ep.58[Side M/現代]Link: 人狼-07(前編)
四月十一日、遅番だった。
施設に着いて更衣室でスクラブに着替える。
薄いピンクの生地に腕を通し、名札を胸元に留める。
鏡の中の自分は、朝の寝起きの顔より少しだけ仕事用の顔に見えた。
フロアへ出る前に、申し送りの紙を確認する。
その時、後ろから少しだけ緊張した声がした。
「おはようございます」
振り向く。
見慣れない顔だった。
背は私より高い。
髪は短くて、未だ新しい制服が少しだけ硬そうに見える。
名札には、三上と書かれていた。
「あ……おはようございます」
「三上渚です。四月から新卒で入ったんですけど、シフトがずっと合わなくて……今日、初めてで」
「そうなんだ」
私は少しだけ頷いてから、改めて三上くんを見る。
今年入った新卒の介護職員。
二十五になった私より二つ下。
私にとっては、初めて出来た後輩だった。
──後輩。
その響きを、私は心の中でゆっくり転がす。
未だ自分が教わる側みたいな気持ちがどこかに残っているのに、いつの間にか教える側に回っている。
少し不思議で、少しだけ背筋が伸びる言葉だった。
「五十嵐さん、ですよね」
「うん。よく分かったね」
「はい。一番歳が近くて、未だお会い出来てなかったのが五十嵐さんだけだったので……」
「そっか。分からないことがあったら、何でも訊いて」
「はい。よろしくお願いします」
そう言って頭を下げた顔は、未だ少し硬い。
真面目そうだと思う。
きっと色々と気を張っているんだろう。
私は申し送り表を半分ずらして、三上くんにも見えるようにする。
ちゃんと私が育てなきゃ、と思った。
誰かを支えることには慣れているつもりだった。
入居者さんも。
ご家族さんも。
同僚も。
でも、後輩は少し違う。
仕事そのものを覚えてもらう必要がある。
安心だけじゃなくて、形にして渡さなきゃいけない。
午前のフロアは、思っていたより静かに始まった。
食事介助。
水分補給。
トイレ誘導。
記録。
三上くんは未だ動きに無駄が多い。
でも、言われたことを一つずつ丁寧にやろうとしているのが分かった。
速さはないけれど、雑でもない。
悪くない、と思う。
急がせるより先に、慣れてもらった方が良い。
昼を少し過ぎた頃だった。
デイルームの奥から、大きな声が上がる。
「違う!帰るの!今直ぐ!」
身体が、一瞬だけ止まった。
杉本さんの声だった。
午前中から少し落ち着かない様子はあったけれど、ここまで声が大きくなるとは思っていなかった。
「杉本さん、どうしました」
「帰るって言ってるでしょ!家に帰るの!」
目の前で私に向けられたその大きな声が、思った以上に鋭く胸へ刺さる。
次の瞬間、息の通り道が少しだけ狭くなる。
肩の奥が硬くなる。
視界は普通なのに、身体だけが異世界を思い出しかける。
大きい声。
急な音。
自分に向かって来る強い気配。
頭では違うと分かっている。
ここは施設で、目の前にいるのは杉本さんだ。
森でも、洞窟の格子でもない。
それでも、一拍だけ身体が遅れた。
その時、三上くんが動いた。
「杉本さん、びっくりしましたよね。こっち座りましょうか」
三上くんは私より半歩前に出て、杉本さんと目線を合わせるように少し腰を落とした。
声は意外なくらい落ち着いていた。
「お茶、飲みませんか。少しだけ」
「帰るの!」
「はい。でも、その前に一回だけ座りましょう。荷物も持ちましょうか」
強く止めない。
言い返さない。
声を上げた相手に、声を重ねない。
そのやり方に、私は少しだけ息を取り戻す。
杉本さんは未だ落ち着かない様子だったけれど、三上くんが椅子を引いて、その隣に温かいお茶を置く頃には、声の大きさが少し下がっていた。
私はそこで漸く足を動かし、二人のところへ近付く。
「杉本さん、今日は少し疲れたのかもしれませんね」
「……帰るの」
「うん。帰りたい気持ち、ありますよね」
杉本さんの手が湯飲みの縁に触れる。
それだけで、さっきより少しだけ空気が変わる。
十分ほどして、杉本さんは椅子に深く座り直した。
表情も最初ほど険しくはなかった。
私は小さく息を吐く。
喉の奥に引っ掛かっていたモノが、少しだけ下りていく。
廊下へ出ると、三上くんがこちらを見た。
「あの、さっき……ありがとう」
「いえ、五十嵐さんには教えてもらってばかりで……。俺は男だから、こういう時は任せてください。あ、仕事は未だ任せないでください。自信無いんで」
三上くんの笑顔を見て、ふと胸が軽くなるのを感じた。
「うふふ……じゃあ、早く覚えてもらって楽させてもらおうかな」
「あ、サボろうとしてますね?」
「違う。一人前になるにはある程度任せないとね」
「……その目、絶対に楽する気だ」
「えー、どうかなぁ?」
「五十嵐さん、仕事はちゃんとやらなきゃ駄目ですよ」
