ep.67[Side M/現代]Link: 人狼-07
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その表示を見た瞬間、私は呼吸の仕方を一つ忘れた。
少し前まで、今日はもう駄目だと思っていた。
返事は来ないのカモ知れない。
このまま、私だけが勝手に待って、勝手に恥ずかしくなって終わるのカモ知れない。
そう思っていたのに。
白い文字は静かだった。
静かなまま、今日一日の全部をひっくり返した。
私はiPhoneを握ったまま、台所のテーブルを見る。
ガトーショコラ。
チョコチップクッキー。
どちらもとっくのとんまに粗熱は取れている。
蓋をしたタッパーの向こうに、私が今日ずっと手を掛けて来た時間が、そのまま閉じ込められていた。
私は一つずつ持ち上げて、リュックへ入れる。
傾かないように、なるべく平らに。
崩れないように、タオルを間に挟む。
その動作だけが妙に丁寧だった。
誰かに食べさせたいと思って作った。
その『誰か』が、今からちゃんと居る場所へ行ける。
それだけで、胸の奥が少し熱かった。
洗面台へ向かう。
鏡の中の自分は、今朝より少しだけ真剣な顔をしていた。
顔を洗い直すほどではない。
でも、前髪だけは気になって、私は櫛を通した。
毛先を指で整える。
それから足元を見る。
ボルドーのペディキュアは、未だ綺麗なままだった。
昨夜塗ったばかりの艶が、部屋の灯りを細く返している。
欠けていない。
伸びてもいない。
当たり前だ。
でも、それを確認したかった。
iPhoneが手元から離れた時でも。
時間が分からなくなった時でも。
帰るまでに、どれくらい身体が進んだのかを見失わないように。
私は一度だけつま先を動かしてから、PUMAのスニーカを履いた。
リュックの中のタッパーが小さく触れ合う。
その音が妙に現実的だった。
ベッドの端に腰掛け、iPhoneを開く。
画面の下に、見慣れた白いボタンがある。
【リンク】
押す前に、少しだけ迷う。
迷いは消えない。
怖さが無くなった訳でもない。
顔のある場所は怖い。
未だに、そう思う。
──でも。
私は自分が教えたことを、相手が一所懸命再現しようとしているのを見てしまった。
綺麗じゃなくても。
同じ味じゃなくても。
そこへ近付こうとしてくれていることだけは、ちゃんと分かった。
それが、少し切なかった。
だから今度は私の方が持って行きたかった。
こっちの世界の、本物のガトーショコラを。
チョコレートの入った、本物のクッキーを。
私は息を吸って、指先で画面に触れた。
【リンク】
iPhoneの画面から白い光が広がる。
部屋の輪郭が一瞬だけ解ける。
机も、カーテンも、見慣れた壁も、体重も全部が音も無く遠ざかっていく。
視界が途切れる直前、私はリュックの持ち手を握り直した。
リンクした先が安全とは限らない。
つま先を二回、トントンと打ち付けた。
足元に感触が戻った。
平らなフローリングじゃなかった。
少し固くて、少しざらついた石の感触。
空気が違う。
匂いが違う。
私はゆっくり目を開ける。
夕方だった。
赤くなり切る前の、少し乾いた光が石造りの町並みに斜めに差している。
低い建物。
軒先。
火の灯り。
どこか甘いような、醤油みたいな、焦げた匂いが風に混ざっていた。
私は辺りを見る。
猪みたいな二足歩行の人。
鼠みたいな二足歩行の人。
牛みたいな。
虎みたいな。
兎みたいな。
動物園みたいな景色。
だから、目の前に立っている人影だけが直ぐに分かった。
黒い髪。
真っ直ぐ立った身体。
こちらを見ている目。
私の世界の服ではない。
Tシャツに短パン。
──多分、この人だ。
相手も私を見ていた。
目が合ったまま、少しだけ眉が動く。
