ep.63[Side Y/現代]Link: 猫又-02
四月十日、金曜日。
出勤前にiPhoneを見ると、昨夜の最後のメッセージが未だ画面の上に残っていた。
[猫又]明日もお仕事ですか?
たった一言。
それだけのことなのに、朝の部屋の空気が少しだけ他人事じゃなくなる。
顔を洗って、髪を整えて、ネクタイを締める。
いつもと同じ手順のはずなのに、今日は最後にiPhoneをポケットへ仕舞う動作だけが少しだけ慎重だった。
会社へ向かう道を歩く。
朝の風は未だ少し冷たくて、昨夜の眠気を薄く引き摺った頭を、少しずつ現実の方へ戻していく。
工業街口駅のホームに立つ。
電車が来る。
ドアが開く。
人が降りて、人が乗る。
当たり前の朝だった。
当たり前の朝なのに、ポケットの中に昨夜の『こんばんは』が残っているだけで、景色の輪郭が少しだけ違って見える。
電車に揺られながら、僕はiPhoneを取り出した。
[ユウキ]仕事だよ。そっちは?
送信して、直ぐに画面を閉じる。
朝から猫又にメッセージを返している自分が少しだけ可笑しかった。
でも、別に悪い気はしない。
去年の七月。
僕は他支社の経理から、本社の経理主任として異動してきた。
肩書きが一つ上がった。
通勤の電車が変わった。
それだけで、空気はまるで別の会社みたいだった。
事務所で紹介される時、名前の前に肩書きが付く。
経理主任、長尾。
その一言で、周りの視線の角度が変わるのが分かった。
頼られる目。
値踏みする目。
よく分からないまま敬語だけが整う目。
僕は、その場で一度だけ笑ってみせた。
慣れている振りをした。
でも本当は、分からないことだらけだった。
七年前の僕も、きっと同じ顔をしていただろう。
本社で入社式を終えた僕は、その足で配属先の支社へ向かった。
革靴に慣れず、踵には水膨れが出来ていた。
コピー機の使い方も分からず、椎名主任に「取説読め」と一言で片付けられた記憶が蘇った。
そんな七月の異動から九カ月が経ち、本社にも慣れてきた四月一日のことだ。
「経理に配属されました、朝藤日菜と申します。分からないことばかりですが、よろしくお願いします」
会議室の前で軽くお辞儀をしたその女の子は、少し小さめの声量であったが、ハッキリと耳に届く話し方だった。
髪は肩より少し下まであり、黒に近い色をしていた。
薄い前髪が目元にかかり、横を向くと頬の線が静かに見える。
派手な印象は無い。
けれど、顔を上げた時の目だけが不思議と強く残った。
白いシャツはよく似合っていた。
ただ、着慣れているというより──正しく着ようとしている。
襟元も、袖口も、姿勢も……全部を間違えないようにしている人の整い方だった。
だから余計に緊張が見えた。
社会人の形をしているのに、未だその中で息の仕方を探しているように見える。
そして、この時の鼓動の速さは、朝藤さんの緊張が伝染したものだとそのときの僕は思っていた。
朝藤さんは、新入社員として本社の経理部に配属された。
僕がこの会社で働き始めてから、新卒が本社経理部に配属されるのは初めてのことだった。
僕の社会人初日のことはハッキリと思い出せる。
僕が席に着くや否や、隣の席の椎名主任が分厚い封筒を僕に差し出した。
「ファイルをメールしたから、請求書の元データ入力して」
「あ、はい」
唐突な指示に、流石は社会人。
無駄話などせず、直ぐに仕事に取り掛かるのだと改めて思った。
「いつまでですか?」
その時の椎名主任の答えを、僕は今も忘れない。
「午前中にそれ全部、チェックまで終わらせて。午後は請求書千枚刷らなきゃいけないから」
窓の外には、ふわりと舞う桜が見えた。
春の柔らかな景色と、デスクの上の分厚い書類のギャップが妙に可笑しかった。
朝藤さんは、僕の席の隣に座った。
「ファイルをメールしたから、請求書の元データの入力。お願いできる?」
「あ、はい。朝藤です。よろしくお願いします」
立ち上がってきちんと頭を下げるその様子は、礼儀正しい印象を僕に与えた。
両親に厳しく躾けられたのだろう。
