ep.62[Side Y/現代]Link: 猫又-01
閉店十分前のスターバックスで、僕は立ち尽くしていた。
画面の中には、たった一行。
[マッチング成立]相手:猫又
その文字列だけが、妙に現実味を持って光っている。
「……は?」
小さく声が漏れた。
でも、誰に向けた言葉でもなかった。
天羽ちゃんが不思議そうにこちらを見た気がしたけれど、僕はもう表情を取り繕う余裕が無かった。
紙袋を持ったまま、通知をもう一度見る。
見間違いじゃない。
何度見ても、同じだった。
猫又。
人狼でも。
エルフでも。
聖女でも。
そういう、何と無く人型を想像し易い肩書きじゃない。
猫又。
言葉だけで、少しだけ体温がある。
妙に具体的で、妙に得体が知れない。
「ありがとうございました」
遠くから、別のパートナーの声が聴こえた。
閉店の空気が店の中を薄く動いている。
僕は漸く瞬きをした。
それから、iPhoneの画面を伏せるみたいに少しだけ傾けた。
天羽ちゃんを見る。
顔だけで『どうしたんですか?』と言っているのが分かる。
「……帰るよ」
僕は天羽ちゃんに手を振り、店を出た。
自動ドアが開く。
夜の空気が頬に触れる。
工業街口駅前は、さっきまでより少しだけ人が減っていた。
その代わり、車の音がよく通る。
街灯の白い光が歩道を乾いた色で照らしていた。
僕は店の脇へ寄る。
邪魔にならない場所で立ち止まって、iPhoneを見下ろす。
通知は消えていない。
[マッチング成立]相手:猫又
指先が少しだけ止まる。
三人目……か。
いや、そういう数え方はもう意味が無いのカモ知れない。
お昼ちゃんが居た。
シルヴィが居た。
そして、どちらもトーク一覧から消えた。
また向こう側の誰かと繋がることに、以前みたいな高揚は無かった。
それでも、無視して消せるほど軽くもない。
僕は一度だけ息を吐いて、通知を開いた。
GatePair: Linkが立ち上がる。
黒い画面。
白い文字。
読み込みの円が一瞬だけ回って、それから新しいトーク画面が開いた。
アイコンの円の中で、黒い耳の生えた女の子がこちらを見ている。
長い黒髪。
黒地に赤と金の花柄が走る着物。
小さい画像なのに、目だけが妙に印象に残った。
人の姿だった。
でも、人だと決めてしまうには、何かが足りない。
肩書きより先に、ああ、これは向こう側の誰かだと思った。
でも、名前欄には確かに表示されている。
[猫又]
僕は少しだけ眉を寄せる。
普通なら、ここでどちらかが最初の一言を打つ。
でも、今日はその『普通』が妙に遠い。
誕生日プレゼントを渡せなかった帰り道に。
待ち惚けの紙袋を持ったまま。
閉店したスタバの灯りを背中に受けながら。
そんなタイミングで新しく誰かと話し始めるのは、何だか少しだけ不誠実な気もした。
でも、だからと言って。
画面を閉じたら、それで何かが綺麗になる訳でもない。
僕はトーク入力欄を見た。
──何て送る?
『こんばんは』──あちらも夜なのか分からない。
『初めまして、僕はユウキって言うよ。君は?』──テンプレになりつつある。
『猫ですか?』──『ねこですよろしくおねがいします』──『SCP-040-JPかよっ!』──通じるのか分からない。
最後のは違う。
というか、疲れてるなと思った。
指を置く。
打とうとして、止める。
夜の駅前。
車が通り過ぎる。
誰かの笑い声が遠くで切れる。
でも、僕の意識は全部、手の中の小さな光に集まっていた。
不意にメッセージが届く。
[猫又]こんばんは。
それだけだった。
僕は少しだけ首を傾げる。
いや、当たり前なんだけど。
当たり前なんだけど、GatePair: Linkの中で『当たり前の人っぽさ』に出会うと、逆に少し驚く。
返信欄を開く。
何て返す?
『こんばんは』?
『初めまして』?
そこまで打って、また止まる。
『初めまして』。
その五文字が、今日は少しだけ白々しい気がした。
僕は待ち惚けしていた。
プレゼントは渡せなかった。
手の中には、行き場の無い茶色ベルトの腕時計がある。
そんな日に、新しい誰かに向かって『初めまして』と言うのは、何かが違う気がした。
だから結局、僕は一番薄い言葉だけを返した。
[ユウキ]こんばんは。
送信。
僕は少しだけ歩き出した。
止まったままだと、何だか本当に足元から別の世界へ引っ張られそうだった。
駅前の横断歩道の方へ向かう。
信号は赤。
足を止める。
その間に、次のメッセージが届いた。
[猫又]ヒトの姿を見てがっかりしましたか?