「はぁーい」
少しだけ笑ってしまう。
さっきまで身体の奥に残っていた硬さが、その笑いで漸く解けた気がした。
でも、本当に──助かったのは私の方だった。
あの一瞬、身体が固まったことを、三上くんは多分はっきりとは知らない。
知らないまま、自然に前へ出てくれた。
そのことが少しだけありがたかった。
勤務が終わる頃には、外はもう薄暗くなっていた。
更衣室で着替えながら、私は今日一日のことを頭の中でゆっくり並べる。
三上くんのこと。
杉本さんの声。
自分の身体が一瞬だけ強張ったこと。
それでも、その後ちゃんと仕事に戻れたこと。
そして、昼休みに決めたことを思い出す。
帰り道、駅前のスーパーへ寄った。
製菓材料の棚の前に立つ。
森永の板チョコ。
無塩バター。
卵。
ホットケーキミックスも買い足す。
ガトーショコラとクッキー、両方作れるだけの分が欲しかった。
そして、クッキー用のチョコチップも籠へ入れる。
人狼の世界には、チョコレートが無い。
なら、ガトーショコラだけじゃなくて、チョコチップクッキーも持って行こうと思った。
向こうに無い味を、もう一つ渡したかった。
籠の底で、材料同士が乾いた音を立てる。
その一つ一つが、気持ちを少しずつ現実の形にしていくみたいだった。
スーパーを出た後、私はそのまま薬局へ向かった。
クオリティファーストのダーマレーザー スーパー セラミドマスクを探す。
見付けて、少し嬉しくなった。
数量限定で八枚入りになっていたから。
それから、ネイル売り場の前で小さな瓶を手に取る。
ボルドーのマニキュア。
黒に寄り過ぎず、でも甘過ぎない色。
私はそれを見ながら、静かに考える。
異世界の時間と、現代の時間はずれている。
iPhoneが手元にあれば分かる。
でも、リュミエルの時みたいに、ずっと持っていられるとは限らない。
だから、身体のどこかに目印を置いておきたかった。
爪の伸び方なら、誤魔化せない。
足先なら、普段は人に見られない。
伸びた爪の長さで時間の流れの手掛かりにはなるはずだった。
コットンと除光液も籠に入れる。
私は会計を済ませて、薬局の袋を提げて外へ出る。
夜の空気は少し冷えていた。
でも、手の中の袋は妙に温かく感じた。
ガトーショコラの材料。
チョコチップクッキーの材料。
化粧水パック。
ボルドーのマニキュア。
どれも小さなものばかりなのに、それを持っているだけで明日の輪郭が少しだけ見える。
部屋に帰って袋をテーブルへ置く。
私は一つずつ中身を出して、静かに並べた。
──小さなボルドーの瓶。
その赤は飾りじゃなかった。
私が次の世界で時間を失わないための、身体に残す目印だった。
夜、私はいつもより少しだけ早くお風呂を済ませた。
パジャマに着替えて、髪を乾かす。
ドライヤの風が頬を撫でる度、今日一日の輪郭が少しずつ柔らかくなる。
私は冷蔵庫から冷やしていた化粧水パックを取り出し、袋を開けた。
薄いシートを顔に乗せる。
ひやりとした感触が肌に広がった。
目を閉じる。
大きな声。
施設の白い廊下。
三上くんの落ち着いた声。
杉本さんの震えた手。
今日のことを思い返す。
思い返しても、もう昼間みたいな強張りはなかった。
完全に消えた訳じゃない。
でも、今はちゃんとここにいる。
パックを外した後、私は足元に視線を落とした。
小さな瓶の蓋を開ける。
マニキュアの匂いが少しだけ広がる。
足の爪の表面に刷毛を当てる。
一枚。
乾かして、もう一枚。
深い赤が足先へ静かに乗っていく。
私はそれを見ながら、心の中で小さく確認する。
これはお洒落じゃない。
可愛く見せたいからでもない。
異世界の時間を、身体で測るための印だ。
もしiPhoneを手放すことになっても。
もし時計が見られなくても。
どれくらい爪が伸びているかで、何かしらの手掛かりにはなる。
──強制切断。
強制切断されたら、きっと戻って来れなくなるんだと思う。
私はつま先の赤を見詰めたまま、ゆっくり息を吐く。
準備しているんだと思った。
ただ会いに行くためじゃない。
向こうの世界に行くことを、ちゃんと理解しようとしている。
ペディキュアが乾くのを待ちながら、私はキッチンを軽く片付けた。
明日の朝、直ぐに動けるように。
型も、泡立て器も、ボウルも、使い易い位置へ出しておく。
ベッドへ入る時、部屋はいつもより少しだけ静かに感じた。
私はiPhoneを手に取る。
GatePair: Linkを開く。
人狼とのトークは、昼間から動いていない。
それでも、不思議と不安だけではなかった。
明日は作る。
こっちの世界の本物のガトーショコラを。
それから、チョコチップクッキーも。
その気持ちだけを胸の中に置いて、私は目を閉じた。
深い赤が足先で静かに私を待っていた。
明日の私は、その色を連れて向こうへ行く。




