ep.61[Side M/現代]Link: 人狼-07(後編)
十三時を過ぎても返事は来なかった。
私は机の上の紙袋へ視線を落とす。
取っ手に結んだ細いリボンは、未だ綺麗な形のままだった。
そっと口を開く。
中に入れたタッパーも、保冷剤も、きちんと収まっている。
ガトーショコラも、クッキーも、未だそこにある。
分かっている。
向こうには向こうの時間がある。
こちらの昼が向こうの昼とは限らない。
でも、そんな理屈は不安を止めてくれなかった。
私はソファに座る。
立ち上がる。
お手洗いに行く。
また戻る。
何かをしていないと、待っていることばかりが大きくなる。
画面は静かなままだった。
私が送った一文だけがそこに置かれている。
[ミユ]リンクしても良いですか?
たったそれだけの言葉なのに、今は少し重く見える。
相手に委ねている文章だからだと思う。
『良いですよ』と返って来れば進める。
来なければ、その先は何も出来ない。
私は台所へ行って、水道水をコップに注ぐ。
冷たい水を飲んでも、胸の奥のざわつきは消えなかった。
怖いんだと思う。
会うことが怖いんじゃない。
今はもう、それだけじゃない。
返事が来ないまま終わってしまうことの方が怖かった。
私はテーブルの上のiPhoneを見詰める。
文字だけの場所なら未だ居られると思っていた。
でも今は、その文字だけの場所で返事を待つことが怖い。
人の気配が無い。
顔も見えない。
声も聞こえない。
だからこそ、待つしか出来ない時間がそのまま空白になる。
十四時を過ぎる。
私は立ち上がって、もう一度紙袋を手元へ寄せた。
口を少しだけ開いて中を見る。
透明な蓋の向こうで、ガトーショコラはちゃんと形を保っていた。
クッキーも崩れていない。
折角作ったのに、と思う。
折角作ったからこそ、余計に痛い。
渡したい。
食べさせてあげたい。
その気持ちが、もうただの思い付きじゃなくなっていた。
だから返事が来ないことが、少しだけ苦しい。
私は紙袋の口を閉じて、そっと机の上へ戻す。
その手を止めて、思う。
このまま待ち続けることが、私を傷付けるかも知れない。
相手からの返事を待つ。
それは正しい。
でも、正しいことがいつも心を守ってくれる訳じゃない。
私はテーブルの前へ戻り、ゆっくり腰を下ろす。
時刻を見る。
十五時。
その数字を見た瞬間、私は決める。
待つのが怖い。
返事が来ないまま何も出来ないことが、もう嫌だった。
私はGatePair: Linkを開く。
トーク画面の下。
そこにある表示へ目を落とす。
[リンクを申請する]
白い文字。
細い枠。
指先で触れれば、それだけで済んでしまうくらい小さな行為。
でも、私にとっては小さくなかった。
相手に委ねるだけじゃなく、自分の方から一歩進める。
それは少しだけ恥ずかしい。
少しだけ怖い。
でも、今はそちらの方がマシだと思った。
私は人差し指で画面に触れた。
表示が切り替わる。
申請を送ったことだけが静かに残る。
私はそのまま、暫く動けなかった。
──送ってしまった。
胸の奥が急に空っぽになる。
待つことは変わらないはずなのに、今度は自分の気持ちまで向こうへ差し出してしまった感じがした。
窓の外の光が少しずつ柔らかくなる。
昼の白さが薄れて、部屋の中にも夕方の色が入り始める。
それでも、通知は来なかった。
十六時を過ぎる。
私は一度だけ、机の上の紙袋の取っ手に触れる。
持ち上げる。
でも、またそっと置き直す。
電波が悪いのカモ知れない。
気付いていないだけカモ知れない。
それとも、今日は難しいのカモ知れない。
理由なら幾つでも思い付く。
でも、理由を考える度に別の声が出る。
──断られたのカモ知れない。
私はその考えを、何度も頭の中から追い出そうとした。
でも、夕方に近付くほど、その言葉は少しずつ重くなる。
十七時前、私はとうとうソファに深く沈み込んだ。
もう諦めよう、と思う。
人狼とは縁が無かったのだと。
ガトーショコラもクッキーも、また明日食べれば良い。
自分で作ったものなんだから、自分で食べれば良い。
そう思おうとする。
でも、本当はそうじゃないことも分かっていた。
私は自分のためだけに、こんな風には作らなかった。
食べさせてあげたかった。
ちゃんと。
部屋の中は静かだった。
時計の針の音は聴こえないのに、時間だけが確かに進んでいる。
私はテーブルの上に伏せていたiPhoneを、もう見ないつもりで手に取る。
その瞬間、画面が震えた。
小さく、でもはっきりと。
私は息を止める。
反射みたいに画面を見る。
GatePair: Link。
通知は一行だけだった。
[リンク申請が承認されました]
私はその文字を、直ぐには意味として受け取れなかった。
承認。
承認された。
遅れて、胸の奥が一気に熱くなる。
さっきまで沈んでいたものが、急に持ち上がる。
私はiPhoneを握り直す。
机の上の紙袋へ視線が吸い寄せられる。
取っ手に結んだ細いリボンが、夕方の光を少しだけ返していた。
ボルドーのつま先が、床の上で小さく光る。
次の世界が、今、確かにこちらを向いた──




