ep.66[Side Y/現代]Link: 猫又-03(後編)
部屋に着く。
鍵を開ける。
ドアを閉める。
靴を脱いで、ジャケットを脱いで、いつもの場所に掛ける。
電気を点けた部屋は静かだった。
一人暮らしの部屋らしい静けさ。
誰の気配も無いのに、今日歩いた場所の残り香だけが少しずつ落ちて来る。
僕は紙袋を机の上に置いた。
その隣には、茶色いベルトの腕時計が入った箱がある。
四月九日。
結局、渡せなかったもの。
今日買ってきたのは、その横に並ぶ新しい箱。
腕時計。
電卓。
机の上に二つ並ぶと、妙な感じがした。
片方は行き場を失っていて、片方は未だ行き先がある。
どちらも、誰かに渡すためのものなのに。
iPhoneがまた震える。
[猫又]帰ったんですか?
[ユウキ]帰ったよ。
[猫又]おかえりなさい。
その一言で、部屋の静けさが少しだけ変わる。
──おかえり。
たったそれだけ。
でも、その言葉を今この部屋で受け取るのは少しだけ変な感じがした。
変な感じなのに、嫌じゃない。
[ユウキ]ただいま。
送ってから、少しだけ間抜けかなと思った。
でも、もう送ってしまったものは仕方ない。
[猫又]机の上。渡せなかったものと、渡すつもりのものが並んでそうですね。
僕は、画面を見たまま止まった。
どうしてそうなるんだろう?
けれど、どうしてかとは聞けなかった。
今の一文は、当たっているとか外れているとか、そういう問題じゃなくて、妙にこちらの部屋の空気に合っていたからだ。
[ユウキ]猫又って、エスパーか何かなの?
送ると、少し間が空いた。
[猫又]違います。でも、あなたはそういう顔してそうだなって。
僕は机の前の椅子に座る。
腕時計の箱を見る。
電卓の箱を見る。
自分の顔なんて今見えていないのに、何となく図星を突かれた感じは消えない。
[ユウキ]そんな顔って?
返す。
[猫又]優しいのに、上手く渡せない顔です。
その一文を見た時、僕は思わず息を吐いた。
笑ったのか、困ったのか、自分でもよく分からない息だった。
優しいのに、上手く渡せない。
言葉にされると、少しだけ格好が悪い。
でも、多分、今の僕は本当にそういう顔をしていたんだろう。
[ユウキ]君ってさ。結構、距離感近いよね。
[猫又]嫌でしたか?
短い問い。
でも、その問い方は少しだけ静かだった。
さっきまでみたいな角のある感じじゃなくて、本当に確認している時の文だった。
僕は少しだけ考える。
嫌かと訊かれたら、嫌ではない。
むしろ、今日はこのくらいの温度じゃないと、上手く話せない気もした。
[ユウキ]嫌じゃないよ。寧ろ、今日はそのくらいの方が助かるかも。
送信。
猫又は直ぐには返さなかった。
部屋の静けさが戻る。
冷蔵庫の低い音。
遠くを走る車の音。
それから、画面に新しい文字が現れる。
[猫又]じゃあ、確認しても良いですか?
僕は少しだけ眉を寄せた。
[ユウキ]何を?
[猫又]あなたが、私に会ってもがっかりしない人かどうか。
昨日の続きみたいな言葉だった。
でも、昨日よりずっと真ん中に近い位置から届いた気がした。
[ユウキ]未だそこ気にしてるんだ。
[猫又]大事なことなので。喧嘩じゃないです。確認です。
僕は、少しだけ笑った。
昨日の夜の赤信号を思い出す。
横断歩道の手前で、スマホを見ながら口元を緩めていた自分。
そこから、未だ一日も経っていない。
でも、妙に遠くまで来た感じがする。
[ユウキ]で、どうやって確認するの?
送ると、今度は本当に少しだけ間があった。
その間に、僕は無意識に机の上の二つの箱へ視線を落とす。
腕時計。
電卓。
渡せなかったものと、渡すつもりのもの。
どちらも未だここにある。
ここにあるのに、iPhoneの向こう側だけが先へ進もうとしている。
画面が光る。
[猫又]会って確認しますか?リンクで。
僕は、その文字を見たまま指を止めた。
リンク。
黒い画面。
白い文字。
向こう側へ行く、あの感覚。
お昼ちゃんが居た。
シルヴィが居た。
そして、どちらもトーク一覧から消えた。
また新しく誰かと会う。
それを、今この部屋で決める。
机の上には腕時計がある。
電卓がある。
明日は明日で、多分普通に来る。
会社へ行って、仕事をして、朝藤さんが分からない顔をすれば声をかけて、必要ならこの電卓を渡す。
そういう現実が未だちゃんと続いている。
その上で、リンクをする。
逃げるためじゃない。
今日を捨てるためでもない。
ただ、今この会話に対して、ちゃんと応答するために。
僕はゆっくりと息を吐いた。
[ユウキ]確認好きだね。
[猫又]大事なことは、最初に確認したいので
[ユウキ]分かった。じゃあ、会おうか。
送信した瞬間、胸の奥で何かが静かに動いた。
高揚とは少し違う。
恐れとも少し違う。
もう少し、現実的な感覚。
ドアノブに手をかける時の、あの一瞬に似ている。
画面の下に、新しい表示が現れる。
【リンクを申請する】
直ぐにiPhoneが震える。
[リンク申請が承認されました]
[リンクは成立状態です]
[【リンク】を実行できます]
僕は一度だけ目を閉じた。
開く。
画面の白が少しだけ強く見える。
腕時計の箱。
電卓の箱。
その間に置いたiPhone。
僕は親指で、【リンク】に触れた。




