーショコラを大きな手で器用に掴み、大きな口で小さく食べた。
齧ったところから、中のしっとりした断面が見える。
そして、動きが止まった。
「……どうですか?」
私が訊くと、大和さんは直ぐには答えなかった。
飲み込んでから、もう一口だけ小さく齧る。
「甘い」
「はい」
「けど、甘いだけじゃねーな」
「はい」
「苦いっつーか……苦いってほどでも無ぇけど、餡子みたいに真っ直ぐ来ない」
私はその言い方を聞いて、少しだけ嬉しくなる。
ちゃんと味わおうとしてくれているのが分かったからだ。
「それがチョコレートです」
「……これ、狡いな」
「何がですか?」
「美味い。俺の負けだ」
大和さんはそう言って、少しだけ悔しそうな顔をした。
私は思わず笑ってしまう。
「こっちも食ってみろよ」
そう言われて、私は大和さんの作ったガトーアンコへ手を伸ばした。
持って来たフォークを入れる。
しっとりしている。
でも、私の作ったものより少し重い。
口へ運ぶ。
甘い。
最初に餡子の味が来る。
でも、その後ろにちゃんと『ガトーショコラへ寄ろうとした形』が残っていた。
「……どうだ?」
「甘いです」
「うん」
「でも、ちゃんとガトーショコラになろうとしてます」
「なろうとしてる、って何だよ」
「完成してはいません」
「酷ぇな」
「でも──」
私はもう一口だけ食べる。
「好きです」
「……そっか」
大和さんはそこでやっと、肩の力を少し抜いたみたいだった。
「同じにしたかったんだけどな」
「はい」
「でも、無ぇもんは無ぇし」
「はい」
「だから、餡子でやった」
その『だから』が、変に胸へ刺さる。
諦めたんじゃなくて、そこで考えたんだと分かるからだ。
「私、それ見て──」
言いかけて、少しだけ躊躇う。
けれど、ここまで来たら言わない方が変な気がした。
「こっちの世界の、チョコレートで作ったガトーショコラを食べさせてあげたいって思ったんです」
「俺に?」
「はい」
「何で?」
「何でって……」
私はテーブルの上を見る。
「ちゃんと、再現しようとしてたから」
「……」
「私が教えたことを、一所懸命やろうとしてくれたのが分かったから」
大和さんは何も言わなかった。
黙ったまま、テーブルの木目を見ている。
でも、聞いていない顔じゃない。
「それで──」
私は続ける。
「ガトーショコラから生まれた別の味を、名前の無いままで終わらせたくなかったんです」
言った後で、自分でも少しだけ恥ずかしくなる。
綺麗に言い過ぎた気がしたからだ。
でも、大和さんは笑わなかった。
少しの沈黙の後、大和さんが低く言う。
「……それ、俺も思った」
私は顔を上げる。
「美憂が作ったガトーショコラって名前のもんと、俺が食ったガトーショコラって名前のもん、思ってたのと違ったからさ」
「はい」
「同じだって言い切れねーの、何か嫌だった」
大和さんは自分の作った餡子の方を見た。
「だから、食わせたかった」
「……はい」
「俺が作った失敗作も」
「失敗作ではないです」
「失敗作だろ?」
「違います」
「じゃあ、何だよ」
「ガトーアンコです」
「……ガトーアンコ?」
「はい」
「何だ、それ?」
「ガトーショコラになれなかったんじゃなくて、ガトーアンコとして生まれたんです」
「……」
「名前が無いまま失敗作って呼ぶの、可哀想です」
「可哀想……か」
「だって、大和さんが一所懸命作ったんですよね」
「……まあな」
「だったら、ちゃんと名前を付けてあげましょうよ」
「ガトーアンコ、ね」
「はい。大和さんが作った、ガトーアンコです」
失敗作のまま終わらせたくなかった。
名前を付ければ、少なくともこれは『生まれなかったモノ』じゃなくなる気がした。
「……嫌でしたか?」
「いや」
大和さんは首を振る。
「前にも、名前が無いことで怒られたことがあって……ちょっと、な」
「……?」
「いや、何でも無い」
私はクッキーのタッパーを少しだけ大和さんの方へ押す。
「こっちも食べてください」
「これも、チョコレートが入ってんのか?」
「はい」
「じゃあ、こっちは美憂の世界の味だな」
大和さんは一枚取る。
齧る。
少しだけ目を見開いた。
「……中に塊がある」
「チョコチップです」
「これ、餡子じゃ無理だな」
「無理です」
「だよな」
大和さんはもう一口食べる。
その顔を見ていると、作って来て良かったと思えた。
私は自分でも一枚取って、齧る。
ちゃんとチョコレートの味がする。
同じものを今、同じ場所で食べている。
それだけのことが、思っていたより胸に来た。
大和さんは、またクッキーを齧る。
その横顔は画面の向こうの相手よりずっと分かり易くて、少し不器用で、でも安心した。
私はテーブルの端に置いたiPhoneを見る。
黒い画面のまま、何も言わない。
未だ【ブロック】は遠かった。
いつでも帰れる。
でも、今直ぐ帰りたいとは思わなかった。
私は足を少しだけ動かして、テーブルの下を見た。
靴を脱いだ先で、ボルドーのつま先が灯りを鈍く返した。
時間は分からない。
でも、今ここに居ることだけは、ちゃんと身体に残って行く気がした。
大和さんが餡子のガトーショコラを切り分ける。
「もう一回食うか?」
「はい」
「今度は、そっちももう一回食わせろよ」
「良いですよ」
私は頷く。
文字だけでは届かない味がある。
届かない温度がある。
届かない不器用さがある。
それを今、ちゃんと知ってしまった。
私はフォークを持ち直す。
大和さんもテーブルの向こうで、私の真似をしてフォークを持った。
ガトーショコラから生まれたガトーアンコは、もう『失敗作』と呼ばれることはなかった。