それから、男の人は近付いて来た。
歩く速度が速過ぎない。
急いでいるようにも見えない。
でも、待たせたことを自分で分かっている人の足取りだった。
目の前まで来られると、思っていたよりずっと大きかった。
「……来たのか」
私は、その声で一瞬だけ動けなくなる。
思っていたのと、少し違った。
画面の中で読んでいた文章より、ずっと若い。
ずっと雑で、ずっと生っぽい。
整っていない。
でも、その分だけ嘘が無かった。
「悪い。返事、遅れた」
少しだけ視線を逸らして、それからまた私を見る。
「手ぇ離せなくてさ。待たせたよな」
私は小さく首を振った。
「いえ……その」
「いや、待っただろ」
言い切り方が、メッセージの人と違う。
違うのに、不思議と嫌じゃなかった。
私はリュックの持ち手を握り直す。
何か言わなきゃと思ったのに、先に相手の視線がリュックへ落ちた。
「それ……何か持って来たのか?」
「あ、はい」
自分でも少し早口になっているのが分かった。
「ガトーショコラと……クッキーを」
「作ってきてくれたのか?」
男の人の目が少しだけ開く。
驚いた時の顔がメッセージの印象よりずっと分かり易い。
「はい」
「すげぇな……」
それから、少し遅れて口元だけが緩んだ。
「俺は大和。大きな平和を創る、大和だ」
「私は……美憂です。美しく憂えるって書きます」
そう返した瞬間、自分の声が少しだけ硬いことに気付く。
緊張していた。
光景のせいだけじゃない。
大和さんが、思っていたよりずっと『人』だったからだ。
大和さんは私を見て、短く息を吐いた。
「立ち話でも何だし、こっち来いよ」
「あ……はい」
歩き出した背中を追いながら、私はやっと一つのことに気付く。
大和さんは、メッセージの中ではあんな風に喋っていなかった。
もっと整っていた。
もっと均されていた。
こんな風に、『悪い』とか。
『来いよ』とか。
『待たせた』なんて。
短くて、少し乱暴で、でも熱のある言葉じゃなかった。
私はその背中を見ながら、ふと思う。
『メッセージだけでは分からないことが多い』
最初にそう言ったのは、大和さんだった。
あれは、本当だったのカモ知れない。
石造りの家の前で、大和さんが立ち止まる。
振り返って、少しだけ困ったみたいに頭を掻いた。
「狭いけど、勘弁な」
「いえ」
「あと……」
一拍だけ置いてから、目を逸らさずに言った。
「俺が、人狼だ」
私は、その言い方に少しだけ可笑しくなった。
今更、という可笑しさだった。
でも笑うほどではなくて、代わりに肩の力が少し抜ける。
「はい。知ってます」
「だよな」
大和さんは短く笑う。
その笑い方は画面の向こうには無かった。
「入れよ」
「お邪魔します」
「ん。……あぁ、そうだ」
靴を脱ごうとしたところで、大和さんが言う。
「ようこそ、獣人の村──灯京へ」
私は顔を上げる。
その名前が、思っていたよりも真っ直ぐ胸に入って来た。
「トウキョウ……?」
「あぁ、この村の名前だ」
大和さんはそう言って、少しだけ口の端を上げた。
「俺が村長だ」
そう言って、大和さんは胸を張る。
その勢いで大和さんの腰の辺りが私の胸に当たりそうになった。
反射で身体を引く。
私は何も言えなかった。
小さく頷いて、靴を揃える。
足元で、タイツ越しにボルドーのつま先が夕方の残り光を鈍く返した。
私はリュックを抱え、家の中へ上がる。
ここから先はもう文字だけの場所じゃない。
そう思った途端、胸の奥が少しだけ速くなった。
大和さんが低いテーブルの前で振り返る。
「それ、見せてくれよ」
私はリュックを膝の上へ置いて、ゆっくりと紙袋を取り出した。
大和さんの目が、それをじっと見ている。
私はタッパーを取り出し、蓋に指を掛けた。