朝藤さんはパソコンの電源を入れ、机の上のメモに書かれたログインIDとパスワードを慎重に入力し始めた。
安心して僕も自分の作業に戻る。
二時間程が経った頃、視線を感じて顔を向ける。
「あの……長屋さん」
「あ、ごめん。僕は長尾だよ」
「失礼しました。長尾さん」
また、丁寧に頭を下げる。
その一瞬で、必死に切り返しを考える。
本当に気にしていないことを伝えるために、少しの笑顔と軽く茶化す言葉──
「僕、家になっちゃったね」
ぴくりとも反応が無い。
朝藤さんの緊張が解けていない気がする。
悪いのは僕だ。
自己紹介をしていなかったのは僕の方なんだから。
しかし、その次に朝藤さんが発した言葉で、僕の手は完全に止まった。
「メールって、どうやって見るんですか?」
朝藤さんは本気の顔をしていた。
二時間、朝藤さんはメールの開け方が分からず、僕に声を掛けるタイミングを窺っていたのであった。
その二時間の中で、朝藤さんが何を考えていたのか、僕には分からない。
ただ、声を出すまでに二時間掛かったのだと分かった。
マウスを握らせ、画面の操作を一つずつ説明する。
だけど、カーソルが上手く動かず、開きたいフォルダに照準が合わない。
カーソルが画面の上を不安そうに泳ぐ。
請求書入力の前に、マウス操作の練習が必要カモ知れない──そう思った時だった。
「……すみません、手が震えちゃって」
その小さな呟きに、僕の心臓は今朝の自己紹介を思い出してしまった。
昼休み、他の社員がぞろぞろと事務所から出て行く中、朝藤さんは席で書類を捲っていた。
「ご飯、行かないの?」
「あ、社食の使い方が分からなくて」
そう言われて、改めて理解した。
朝藤さんは、何も考えていない訳ではない。
分からないことを放り出している訳でもない。
寧ろ、逆だ。
分からないことを、全部自分の責任みたいに抱え込んでしまう。
声を掛ければ済むことでも、その一言が誰かの邪魔になるのではないかと考えてしまうのだろう。
礼儀正しくて、真面目で、怖くても逃げない。
だから余計に、困っていることが見え難い。
失礼な物言いカモ知れないが、『泣かない赤ちゃん』。
朝藤さんを子供扱いしたい訳ではない。
馬鹿にする気持ちなど、一ミリも無い。
ただ……声を上げられない人は、声を上げないまま置き去りにされる。
それが怖かった。
泣かないから、大丈夫に見える。
泣かないから、誰にも気付かれない。
でも、本当は違う。
泣かないのは、平気だからじゃない。
泣き方を知らないだけだ。
──助けを呼ぶタイミングを、未だ知らないだけだ。
僕から声を掛けなければ、朝藤さんはきっと、分からないことを分からないまま抱えてしまう。
誰にも迷惑を掛けないようにして、そのまま一人で黙ってしまう。
新人教育の難しさを初めて認識した。
思い出すと、椎名主任はよく僕に声を掛けてくれていた。
件の「取説読め」だって、僕がコピー機の前で首を傾げている時に、不意に声を掛けてくれたのは椎名主任だった。
昼食だって、入社して暫くは椎名主任と社食を食べていた。
今日の僕はいつもと同じカップラーメン。
未だ給湯器のお湯を沸かしている最中だ。
「おいで、一緒に食べよう」
なるべく、声を低くしないようにした。
急かす音だけは出さないように。
七年前の椎名主任と同じ様に。
社員食堂に着くと、人でごった返していた。
本社へ来てから、社食を使ったのは数えるほどしかない。
去年七月の異動直後に何度か使って、それきりだった。
チラホラと見慣れない顔もあるが、隅のテーブルで固まっている子らに見覚えがある。
今朝の入社式で見た顔だ。
「この券売機で食券を買って、あそこのおばちゃんに渡すとアラームが貰えるから……フードコートみたいなものだよ」
朝藤さんは何度も頷いている。
僕は券売機に千円札を入れる。
「僕のお勧めは、このハンバーグ定食かな」
そう言って、『ハンバーグ定食六百円』のボタンを押す。
カタンッと音がし、食券が落ちる。
釣銭をポケットに仕舞い、食券を差し出す。
