ep.64[Side Y/現代]Link: 猫又-03(前編)
初日こそ不安だったが、朝藤さんは驚くほど飲み込みが早かった。
僕が教えるときには必ずメモを取り、後で手帳に清書している。
ただ、こちらから何かを尋ねない限り、朝藤さんから質問してくることは殆ど無かった。
分からないことが無い訳じゃない。
ただ、迷惑を掛けたくないのだろう。
七年前の僕もそうだった。
隣の席だから、少し椅子を引けば、今、朝藤さんが何をしているか見える。
初めこそそうやって進捗を確認していたが、一週間も経った今ではキーボードの音を聴くだけで朝藤さんがどこで詰まっているのかが何と無く分かるようになっていた。
終業時刻まで、あと十五分。
僕は手元の作業を進めながら、横目でそっと朝藤さんを見る。
──キーボードの音が、急に途切れた。
朝藤さんは小さく息を詰めたまま、画面に釘付けになっている。
眉間には薄っすらと皺。何か考え込んでいるのは明らかだが指先は動かない。
僕は小さく息を吐き、【CTRL】+【s】でExcelを上書き保存し、自分の作業に区切りを付けた。
このままでは、後十分は固まっているだろう。
そう思って、声を掛けた。
「あのさ……」
僕が声を掛けると、朝藤さんはビクッと驚き、肩に力を入れたままゆっくりと椅子を引いて立ち上がる。
「はい」
背筋を伸ばし、真っ直ぐこちらを見てくる視線はいつもながら真剣だ。
「座って」
「はい」
少し間を置いて、僕は切り出した。
「僕は、迷惑だなんて思ったことは無いよ」
その言葉に、朝藤さんの瞳が一瞬だけ揺れる。
「分からないことがあれば、訊いてくれて構わないんだ」
「はい」
「分からないことが、分からない?」
「いえ……」
「僕が忙しそうに見える?」
「……はい」
「どれくらい?」
「……とても」
僕は両手でバスケットボールくらいの大きさを示す。
「これくらい?」
「え?」
間髪入れず、今度は両腕を思い切り広げて見せる。
「それとも、こーーーれくらい?」
朝藤さんは小さく声を漏らしながら笑った。
細い目を更に細くして、眉を困ったように垂らす。
「僕は、迷惑だなんて思ったことは無いよ」
もう一度繰り返し、一拍置いて、ゆっくりと言葉を続けた。
「どれだけ忙しそうに見えても、頭の隅は、いつでも朝藤さんのために空けてるから。遠慮せずに訊けば良いからさ」
僅かに朝藤さんの肩の力が抜けたように見えた。
「はい。ありがとうございます」
その表情を見て、僕も安心する。
「そろそろ、定時だし。キリを付けてあがってね」
「はい。ありがとうございます」
それからの朝藤さんは、以前よりもよく質問をしてくるようになった。
僕が嫌な気分にならないのは『一度教えたこと』や『自分で調べて分かること』については、決して訊かないからだ。
必ずメモを取って、仕事中にも時々それを確認している。
出納処理等の日常業務も、もう一人で熟せるようになってきた。
「長尾さん」
呼ばれて、僕は朝藤さんを見、首を傾げる。
朝藤さんは立ち上がり、伝票を差し出す。
「これは、経費で落として良いんでしょうか?」
営業部が持ってくる領収証は信用ならない──それが経理部の暗黙の了解だ。
「どう思う?」
朝藤さんに問う。
「うーん……」
「ダメだと思ったから、『経費で落として良いのか?』と訊いたんでしょ?」
朝藤さんは小さく頷く。
「じゃあ、それで」
領収証を返しながら、自分の作業に戻った。
──『新人には、失敗する権利がある』。
椎名主任の声が、ふと頭の中で蘇る。
ある程度の時期を過ぎれば、実力がどうであれ一人前として扱われる。
一人前として扱われるからには、プロとして失敗は許されない。
だからこそ『新人』という免罪符は使えるだけ使い倒せ。
何にでも挑戦し、失敗したら次に活かせば良い。
失敗を失敗のままにしていれば、それはいつまでも『失敗』だ。
けれど、失敗を糧に前に進めば『成長』になる。
朝藤さんは領収証を見詰めながら、ゆっくりと自分の席に座る。
「困ったら、横槍入れてあげるから」
僕の視界の隅で、朝藤さんが笑ったのを確認した。




