ep.59[Side M/現代]Link: 人狼-07(中編)
翌朝、七時に目が覚めた時、部屋にはもう早い光が差していた。
四月十二日。
休みの日の朝だった。
私はベッドから身体を起こす。
足のつま先に視線を落とす。
ボルドーの色は、昨夜塗ったまま綺麗に残っていた。
未だ伸びていない。
当たり前のことなのに、それを確かめるだけで少し落ち着いた。
洗面台で顔を洗う。
髪を一つに纏める。
エプロンを付ける。
冷蔵庫から卵とバターを出した時、少しだけ緊張している自分に気付いた。
誰かのために作る。
しかも、相手の世界には無いものを渡すために。
そう思うと、いつもより手元が慎重になる。
板チョコを細かく割る。
包丁の先がまな板を小さく叩く。
湯煎に掛けると、黒い塊がゆっくりと艶のある液体に変わっていった。
そこへバターを落とす。
静かに混ぜる。
甘い匂いが未だ朝の空気の残る部屋へ少しずつ広がっていく。
私はその匂いを吸い込みながら、不意に思う。
向こうの世界には、この匂いが無い。
チョコレートが無いなら、これ自体が初めてのはずだ。
卵を泡立てる。
砂糖を入れる。
溶かしたチョコレートを合わせて、ホットケーキミックスを入れる。
大きく混ぜ過ぎないように気を付ける。
型に流し込んで、予熱していた電子レンジへ入れる。
扉を閉めたところで、私は小さく息を吐いた。
焼いている間に、クッキーの生地を作る。
バター。
砂糖。
卵。
ホットケーキミックス。
それから、チョコチップ。
指先に触れたチョコの硬さが少しだけ嬉しい。
この黒い小さな粒も、向こうには無い。
そう思うだけで、何だか秘密を包み込んでいるみたいだった。
丸めた生地を天板に並べる。
焼き上がりを想像して、少しだけ間隔を空ける。
電子レンジの中では、先に入れたガトーショコラが静かに膨らんでいる。
部屋は甘い匂いで満たされていた。
スターバックスの甘さとは違う。
もっと狭くて、もっと私の生活に近い甘さだった。
ガトーショコラの表面が少しだけ割れる。
それを見て、私は安心する。
ちゃんと焼けている。
粗熱を取ってから、クッキーも焼く。
焼き上がったチョコチップクッキーは、縁が少しだけ色付いていた。
中心には未だ柔らかさが残っている。
私は一つだけ割ってみる。
中から、溶けたチョコが少しだけ顔を出した。
これなら大丈夫。
そう思えた。
昼近くになって、私はガトーショコラを切り分ける。
崩れないように、でも丁寧過ぎないように。
タッパーへ入れる。
クッキーも別の容器に詰める。
保冷剤。
小さめの保冷バッグ。
必要なものを机の上へ揃えてから、私は少しだけ立ち止まった。
このままでも渡せる。
タッパーに入っているんだから、それで充分なはずだ。
でも、何だか少し味気無い気がした。
どうせなら、ちゃんと渡したかった。
向こうの世界へ持って行くなら、綺麗な形で渡したいと思った。
私は保冷バッグを一旦テーブルへ置き直して、上着を羽織る。
近くの雑貨屋へ向かった。
昼の街は、昨日の夜よりもずっと輪郭がはっきりしていた。
パン屋の匂い。
自転車のベル。
歩道に落ちる光。
全部が現代の昼で、それなのに私の頭の中だけは少し違う場所に繋がっている。
雑貨屋の棚には、透明の袋や紙の箱や細いリボンが並んでいた。
私はその前で少し迷う。
過剰に見えるのは嫌だった。
でも、何も無いのも違う。
結局、小さな紙袋と、深い赤に近い細いリボンを選んだ。
私のボルドーより少し明るい。
でも、甘過ぎない色だった。
部屋へ戻ってから、私はもう一度タッパーを机の上へ並べる。
紙袋の底に薄い紙を敷く。
保冷剤が見え過ぎないように位置を整える。
その上へ、ガトーショコラとクッキーを入れる。
紙袋の取っ手にリボンを結ぶ。
上手く行かなくて、一度解く。
もう一度、少しだけ丁寧に結び直す。
それだけのことに、思っていたより時間が掛かった。
でも、嫌じゃなかった。
誰かに渡す形を整えている。
自分のつま先と同じ色で──。
それが少しだけ、照れ臭くて嬉しかった。
私は漸くiPhoneを手に取る。
GatePair: Linkを開く。
白い入力欄が静かに待っている。
少しだけ迷って、それから打ち込む。
[ミユ]リンクしても良いですか?
送信する。
右側へ自分の言葉が並ぶ。
鼓動が少し速くなる。
私はiPhoneをテーブルへ置いた。
でも、直ぐにまた手に取る。
そして、また置く。
返事は来なかった。
私は一度、窓際へ行って外を見る。
昼の光。
静かな住宅街。
洗濯物が風に揺れている。
戻って来て、また画面を見る。
何も変わっていない。
冷蔵庫を開けて、麦茶を注ぐ。
それでも気になって、またiPhoneを見る。
変わらない。
返事を待つ時間だけが、妙に長かった。
忙しいのカモ知れない。
向こうにも都合があるのだろうと思う。
分かっている。
分かっているのに、返事が無いことがそのまま拒絶みたいに見えてしまう。
私は唇を少しだけ噛んで、iPhoneを伏せる。
返事が来ないまま、昼の光だけが少しずつ傾いていった。