「ほら、あそこに新入社員の子達が居るみたいだよ。あそこで食べて来な」
「え……良いんですか?」
「僕は、持って来てるから」
そう言って、半ば強引に食券を渡した。
上司と食べるより、同期と食べる方が気が楽だろう。
給湯器のお湯が漸く沸いて、僕は席に戻った。
いつもと同じ手順。いつもと同じ匂い。
そういう昼だ。
けれど、今日はそれだけじゃ終わらなかった。
iPhoneが一度だけ震える。
画面を見ると、猫又から通知が来ていた。
[猫又]私はお休みです。働く人は、朝から働いて偉いですね。
僕は少しだけ笑う。
褒めているのか、揶揄っているのか、未だよく分からない。
でも、猫又の文は妙に声が見える。
[ユウキ]今日は新人の面倒をみてる。
送ってから、少し考えて足す。
[ユウキ]声を出す前に固まっちゃうタイプみたいでさ。
直ぐに返って来た。
[猫又]どういうことですか?面倒をみているのか、見張っているのか分かりませんね。
僕は、割り箸を持ったまま少しだけ口元を緩めた。
[ユウキ]どっちも違うかな。置いていかないようにしてる。
送信。
その一文を自分で観て、少しだけ変な気分になる。
朝藤さんの説明をしていたはずなのに、自分の話をしているみたいだった。
カップの中で、麺が少しずつ柔らかくなる。
昼休みのフロアは静かで、複合機の低い音だけが遠くで続いていた。
その静けさの中で、猫又とのトークだけが妙に体温を持っていた。
夜の十九時半、僕らは初日の勤務を終えた。
お互いにパソコンをシャットダウンしたところで、朝藤さんは「今朝はすみませんでした」と頭を下げた。
「気にしなくて良いよ。放っておいた僕が悪かったんだ。それよりも初日から残業させてしまってごめんね」
「いえ、仕事ですから」
「お疲れさま」
「はい。お疲れさまです」
そう言った朝藤さんは、僕に向き合ったまま動かない。
二人の間に数秒の沈黙が流れる。
こちらが切り出そうとしたとき、朝藤さんは言った。
「あの……駅までの道が分からなくて」
窓の外は、すっかり暗くなっていた。
室内の電灯が反射して僕らを映す。
七年前の椎名主任と僕──今日の朝藤さんと僕の姿が重なる。
僕が前を歩き、その少し後ろを朝藤さんが歩く。
いつもより、少し遅めに歩いているつもりだ。
二人の間に会話らしい会話は無い。
少し歩いては振り返り、また少し歩いては振り返る。
まるで、子猫を引き連れる親猫の気分だ。
「あの……」
後ろから、朝藤さんに呼び掛けられる。
少し、立ち止まり朝藤さんが追い付くのを待った。
僕と向かい合った朝藤さんは──
「お昼、ありがとうございました」
そう言って、今日何度も見た綺麗なお辞儀をした。
「ハンバーグ定食、美味しかった?」
手で朝藤さんを促し、横並びで歩く。
「はい。自分で作るより美味しかったです」
「アレは、食堂のおばちゃんの手作りだからね。所謂、お袋の味みたいなものだよ。そういえば、同期はどんな子と仲良くなったの?」
そう言うと、朝藤さんは少し俯いて黙った。
「ん?一緒に食べたんでしょ?」
暫く沈黙が流れる。
「……一人で食べました」
それを聞いたとき、鈍器で頭を殴られたかの様な衝撃を受けた。
お昼、食券を渡した後、朝藤さんは食券をおばちゃんに渡したのだろう。
僕の言うとおり、きっと隅の新人の輪に入ろうとしたのカモ知れない。
だけど、この社会人初日の朝藤さんは、声を掛けることもできず、空いている席に一人で座ったんだ。
隅のテーブルでは新人の子らの笑い声。
周りに知らない部署の人達が座る中、誰にも声を掛けられることも無く、朝藤さんは視線を落とし静かにハンバーグ定食を口に運ぶ。
食器を片付けるときも、他人の動作をそっと真似る。
まるで、大勢の中にたった一人だけ置き去られた子供の様に。
──人混みの孤独。
胸が痛い。
──この感情に名前はあるのだろうか?
僕は、決心した。
俯いて隣を歩くこの子を一人前の社会人にしよう。
いつか僕が居なくなっても、一人で生きていける様に。