僕は思わず画面を二度見した。
「何だそれ」
小さく笑ってしまう。
いきなり来る角度じゃない。
自己紹介でもなく、探りでもなく、先にそこを訊くのか。
文面は丁寧なのに、訊いてくる場所だけがやけに幼い。
猫又。
この時点でもう、ちょっと変だ。
信号は未だ赤だった。
周囲の人が前を向いて待っている中で、僕だけが手元のiPhoneに少しだけ口元を緩めている。
僕は返信を打つ。
[ユウキ]アイコンだけじゃ分からないよ。
送ってから、少しだけ足す。
[ユウキ]だから、がっかりなんてしない。
送信。
その小さな流れが、何だか呼吸みたいだと思う。
一人分じゃないテンポ。
メッセージが届く。
[猫又]未だ会ってもいないのに、がっかりしていないと断言するんですね。
少しだけ責めるみたいな文なのに、変に刺々しくない。
寧ろ、猫又側から不安の温度を感じる。
信号が青になる。
僕は歩き始める。
横断歩道を渡りながら返す。
[ユウキ]そもそも、いいねをしたのは僕からだし。
送った直後、少しだけ言い方がねちっこいかな?と思った。
今日の僕は、未だ上手く軽くなれていない。
だけど、もし猫又が不安を感じているなら取り除いてあげることの方が大事だった。
そして、直ぐに返って来る。
[猫又]面白半分でいいねをしたのなら、今直ぐブロックしてください。
[ブロック]の文字に、お昼ちゃんとシルヴィの影が浮かぶ。
[ユウキ]ブロックは帰る時にしか押さない。会う前には押さない。
少しの間があった。
横断歩道を渡り切り、高架下を歩く。
ポケットのiPhoneが震える。
[猫又]そうですか。
それだけ。
たった五文字。
なのに、妙に間が見える。
僕はドラッグストアのガラスに映る自分をちらりと見た。
紙袋を持って、スーツじゃない服を着て、夜の道でスマホを見てる男。
待ち惚けの帰り道にしては、少しだけ顔が緩んでいた。
次のメッセージ。
[猫又]それは安心しました。
その一言で、足が少しだけ止まる。
安心。
その言葉の置き方が、思っていたより素直だった。
巫山戯てるのか。
試してるのか。
揶揄ってるのか。
どれかだと思っていたのに、その最後に急に本音みたいなものが見える。
僕はゆっくり歩きながら返した。
[ユウキ]何を安心したの?
夜風が吹く。
紙袋の持ち手が、かさりと鳴る。
猫又から返事が来る。
[猫又]マッチングした相手は、退屈な人には見えません。
僕は、今度こそちゃんと笑ってしまった。
街の中で一人で笑うのは、少し危ない人っぽい。
でも、まあ、今更カモ知れない。
待ち惚けの帰りに猫又と話して笑っている時点で充分に訳が分からない。
それでも、その訳の分からなさが少しだけ助かった。
今日という日の輪郭が、待ったのに来なかった──それだけで終わらずに済んだ気がした。
僕は駅前の植え込みの脇で立ち止まる。
画面を見る。
トーク一覧の一番上に、今届いたばかりの相手が居る。
僕はほんの少し考えてから、返した。
[ユウキ]僕は、君が思ってたよりちゃんと喋るんだなって思ったよ。
送信。
この返信の速さが、何だか猫っぽいなと思った。
気紛れなクセに、食い付く時は速い。
次のメッセージが届く。
[猫又]失礼な人ですね。あなたは猫又を何者だと思っているのですか?
僕は少しだけ考える。
何だと思ってる?
思っていたほど、化け物ではない。
思っていたより、ちゃんと会話が出来る。
思っていたより、温度がある。
でも、そのまま書くのは未だ少し早い気がした。
だから僕は別の角度で返した。
[ユウキ]少なくとも、いきなりこんばんはの次に喧嘩売ってくるとは思ってなかったかな。
送信。
その間だけ、夜が少し静かになる。
車の音も、風の音も、全部が背景に下がる。
そして返って来た。
[猫又]喧嘩ではありません。確認です。
僕はその文章を見たまま、少しだけ眉を上げる。
──確認。
その言い方は、どこか本当にそうなのだと思わせた。
猫又は、巫山戯ているようで、一番最初に大事なところを見ている。
ヒトの姿を見てがっかりする相手か。
自分を面白半分で見る相手か。
多分、そういうことを……?
僕は歩きながら、紙袋を持ち直す。
誕生日プレゼントは、未だ渡せていない。
でも、手の中には未だ在る。
そして、iPhoneの向こうには、新しく繋がった誰かが居る。
今日は駄目だった日カモ知れないと思っていた。
でも、駄目だっただけの日には、ならないのカモ知れない。
そんなことを考えた時、また新しいメッセージが届く。
[猫又]ところで、今、何をしていましたか?
僕の足が止まる。
──今、何してたか。
答えは簡単だ。
好きな人の誕生日プレゼントを持って、スタバで三時間待って、会えなかった帰り道。
でも、それを初手でそのまま渡すのは違う。
重いし、変だし、何よりマッチングした相手に言うほどデリカシが無い訳じゃない。
僕は少しだけ考える。
考えてから、結局こう打った。
[ユウキ]待ち惚けの帰りかな。
送信。
それでも、嘘を吐くのは不誠実な気がして少しだけ誤魔化した。
待ち惚けの帰りに。
猫又と話している。
今日という日が、また少しだけ意味の分からない方向へ進み始めていた。
でも、不思議と。
嫌じゃなかった。




